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教会からのお知らせ

年間第16主日 勧めのことば

2024年07月21日 - サイト管理者

年間第16主日 福音朗読 マルコ6章30~34節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

イエスさまとともにある生活、それが今日のテーマです。今日の福音を読むとき、最後の「イエスは船から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた」というイエスさまの言葉を取り上げ、活動の大切さを強調しがちです。しかし、イエスさまが群衆にいろいろ教え始められるというときに、イエスさまのこころを動かしたのは、イエスさまのうちにある「深い憐れみ」です。今日の福音では、イエスさまのそのように「深い憐れみ」がどこから来たのか、一体何があったのかを知ることができると思います。

今日の福音は、先週読まれた12使徒の派遣に続く、弟子たちの帰還の物語です。使徒たちは、イエスさまから派遣され、その働きを終えて、イエスさまのもとに帰ってきました。先週、派遣というものが成り立つためには、イエスさまに呼ばれること、イエスさまのもとに来て、イエスさまのもとに留まること、そして、イエスさまから派遣されることであることをお話ししました。派遣されたもののもうひとつの動きは、派遣されたもののもとに戻るという動きです。派遣されるという行路、それに対して帰るという復路という一連の動きです。この動きは、見る方向によって異なった方向性としてみることができますが、それはひとつの大きな還流であるということができます。わたしたちはとかくすると、ひとつの方向からしかものを見ない傾向があります。呼ばれること、留まること、派遣される、そして帰還することを夫々切り離してしまいます。キリスト教では、呼ばれることを召命と呼び、留まることを祈りとか観想と呼び、派遣されることを使命とか福音宣教というふうにいいます。そして、派遣されれば、必ず派遣されたもののところへ戻ってくるはずなのですが、キリスト教ではどちらかというと派遣したままで、帰還するということがあまりいわれていません。人として、人生を終えて神さまのもとに帰るとはいいますが、わたしたち生きているものの生活の中で、帰還することの重要性についてほとんど触れられていないように思います。

いずれにしても、ある部分だけを強調して、そこに拘ろうとします。現代の教会は福音宣教を大切だとはいいますが、福音宣教の前提となる祈りの生活について、それほど話されていないように思います。そして、福音宣教それだけが目的のようになってしまっており、福音宣教はイエスさまのもとに帰還することであることについて、ほとんどいわれていないように思います。しかし、この召命、養成、派遣、帰還ということは、いずれも単独によって成り立つものではなく、これはイエスさまの大きないのちの中にあるいのちの還流であるということを、改めて見直す必要があるように思います。最近といっても第2バチカン公会議後、信徒、修道者、司祭の生涯養成というようなことがいわれていますが、これは帰還することの重要性を教会も意識してきたからであると思います。しかしながら、そのことが先ず発想としてないので理解されていませんし、意識されることもないという現実があります。

 

イエスさまは派遣先から帰還した弟子たちに、「さあ、あなたがただけで人里離れたところへ行って、しばらく休みなさい」といわれました。教会の普遍的使命は福音宣教ですが、その使命を果たすためには、イエスさまのもとに留まること、祈りの生活が不可欠であり、それは絶え間のないものでなければならないことを先週お話ししました。一時、祈りに専念するとか、ある期間養成を受けるとかいうことだけではどうにもなりません。キリスト教自体がそのようになってしまっているので、非常に難しいと思いますが、例えばカトリック教会において洗礼をうけること、また堅信を受けること、ミサに参加すること、秘跡それ自体が目的になってしまって、そこから広がりがありません。成人洗礼の場合、洗礼を受けることが目標のように教えられ、洗礼を受けた多くの人が、洗礼を受けた後、教会にこなくなるということが起こっています。幼児洗礼であっても、初聖体が終わり、堅信を小学6年か中1で受けると、そのあとぱたりとこなくなります。学校が忙しいとか、クラブがあるということのようですがそれだけでしょうか。

おそらくこれらの問題の根底にあることは、イエスさまとの親しさを体験していない、イエスさまと向き合っていない、イエスさまと出会っていないということがあるように思います。幼児洗礼であれば、洗礼は受けていますが、その後の教会学校でキリスト教の知識だけは習っても、イエスさまに出会うという体験をしないままで終わってしまい、成人していきます。成人洗礼の場合では、知識としてカトリック教会の教義だけ、理屈だけを習ったとしても、生きたイエスさまとの出会いをいわれることなく、ただ洗礼を目標にしてしまうと、洗礼後どうしたらいいのかわからないというのが実態ではないでしょうか。たとえ、教会で友達ができて教会に来ているとしても、教会で何か活動しているとしても、まことの友であるイエスさまと出会うことがなければ、イエスさまとの関わり、信仰生活が深まらないのは当たり前です。

キリスト教信仰の中心にあることは、例外なくイエスさまとの親しい交わりです。その交わりを祈りと呼んでいますが、カトリック教会での難しさは、祈りというと、ミサ、教会の祈り、共同祈願、祈祷書の朝晩の祈り、ロザリオや十字架の道行だという人がほとんどだと思います。これらは祈りの文句が決まっている祈りで、声祷、口祷と呼ばれ、祈りの中のほんの一部分でしかありません。それなのに教会で祈りといえば、これらの声祷を唱え、中央協議会から配布される祈りのカードを唱えることだと思っている人が大半でしょう。祈りは、イエスさまとの親しい交わり、最後の晩餐の席でわたしを友と呼ばれたイエスさまとの親しい友情の交換、絆そのものであるとするならば、わたしたちが親友と決まった挨拶しかしない、朝晩しか話さない、綺麗ごとしかいわないとしたら、それは随分変なことではないでしょうか。イエスさまは最後の晩餐の席で、「わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである(ヨハネ15:15)」といわれ、わたしたちは文字通り、イエスさまの親しい友となっています。そのことについて、教会でほとんど話されていません。カトリック教会の教義中心に教えられ、それに基づく慈善活動が奨励され、組織や制度の話がされ、その一方で古色然としたミサや儀式、信心業が好まれるという傾向があります。それだけでは、イエスさまとの友情が深まるはずがありません。イエスさまとの友情が深められていないのに、わたしたちは一体何を証しするというのでしょうか。

今日の福音で、イエスさまと弟子たちは、休もうと思って出かけたけれども、「大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始めた」とあるのは、イエスさまとの友情のなかで、次に何をしなければならないかが知らされてきたということなのです。つまり、イエスさまとの友情がどれだけ深まっているかによって、その人の生き方、活動の質が決まってくるということです。わたしたちは、すべて夫々の生活の場において、イエスさまとの親しい友情を生きるように呼ばれています。わたしたちのすべきことは、すべて人類がイエスさまとの親しい交わりに入れられていること、大きないのちの還流の中にあることを証しすることにあるのです。この大きないのちの還流は誰ひとりとして取りこぼされることがない、またあらゆる罪汚れ、苦しみ、煩悩、闇さえも飲み込んでいくような大きないのちの流れです。この大きないのちは、大海がすべてを包み込んで、すべてを自らのところへと運んでくるような、そのようないのちの還流です。その神のいのちの還流に中にわたしたちがしばし浸ること、それがわたしたちの本来の祈りです。それは特別なことではないのです。わたしたちの人生そのものでもあるのです。1日5分でもいいので、イエスさまのうちに、何もせず、ただ無になって、その流れに浸る時間をとってみてはどうでしょうか。これは心の祈り、黙想、念祷といいわれ、わたしたち人間の本来の在り方を実行することなのです。

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