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教会からのお知らせ

年間第11主日 勧めのことば

2024年06月16日 - サイト管理者

年間第11主日 マルコ4章26~34

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日は神の国についての2つのたとえが話されます。イエスさまが、ご自分の人生と死をかけて宣べ伝えようとされたのは神の国でした。ここでは、神の国は成長する種とからし種にたとえられています。からし種のたとえは、マタイ、ルカに並行箇所がありますが、成長する種のたとえは省かれています。マルコ福音書は最初に書かれた福音書であり、イエスさまご自身に遡るものであると捉えられています。にも拘わらず、成長する種のたとえ話は省かれてしまっています。省かれているということは、おそらくマタイ、ルカはこのたとえの意味を理解できなかったからであると思われます。

聖書の中で、特にマルコ福音書においては、弟子たちの無理解ということが大きなテーマになっていますが、マルコに出てくる弟子たちは、イエスさまの生き方とメッセージを理解することができませんでした。それでは、イエスさまの復活の後には理解できたのかというと、必ずしもそうではありません。マルコ福音書はその全体を通して、絶えずイエスという方は誰かということを問い続けていきます。マルコ福音書はイエスさまの復活については触れず、イエスさまの空の墓で天使がガリラヤに行きなさいと告げるところで終わっています。つまり、マルコ福音書は、イエスさまが育ち、生活されたガリラヤ、弟子たちがイエスさまと出会ったガリラヤへ、つまり、読み手を夫々の生活の場としてのガリラヤへ絶え間なく誘うという構造になっているのです。ですから、マルコ福音書においては、イエスさまは誰かということが絶えず問われ続けているのです。マルコ福音書は、キリスト教の教義としてのイエス・キリストを紹介するものではないということです。

そのイエスさまが、生涯をかけて人々に伝えようとされたのが神の国ということになります。ですから神の国を問うということは、イエス・キリストとは誰かを問うことに他なりません。そこで先ず、押さえておきたいことは、イエスさまが宣べ伝えられた神の国は、当時の弟子たちが考えていた新しい社会形態、政治形態ではないということです。弟子たちの多くがイエスさまに期待していたことは、イスラエル王国の再建でした。当時のイスラエルは、ローマ帝国の支配によって、自由に神さまに礼拝を捧げることができず、重税を課され、苦役を強いられていました。ですから、弟子たちがイエスさまに期待したことは、そのような植民地支配を終わらせ、新しく国家を再建する力強いリーダーシップのある政治的な指導者でした。当時、そのような指導者がメシアと呼ばれ、そのメシアによって建設されるのが神の国であると理解されていました。しかし、イエスさまが十字架上で処刑されて、周りのユダヤ人たちの目論見が崩壊したあと、イエスをメシアとして信奉するようになった人々の中で、メシアが再臨するという終末思想が広がりました。それは、イエスさまが王として近い将来再臨され、ローマ帝国は駆逐されて、神の国が完成するというものでした。結局、イエスさまが再臨されるということはありませんでしたが、初代教会はこの終末思想をそのまま受け継いでいきます。そして、その後終末思想は修正されて、教会の教えとして、死んだ人々がいく天国、キリストの再臨、最後の審判、楽園という終末論が形成されていきます。しかし、イエスさまが生涯をかけて宣べ伝えようとされた神の国は、新しい社会形態、政治形態でも、人々が死後に行くといわれている天国のことでも、この世が完成されたときに訪れる楽園でもありません。中世では、神の国は教会と同一視して語られ、それが近代まで続きます。

