年間第12主日 勧めのことば
2024年06月23日 - サイト管理者年間第12主日 福音朗読 マルコ4章35~41節
<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗
「向こう岸に渡ろう」これはイエスさまからの呼びかけです。聖書に出てくる海や湖は、人間の力ではコントロールできないものの象徴です。わたしたちは、自分の力でどうすることもできないたくさんのものを抱えています。というか元気な時は、わたしたちは自分の人生の中で自分の思い通りにならないものがあるということをなかなか認めようとしません。仏教では生老病死といって、わたしたちの人生自体が苦しみであり、決して人間の思う通りにはならないと教えています。人間は思い通りにならないものを自分の思い通りにしようとし、そうすることができないことから苦しみが生じ、にもかかわらず思い通りにしようとし続けることを人間の迷いであると教えています。宗教は、そのような思い通りにならないものを、信仰の力によって人間の思いをすえ通らせることだと勘違いしている人たちがいます。ですから、今日の福音も気をつけて読まないと、嵐になって困っている弟子たちが、イエスさまに頼むと嵐を鎮めてくださったというふうに捉えてしまいます。宗教はわたしたちの問題解決をするものでもないし、わたしの都合をかなえてくれるものでもないのです。
そもそも、わたしたちが思い通りにならないとか、苦しんだりするのはなぜかというと、わたしたちは自分を含めて、他の事象が自分の思い通りになると思っているからなのです。わたしたちは生きるということについて、わたしたちは自分の力で息をしているわけではないし、自分の意志で心臓を動かしているわけでもありません。わたしたちが生きるということについて、わたしが自分の力でしていることはほとんどないのです。もし、わたしたちが生きるということを自分の力でできるのであれば、だれも病気にならないはずですし、年も取らない、死ぬこともないはずです。しかし、どれだけ科学や医療が進歩しても、病気にならなくなることはありませんし、年を取らなくなることもありません。死ななくなるということもないのです。人間が生きるということは、年を取り、病気になり、必ず死ぬということなのです。これこそは、だれも否定することのできない真実です。わたしたちは神さまを信じますといいますが、わたしたちは誰も、人間は病気になって、年を取って、死ぬことを信じますといいません。それは、だれかに証明してもらう必要も、教会の教えとして規定する必要もないほど真実だからです。でも、わたしたちは、人間は病気になって、年を取って、死ぬことを受け入れられないのです。なぜならば、自分の体、自分のこころ、自分の何かを自分の所有物だと錯覚しているからなのです。
わたしたちは自分の体といいますが、わたしたちの体はわたしの意志とは全く関係なしに動いています。わたしのこころもわたしの意志と関係なく反応してしまいます。怒ってはいけないと思っても、腹が立ちますし、笑ってはいけないと思っても笑ってしまいます。わたしの体もわたしのこころも、何ひとつわたしの思い通りにはなりません。それなのに、わたしの体、わたしのこころ、わたしの家族、わたしの教会、わたしの教区などというのです。それらはすべて錯覚なのです。そしてそれこそが、人間の迷いであり、罪の根源にあることなのです。そのような人生に迷い続けているわたしたちに、イエスさまは「向こう岸に渡ろう」といわれたのです。
