年間第15主日 勧めのことば
2024年07月14日 - サイト管理者年間第15主日 福音朗読 マルコ6章7~13節
<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗
今日の福音は、弟子たちの派遣の箇所が朗読されます。弟子たちの宣教への派遣は、イエスさまの弟子たちの招きの箇所(3:13~19)とわけて考えることはできません。先ずイエスさまが弟子たちを呼ばれ、その目的が3章にはっきりと書かれています。「彼らを自分のそばに置くため、また派遣して宣教させて、悪霊を追い出す権能をもたせるため(3:14)」と。彼らを福音宣教のために呼ばれますが、イエスさまが第一にされたことは、「彼らを自分のそばに置くため」、別の訳では「彼らがイエスとともにいる」ことです。福音宣教へと弟子たちを遣わすための前提は、イエスさまが弟子たちを自分のもとに呼んで、彼らがイエスさまとともにいることです。派遣ということを考えても、先ずはその人が今いるところから呼ばれます。そして、派遣しようとする人のところに来て、そこから派遣されるわけです。派遣する目的は、派遣する人の望みを果たす、使命を果たすためです。派遣する人の望みを果たすためには、その望みが何であるかをよく知らなければなりません。そのためには、その人のところでじっくりと留まる必要があります。弟子たち、またわたしたちが留まるところは、イエスさまご自身です。
現代の教会を見ていると、派遣先で必要な役割を果たすためのノウハウやテクニックを、一生懸命教えているように思えます。カトリック教会の制度や教義を教え込み、儀式や典礼を習って、それを現場で適正に実行することなどです。そして、それが福音宣教であると勘違いしているように思います。福音宣教はイエスさまご自身を伝えることであって、カトリック教会という組織や制度、教勢を拡大することではありません。そのことが本質的に理解されていないと、イエスさま抜きの福音宣教がおこなわれてしまいます。ですから、福音宣教に遣わすことが可能になる前提は、何にもおいて、イエスさまが弟子たちを自分のもとに呼ばれて、自分のそばに置くという事実です。そのことなしには、派遣ということはあり得ない、というより不可能です。イエスさまのそばに置かれる、またイエスさまとともにいることは、イエスさまを体験することです。イエスさまを体験するというということは、わたし自身が何者であるかを知るということでもあるといえます。
イエスさまが弟子を派遣するとき一人ではなく、二人というところにも意味があります。そこに、イエスさまの徹底した人間に対する見方が現れています。人間は、わたし一人で存在するということはできません。人間の実存からしても、人間そのものは関係存在です。つまり、わたしたちは、誰かとの関わりの中でしか自分を発見することはできないからです。わたしたちは自分の顔を自分で見ることはできず、わたしの顔は必ず他者に向けられています。平たくいえば、わたしという存在は、誰かという存在なしには存在しえないし、誰かという存在によってはじめてわたしを発見するということなのです。親は、子というものがなくては親になることはできず、先生も、弟子なくしてはあり得ない、その反対も然りです。同様に、人間は神なしにはあり得ず、さらにいえば神も人間なしにはあり得ないということなのです。そのことが、今日の第2朗読で書かれています。「神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる祝福で満たしてくださいました。天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、ご自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストにおいて神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです(エフェソ1:3~5)」。ここに、わたしたち人間の根本的な姿、あり方が描かれています。つまり、神の前にある存在、神に関わられた存在としての人間の姿です。それこそが、人間としての事実であり、人間は究極的に神の前に、神に関わられ、神へと向かうものとして、愛され愛されるものとして造られているということなのです。このことを神の子といいます。
ですから、イエスさまの弟子となるということは、根本的にそのこと、つまり、わたしはイエスさまの前にある存在であるということを体験することなのです。これが、イエスさまがわたしたちを呼ばれた、といわれたことなのです。ですから、イエスさまの弟子足るもの、そのことを理解しないならば、イエスさまの弟子足り得ないということになります。なぜならば、イエスさまの弟子であるということは、すべての人に、人間としての根本的なそのあり方をあきらかにすることに他ならないからです。これは、カトリック教会の教義や制度を教えることではありません。わたしたちが、たとえどのような宗教や生活様式を選ぼうとも、最終的にはすべてそのことに向かっているのです。わたしは、ひとりぼっちであって、誰も自分の身を代わってくれる人はいません。しかし、わたしたちは究極的にイエスさまに関われらえたものとして存在し、わたしはイエスさまのうちにあり、誰一人として取りこぼすことなく、わたしを抱き取って離さないという真実があるのです。イエスさまの弟子となるということは、イエスさまのこのわたしたち人類への願いに目覚めることなのです。これに気づくことなしに、如何なる人間的な慰めも、神学的な理屈も、教え、制度も、組織も、意味がありません。そのためには、徹底的にイエスさまと向き合うことが必要なのです。そのことに気づかされ、受け止めていくことが、イエスさまを証しすることになるのです。しかし、生前の弟子たちはそのことを何も理解しませんでした。
わたしたちはイエスさまのそばにいて、イエスさまのうちに生きて、初めてイエスさまの願いに触れることができます。教会の掟だ、教会の教えで決まっているからではなく、イエスさまの願いを知ること、それが「汚れた霊に対する権能を授ける」ということばの中でいわれていることなのです。汚れた霊とは、わたしたちがイエスさまへと向かっていくことを妨げるすべての迷い、働きのことです。けがれた霊は、あらゆる機会、あらゆる出来事、あらゆる事象を使って、わたしを、“わたし自身”へと関心を向けさせようとします。わたしたちは、その意味で様々な汚れた霊に憑りつかれているといえるでしょう。イエスさまの生きた時代には、多くの病や悪魔憑き、憎しみや怒り、貧困や差別などが、人々を神へと向かうのを妨げていました。イエスさまは、全力でその外的な妨げを取り除き、その妨げが実は自分自身の中にあることに気づかせようとされました。そして、その妨げが取り除かれて、人々はイエスさまと向き合うという人間本来のあり方へと立ち返っていくことができました。ですから、様々な教えや奇跡は、その時代におけるイエスさまのひとつ方便だといえるでしょう。現代、実に様々なものが、わたしたちがイエスさまと向き合うことを妨げています。イエスさまへ向かうということは、真実の自分と向き合うということにもなりますが、現代人は自分自身と向き合いたくありません。ですからそれを避けて、自分の外に一時的な楽しみを求めることから始まって、崇高な社会活動に至るまで、それを名目にして自分の外に出ていこうとします。現代、教会を含んだ社会そのものが自己中心という病をかかえていますから、皆がその価値観で動いていますし、その流れにわたしたちも飲み込まれてしまっているのです。わたしたちが自分に向かっていれば、イエスさまに向かうことがありませんから、それこそ汚れた霊の思うつぼでしょう。
わたしたちがイエスさまと向き合うということは、何か新しい教えや知識を身に着けるということではなく、また新しいことをすることでもなく、本来のわたしを発見することに他なりません。今日、イエスさまは、弟子たちが宣教に出るにあたって、最低限の貧しい状態で出かけることを望まれました。それは、わたしたちが己の貧しさに気づくことを通して、自分自身と向き合うことを望まれからではないでしょうか。それによって、わたしたちが本来の自分自身の貧しさに目覚め、イエスさまを発見し、この世界と人々へと開かれたもののとなっていくことと、それが弟子たちを遣わすということなのです。