このような誤解がどこから生じたのかと考えると、イエスさまが宣べ伝えようとされた神の国が、人間の通常の論理ではいい表しえないことであったからだと思います。ですから、イエスさまは「神の国は○○である」とは決していわれず、必ず「神の国は○○のようにたとえられる」といわれました。また、イエスさまは神さまについても語られましたが、「神さまは○○である」とはいわれずに、例えば、いつくしみ深い父親のようだとか、善人にも悪人にも太陽を昇らせ、雨を降らせられるような方であるといわれました。イエスさまは、神さまを“天の父、アッバ”と教え、また”アッバ父よ“祈られましたが、いわゆる文字通りに神さまが父であるという意味ではないのです。これもたとえなのです。そのような状況の中で、神の国を成長する種としてたとえられたのです。そして、そのたとえが直ぐにマタイ、ルカから省かれたということは、マタイとルカはこのたとえを重要だとは考えなかったということなのですが、それは裏を返せば、マタイとルカはこのたとえの重要性を理解できなかったということです。ですから、この成長する種のたとえの中で語られていることの中に、神の国を理解していくための大切なポイントがあるといえるでしょう。

神の支配といわれる神の国は、土にまかれた種のようであるといわれています。そこでは、土に種を蒔くという人間の関与がなされていますが、中心は土にまかれた“種”であり、その種は夜昼、人が寝起きしているうちに、芽を出して成長していく、しかし、どうしてそうなるのか人はわからないといわれています。この人間の側からはわからないという、人為の及ばないところで何かがひとりでに動いていくところに神の国の働きがあるというふうにいわれています。わたしたちは、とかくすると種を蒔く人間の行為、また水をあげ、世話をする行為があるから種は成長するのだというふうに考えがちです。例えば、「心の貧しい人は幸いである」といわれると、“わたしたちが”心の貧しい人にならなければならないと考えてしまいます。しかし、イエスさまは「心の貧しい人は幸い」といわれただけであって、心の貧しい人になりなさい、そのように努力しないと神の国に入れませんよといわれたのではありません。神の国の真実に目覚めた人は、そのようになるといわれたのです。それが心の貧しい人は幸いという意味なのです。つまり、わたしたちが何かをしたからとか、何かをやったからそうなるのではなくて、わたしたちの行いや働き以前に、わたしたちを動かしている大きな働きがあり、それがすべてのものごとの背後にあって、わたしたちを生かし動かしている、その働きを神の国といい表そうとされたのではないでしょうか。

確かに、種の芽が出て、成長していくためにはいろいろな条件が必要です。人の手、空気、土、水などなど。しかし、それではそれらの条件が整えば芽が出るかというと、そうではなく種そのものがなければならないし、またいろいろな条件も必要です。それらすべてのものの背後にあって、そのものを動かし、またそれらをすべて生かしている大きな働き、それを神の働き、神の支配、神の国というのではないでしょうか。それは人間の力、思惑が及ばぬ、もっと奥にある現実、真実のことではないかと思います。それは、善人にも悪人にも太陽を昇らせ、雨を降らせるといわれているように、人間の考え方や思惑に左右されないものなのです。これがイエスさまの教えでは、敵への愛となって表れてきます。

イエスさまが説かれた神の国は、命令とか、倫理ではなくて、「おのずからそうなる」といわれたものなのだといったらいいでしょう。強盗に殴られた人を助けたサマリア人のたとえ話は、とかくするとわたしたちもよいサマリア人になりましょうという倫理、人助けの話として受け取られがちです。「その人を見て憐れに思い、近寄って」といわれているように、思わず駆け寄った、“おのずからそうなった”という動きの中に神の国の働きを見ているということだと思います。サマリア人が思わず駆け寄ったのは、それが律法の命令だから、隣人愛の実行だから、天国に行くためだからではありません。そのような人間の己の思惑を超えたところで、何かが働いてサマリア人を突き動かしているのです。このことが神の国なのです。ですから、神の国は義務でも、命令でもなく、教会の教えでもありません。すべてを超えてわたしたちを生かし、支え、働いているその大きな何かであるといったらいいでしょう。そのことに目覚めた人が心の貧しい人、つまり自分という思惑から解放された人であり、幸いな人といわれているのです。ですから神の国は、いつか来るとか、どこかにあるというものではなく、今ここに、わたしたちの内に実現している何か、わたしたちを突き動かしている真実であり、ある意味で自然にあるということではないでしょうか。

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