今日、「向こう岸に渡ろう」といわれたのはイエスさまです。このわたしの人生、苦海ともいえる旅で、舟をこぎだそうといわれたのはイエスさまなのです。わたしの人生の主人公はわたしではないのです。イエスさまがわたしの人生の主人公、わたしの人生そのものなのです。しかし、人間は大脳が発達することで情報処理能力と分析能力を手に入れました。そして、人類はあらゆるものを分析して、人類があらゆるものの所有者であるかのようにふるまってきました。弟子たちは湖が凪で、穏やかなときは、船を自分たちの思うように操れます。しかし、ひとたび嵐となれば、船を操ることなどできなくなるのです。いくら人間が船を操れるとしても、それはほんの一部分のことでしかありません。そんなこと当たり前のことなのです。しかし、弟子たちは自分たちは自在に船を操れるといって、自分の全能感を味わい、自分たちがこの人生の主人公であるかのように感じているのです。ほとんどの人間がそのように一生を終えていくのではないでしょうか。その船の艫-舟の後方の部分-に、イエスさまがおられるということなど、わたしたちは考えたこともないというのが現実でしょう。教会にきて、ミサに参加して、信者であるといっているかもしれませんが、それでは、わたしたちは自分教の信者でしかないのです。ありがたいことに、そのようなわたしたちに思い通りにならない現実が襲い掛かってくるのです。
多くの人は、そのような災難に会うのは、悪いことをしたから罰が当たっているのだとか、信仰が薄いからだとか、神さまからの試練だとかいいます。このような考え方はすべて間違いです。信仰のよしあし、強弱、善人悪人に関係ありません。このようなことをわたしたちが体験するのは、わたしが生きているからなのです。つまり、当たり前のことだということなのです。そのことがわからずに、信仰が弱いからだとか、じゃうちの宗教を信じたらよくなるとかいうようなことは、すべて嘘っぱちです。そんなこと関係ないのです。これは生きているということなのです。日本では、悪い生き方をしていると、畳の上で死ねないといいましたが、そんなことをいえば、イエスさまの最期は日本でいうなら磔獄門、極刑です。あれほど酷い死に方が他にあるでしょうか。たとえどのような人生であっても、わたしの人生の主人公は、わたしの旅の船頭さんはイエスさまであるということなのです。ただ、イエスさまは艫の方でいつも眠っておられますから、わたしたちは自分の人生、旅の主人公がイエスさまであることに気づかないのです。
しかし、イエスさまという救いの舟に乗っている限り、舟は必ず向こう岸に着きます。わたしたちは、東京行の新幹線に乗ったら、安心して荷物を降ろして席に座ります。それは、この新幹線が、必ず東京に着くことを知っているから、新幹線に自分を任せて座っていられるのです。しかし、わたしたちの現実は、東京行の新幹線に乗りながら、ちゃんと着くかどうか分からないので、新幹線の中で荷物を抱えて、一生懸命走っているようなものではないでしょう。そのようなわたしたちに、イエスさまは、「あなたの荷物を降ろして、わたしを信じて任せなさい」といわれているのです。生きようが、死のうが、あなたはわたしのうちにいるといわれているのです。それが「なぜ怖がるのか。まだ、信じないのか」というイエスさまのことばは、任せ切ることができないわたしたち人間への呼びかけとなっているのです。
宗教は、わたしの人生の主人公はわたしではなく、イエスさまだ、大いなるいのちなのだという真実を告げ知らせることなのです。何かを信じたらよくなるとか、うまくいくとか、天国にいくではないのです。そんなことを教える宗教は偽物です。わたしが信じることで何とかなると思っているような信仰は、人生の老病死や困難の前ではいとも簡単に崩れ去ってしまいます。人間の作り出せるものは信念であって、信仰ではありません。わたしたちが、安心して新幹線に乗っていられるのは、わたしの信念のおかげではなく、新幹線の性能と安全性のおかげです。わたしたちが信じられるとしたら、その信仰を引き起こしているのは、間違いなくイエスさまご自身に他ならないのです。わたしの心が強いからでも、わたしの努力の結果でもないのです。わたしの信仰など何物でもありません。わたしたちの人生は、イエスさまという大いなるみ手の中にあるのにもかかわらず、わたしたちは反抗し、自己主張をし続ける。わたしは、その愚かささえも分からないほどの愚かさの闇を抱えています。しかし、そのわたしをも抱き取って離さないイエスさまのみ手の中に、救いの願舟に乗せられているということなのです。ですから、信仰とはわたしの中に引き起こされますが、わたしが自力で作り出せるものではないのです。