年間第14主日 勧めのことば
2024年07月07日 - サイト管理者年間第14主日 福音朗読 マルコ6章1~16節
<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗
今日の福音はイエスさまが故郷にお帰りになったときのことを描いています。イエスさまは故郷では、人々の不信仰のゆえに、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡をおこなうことがおできにならなかったと書かれています。それは、故郷の人々がイエスさまにつまずいたからであると書かれています。イエスさまがお育ちになったナザレには、兄弟姉妹や親せき、そして母親もいました。小さな村でしたから、みんなイエスさまのことを知っています。実は、この“わたしは知っている”ということが、イエスさまの働きを妨げたということなのです。
わたしたちが知るという能力は、「ものごとを、えらびわける」こと、はっきり決めることだといえます。それではえらびわけるというのは、何から何を選び分け、どう決めていくのでしょうか。わたしたちが何かをわかるとか、知るということは、わたしとわたしでないものを選び分け、はっきりと区別していることに他なりません。ですから、これはわたしである、これはわたしでないと決めていくことに他なりません。ですから人間の知るという能力、認識という働きは、わたしはわたしであると意識することであり、正確には他人、他の物に対して自分を意識することになります。根底にあることは、わたしという自意識なのです。わたしであるという自意識そのものは善でも悪でもありませんが、自意識というものは絶えず自己主張と自我を増殖させ、自我と他がお互いに分裂していく世界を作り出してしまうことになります。キリスト教自体、わたしという意識を前提とした宗教ですから、この自我をどのようにコントロールしていくかを律法で定め、神への愛と隣人愛の掟を教えてきました。そのもっともわかりやすいのが、「自分を愛するように隣人を愛しなさい」という掟でしょう。これは、自己愛を前提とした教えであるということです。
ですからキリスト教では共同体の一致とか、信仰の一致、意志の一致が強調され、謙遜とか、また自己主張を従順という徳によって信仰的にコントロールしようとしたのです。しかし、それはすべてわたしがわかる、わたしが知る、わたしがするという自我の世界を前提として、神の恵みあるいは人間の力で押さえつけ、コントロールしようとすることであり、あくまでも“わたし”を前提とした世界です。イエスさまの故郷の人たちも、わたしたちはイエスについて知っている、「この人は大工で、マリアの息子、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここでわたしたちと一緒に住んでいるではないか」というわたしの知識、わたしの理解、わたしの判断、わたしの見方が前提になっているのです。このわたし、わたし、わたしです。わたしたちは、このわたしが何者であるのかもわからないのに、このわたしに拘り、わたしに執着し続けているのです。わたしの善行、わたしの功徳、わたしの信仰、わたしの欠点、わたしの罪などなど、切りがありません。そのように、わたしに拘り、わたしに迷っているわたしたち人間に、イエスさまは「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。野の花がどのように育つのか、注意してみなさい。働きもせず、紡ぎもしない。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる(マタイ6:26~30)」と教えられました。鳥も野の花も、“わたし”という自意識をもたず、自我の拘りから解放されています。イエスさまは、わたしということに拘っているわたしたちに、もっと広いいのちの世界があることを教えておられます。
朝日歌壇に投稿されていた歌に「戦艦の沈みゆくとき己の身を助けんとて戦友をつき落とすと聞く」というのが載っていました。戦後何十年もたっているときに歌われたものです。なんと恐ろしい歌かと思いながらも、その場にいたら、自分も友をつき落としているかもしれないという恐れ、そのことを否定しきれない複雑なわたしというものを感じさせられるのではないでしょうか。またこれとは対照的に、他人をボートに載せて、自分は船とともに沈んでいく人、死刑囚の身代わりになったコルベ神父のこともわたしたちは知っています。自分が生きるか死ぬかというときに、わたしが果たしてどのような行動をとるのかは誰も想像できないし、誰もその行動を責められないでしょう。カトリック教会が死刑囚の身代わりになった司祭を聖人に列聖するのは、それはそれでもいいとしても、人間というものは、わたしが助かりたいとの思いで友人をつき落とすこともするし、友を助けるためにはわたしが身代わりになるかもしれない、そのように不安定な、何をしでかすかわからないのがわたしという人間なのだということを自分のこととして、もっときちんとその現実を見つめることの方が大切だと思います。わたしたちは自分の心の深みをのぞき込んでみると、わたしというものに拘り、そのために自分の視野を狭めているわたしがいることに気づかされるのではないでしょうか。
NHKの超進化論という番組で、植物や菌がお互いに助け合っているということを取り上げているシリーズがありました。見られた方もあると思いますが、光合成をできる植物がその栄養分を土の中の細菌などを媒介して、光合成できない木に栄養を分けてあげるという話です。だから深い森の中でも、光があたらなくても苗木が育っていくのです。その植物には、「この木は光合成ができないかわいそうな木だから、僕の養分を分けてあげる」といったような、何か人間のような上から目線の利他心はありませんし、自分の養分を与えているという意識もありません。ただ、いのちが漏れ出ていくような、そのような仕方でお互いに生きあっている、そのいのちの豊かさというものが描かれていました。人間だと、「あの人たちはもっていないからかわいそうだから、わたしたちが分けてあげる」というような上から目線の利他の考えになりがちです。キリスト教もそういう発想ではないでしょうか。イエスさまは、野の花や鳥たちは、わたしが何かをしているとか、与えているとか、受けているとかそのようなことを意識することなく生きていて、それが他のいのちをも生かして、また自分も生かされている、そのような大きな豊かないのちの世界があることを説かれたのではないでしょうか。イエスさまは、そのようないのちの在り方をご自身の十字架の完全な自己犠牲、自己忘却の愛として示されていきますが、あれは異なった文化や価値観の中で、強烈な自己主張と自己実現をする人たちのための教えであるといえると思います。わたしたちには、そのような露骨な形で、“わたしを与える”とか、“わたしを差し出す”とか、“わたしを殺す”とかいわなくても、植物たちにみられるような豊かないのちの世界を、容易に理解していけるものがあると思います。
堤中納言物語に出てくる虫愛ずる姫君がどうして毛虫が好きなのかと問われたときに、「苦しからず。よろづのこと、もとをたづねて、末をみればこそ、事はゆえあれ」と答えています。誰でもが見た目の美しいさや見栄えを好むが、ことの本質をみるとそこにいのちの姿が見えてくるといっています。見た目、外づらを好むというのは、これはまさに現代の価値観そのものです。毛むくじゃらの毛虫の中にいのちの本質をみていく、いのちを愛でるという感性が、古来わたしたちの文化の中にあるように思います。対象の相手やそれが、何ができるとか、何を知っているとか、役に立つとか、役に立たないとかではなく、相手の本質を見て愛おしいと思う気持ち、これがいのちの感覚なのではないでしょうか。それをわざわざ「自分を愛するように隣人を愛しなさい」とか、「わたしと父なる神はひとつである」とか、「わたしは世の終わりまであなたとともにいる」というようなことをいわれなくても、わたしたちはそのようないのちの感覚をもっているように思います。“わたしは知っている”というわたしをちょっと横において、「空の鳥を、野の花を見なさい」といわれたイエスさまのみことばに、耳を傾けてみたいと思います。