年間第10主日 勧めのことば
2024年06月09日 - サイト管理者年間第10主日 福音朗読 マルコ3章20~35節
<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗
今日の福音では、人々の無理解ということがテーマになっています。先ず「イエスのことを聞いて取り押さえに」来た「身内の人たち」が登場します。続いて「エルサレムから下ってきた」権威をもっている「律法学者」たちが出てきます。イエスさまの身内の人たちは、イエスさまを小さい時からよく知っていたはずです。母と書かれていますからマリアさまのことでしょうし、兄弟というのは、イエスさまのいとこや親族のことを指しています。彼らは、イエスさまが病人をいやしたり、悪霊を追い出したりしている噂を聞いて、あれは気が変になっているといってイエスさまを取り押さえに来たと書かれています。取り押さえに来るというのですから、尋常のことではありません。またエルサレムから下ってきた律法学者たちも、あれは悪霊の頭の力で悪霊を追い出していると決めつけます。どうして、無理解ということが起きるのでしょうか。
人間は自分の経験と自分の範疇の中でものごとを頭で理解しようとし、自分の理解を超えたことについては、基本的に不安や恐怖を感じます。なぜなら、人間は自分の頭で理解できないことを受け入れられないからです。ですから、わたしたちは自分の知らないもの、また自分の理解できないものを、異物として警戒し、不安を抱き、排除しようとします。エイリアンということでしょう。ですから、わからないものには、必ず名前を付けようとします。そうすることで、理解しようとするのです。
牧野富太郎は「雑草という名の草はない」といい、すべての植物には名前があるといいました。しかし、植物は自分が何々草であると名乗っているわけではありません。人間がその植物に勝手に名前を付けただけにすぎません。また、例えば水の流れに対して、鴨川という名前をつけて理解したつもりになるのです。方丈記のなかで、「ゆく川の流れは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人と栖と、またかくのごとし」といっています。川の流れというものは、絶え間なく移り変わっていく現象であって、それに実体はないといっています。にもかかわらず人間は、自分たちの都合で、鴨川という名前を付けるのだということなのです。人間はわからないということに、本能的に恐怖を感じます。わたしたちはそのものに名前を付けることで、理解して安心したいのです。というか、人間が世界を理解していくためには、ものごとに名前を付けて概念化していくことでしか理解することができないのです。名無しの権平というわけにいかないのです。
ですから、イエスさまの身内の人たちは、あれは気が変になっているといい、律法学者は、あれは悪霊の頭に取りつかれているというふうに決めつけることで自分たちがイエスさまをわかったつもりになり、安心しようとするのです。この人間の行為を、ラベリングといいます。最近のインターネットではタグをつけるともいわれていることです。このラベリングやタグをつけるというのは、現代社会において、当たり前のこととなっていますが、根底にあるのは、人やものに名前やイメージを植え付けることで評価を固定し、対象となる相手やものを自分自身の影響下に置いて支配するという、人間の心理現象をさしています。そのことが創世記の中では、人間が神さまに代わって生き物に名前を付けるという行為として記されています(2:19)。このことをわたしたちは当たり前のこととしてやっているのですが、この名前を付けるという行為やラベリングは、実はものごとをそのままありのままで受け入れるのではなく、わたしという身に引き寄せて、わたしに都合よく理解していくという危険性を孕んでいる行為でもあるのです。ですから、ラベリングという行為は、しばしば先入観や固定概念で相手を決めつけ、偏見やレッテルを貼ることになっていきます。これは人間の根本的な世界理解の方法なのですが、このことが人間社会に大きな問題を引き起こす原因ともなっているのです。そして、このラベリングをする際に大きな役割を果たしているのが人間の言葉なのです。
わたしたちはすべてのものに言葉で名前をつけることで、わたしたちは相手やものをわかったつもりになるということをしているわけです。わたしたちは生まれてきたときに名前がありません。しかし、親がこの子はこういう子になってほしいと願って名前を付けます。そして、その名前を呼び続けることで、その子はその名前そのものと不可分となっていきます。さらに成長するに従って、男女、子ども、生徒、学生、社会人らしさという肩書等がわたしにくっ付いてきます。そして、その名前や肩書、役割、偏見、レッテルがわたしらしさというものを構成する一部、あるいはすべてとなってしまうのです。その役割を果たしているのが言葉です。しかし、わたしたちには名前というものが付けられる以前のいのちそのものとしてのわたし、また“わたし”という言葉以前の何某がいるのです。わたしたちは、いのちの上に言葉が乗っかかるようになり、いのちにつけられた言葉がわたしたちを構成し、その言葉がわたしたちを束縛し、またわたしがその言葉に執着するようになっていきます。わたしたちは、このような言葉の世界に生きていますから、その言葉によって生き、また言葉によって傷つき、言葉によって捕らわれ、言葉によって惑わされているのです。わたしは人間であり、キリスト者であり、司祭であり、男性ですが、その逆がそのままわたしではありません。なにものによっても規定されないわたしというものがあるのです。しかし、わたしたちは人の言葉によって力づけられたりしますが、また傷つけられたり、立ち上がれないほど深く傷つけられること、ある意味で殺されることもあるのです。
キリスト教は言葉の宗教であるといわれるほど、言葉が大切にされています。そして、言葉ですべてを説明しようとします。そもそも、“神”という言葉も、これはキリスト教の神さまのことを指すかのように思っていますが、そうではなくすべてのいのちの源であるものを、わたしたちの言葉で“神”というふうに呼ぶことにしただけなのです。日本語では「カミ」と呼び、ラテン語ではデウスとなり、英語ではゴッドになる。これは人間が、自分たちの言葉では言い表しえないなにかを、そのような名前、仮名(けみょう)として呼ぶということに決めただけに過ぎないのです。しかし、人間は名前を付けることでなんとなくわかったような気になり、そのものを理解したような気になるのです。そして、多くの宗教は神の名前を使って、いろんなことを自分たちに都合よく説明し、利用するようとなっていくのです。これが十戒で「神の名をみだりに呼んではならない」と戒められていることの意味なのです。
そもそも人間が言葉を使うということ自体が、根本的な問題、錯覚や誤解、愚かしさ、迷いというものを抱えているということを意識しておかなければならないと思います。人間はすべてのもの、すべての現象に名前をつけて、それを実体化しようとしていきます。そして、それをすべて人間の所有物としてわかったつもりになり、自分に都合よく利用してきたというのが人類の歴史であり、人類の社会・文化活動であり、また同時に人類の罪を構成してきたのです。
このように、わたしたちは、世界を言葉によって理解しますが、言葉によって迷っているのだということができると思います。言葉によって救われますが、言葉によって傷つき、迷い続けているのです。わたしたちの苦しみの多くは、わたしがわたしであると思っているわたしがわたしのようでないことからくる苦しみ、また相手がわたしの思っているような相手でないことからくる苦しみです。わたしたちが言葉で考え、言葉で決めつけて、言葉に迷い、言葉で苦しんでいるのです。そのような言葉に迷い続けているわたしたちに、イエスさまが真実の言葉となって訪れ、わたしたちに言葉で語りかけてくださったのです。ですから、イエスさまは“真実のいのちのみことば”と申し上げるのです。ですから、今日もわたしたちはいのちのみことばであるイエスさまに聞き続けていくのです。