年間第18主日 勧めのことば
2024年08月04日 - サイト管理者年間第18主日 福音朗読 ヨハネ6章24~35節
<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗
今日の福音は、イエスさまがパンの増やしの奇跡をおこなわれた翌日の出来事です。パンの増やしの奇跡をみて熱狂し、イエスさまを王としようとする人々を避けて、イエスさまはまた山へひとり退かれます。人々は、“また”イエスさまに奇跡を行ってもらおうとして、次の日もパンを食べたところに集まりました。毎日パンを増やしてくださるなら、こんな便利なことはありません。人々はイエスさまを探し回って、湖の対岸のカファルナウムでイエスさまと弟子たちをみつけます。
そこで、イエスさまは「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」といわれます。あなたがたが求めているのは、自分たちが満腹するパンであって、わたし自身を求めているのではないと指摘されます。これは、イエスさまの最大限の嫌味です。しかし、人々は気づく様子はありません。これは、わたしたちが感謝の祭儀をどのように捉えているかが問われているということです。往々にして、わたしたちは感謝の祭儀を自分のこころの平和、安心、自分の救いのための場という間違った理解をしていまいがちです。
カトリック教会は、ミサを義務として教え、プロテスタント諸教派においては、主日の礼拝を守るといういい方がなされています。ことばの問題だといえばそうかもしれませんが、ミサや礼拝は義務とか守るものではなく、感謝の祭儀ではなかったのでしょうか。それでは、わたしたちは「感謝しなさい」と誰かからいわれて、感謝することができるでしょうか。感謝というと、パウロの手紙の「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい(Ⅰテサロニケ5:16)」という箇所が有名ですが、これは例外であって、パウロの手紙の中では、感謝するというときは、いつもパウロ自身が神さまに感謝することであって、それを他の人に要求することはありません。「あなたが感謝するのは結構ですが、そのことで他の人が造り上げられるわけではありません(Ⅰコリント14:17)」という言葉が残されています。感謝するのは、教会の教えだから感謝しましょうというほど愚かなことはありません。このことが、わたしたちが感謝の祭儀を自己中心的に理解することに拍車をかけているように思います。感謝はわたしたちのこころから、自ずから溢れてくるものでしょう。
そもそも、今日の聖書の箇所に登場する群衆は、自分たちの満足にしか関心が向いていません。「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」と指摘されます。そのような人びと、これはわたしのことなのです。イエスさまは、わたしたちに己の身の愚かさに気づくように話していかれます。しかし、話は平行線のままずれていきます。「神の業を行うためには何をしたらよいでしょうか」、「そのパンをいつもわたしたちにください」。結局は、いつも「わたし」が主語になっています。わたしは何をしたらいいのか、わたしのために何をしてくれるのか、わたしに何をくださいますか。どこまでいってもわたしという自己関心の闇から出ることができない愚かなわたしたちの姿が描かれています。イエスさまは「いのちのパンをください」というわたしたちに、「わたしがいのちのパンである」といわれます。あなたがたが求めているパンはわたし自身である、今わたしはあなたがたとともにいるではないか。それなのにあなたがたはこれ以上、わたしに何を求めるのかといわれます。それでも人々は、気づこうとしません。というか、それほどわたしたちの闇は深いのです。
人間は基本的に自分という立場からしか、ものごとを考えることは出来ません。教会でよく相手の立場に立って考えましょうといいます。しかし、わたしたちは、誰も相手の立場に立つこと自体出来ないのです。親が、病の自分の子どもに代わってあげたいと思っても、代わることは出来ないのです。誰もわたしの代わりにはなれないし、わたしも誰かに代わることは出来ません。先ず、その事実を謙虚に受け止めることから出発しなければならないのではないでしょうか。わたしたちが、相手に対して何かができるという発想自体、こちら側からの一方通行になりがちで、上から目線の教会のあり方を助長するだけになってしまいます。カトリック教会は、人々に対して教える任務、治める任務、聖化する任務があるといいます。教会は常に上で、キリスト教を知らない人々にカトリックの教えを広め、天国に行けない可哀そうな人たちに洗礼を授けてあげるという発想で、何世紀もの間、布教という名の霊的植民地化が推し進められてきました。それが今の北米、南米、アジア、アフリカの現実です。イエスさまが、そんなふうに人々と関わられたことが一度でもあったでしょうか。どうして、相手の立場に立って考えるとか、人々を自分の隣人愛の実践の対象などと平気でいうことができるのでしょうか。
イエスさまは、人間がどこまでいっても自己中心で、自己関心の塊であることを見抜いておらました。ですから「自分を愛するように隣人を愛しなさい」と、先ず旧約の隣人愛をお教えになったのです。しかし、イエスさまは人生の終わりには、もはや「自分を愛するように、隣人を愛しなさい」とは教えられませんでした。イエスさまは「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛しあいなさい」といわれ、新しい相互愛の掟をお与えになりました。イエスさまは自分が人間として生き切ること、人間としてもっとも貧しくなること、つまり十字架の死を通して真実の神の愛をみせてくださいました。神の愛とは、決して上から与えるような愛ではなく、また人間としてその人の身代わりになることでもありません。イエスさまは相手の身になることはできないという限界を知った上で、人間の痛み、苦しみ、辛さをご自分のこととして生き死なれたということなのです。それはある意味で、イエスさまが“わたし”となられたといっていいのかもしれません。イエスさまは神さまでおられますから、絶対慈悲です。それに対して、わたしたち人間は小悲小慈でしかありません。人間としてのイエスさまは、その人の痛み、辛さ、苦しみを知っても、その人と代わることができないという限界を知った上で、自分の生き方、そして死に方を通して、その一人ひとりを大切にして、一緒にいようとされました。よく「ともに喜び、ともに苦しみ、ともに泣く」といういい方がされますが、わたしたち人間は、どこまでいっても、その人の喜び、その人の苦しみ、その人の悲しみを理解することなど出来ないのだという地平に立つ謙虚さが必要です。表面的な同情やあわれみは、かえって相手を傷つけます。わたしの喜び、わたしの苦しみ、わたしの悲しみはわたしのものであって、それを誰かに理解してもらえるものではないし、まして代わってもらえるものでもないのです。夫々、自分が引き受けていくしかないのです。その現実を受け入れて、ひとり一人を大切にしていく、それがイエスさまのなさったことだと思います。
今日の箇所でイエスさまがわたしたちに問いかけられるのは、あなたの感謝の祭儀はどこに向かっていますかということだと思います。わたしたちが感謝の祭儀をおこなうとき、その方向が常に自分の方に向いてしまっていることに気づいていますかということだと思います。わたしたちは、結局のところ、自分の安心、満足、自己関心でしかありません。ミサが、自分たちキリスト者のため、自分の安心安寧のため、自分の救いのためである思っているとしたら、それは感謝の祭儀ではありません。それなら、神社でおこなわれているご祈祷と変わりません。当時のヨハネの共同体は、まさにこのような問題に直面していたのです。感謝の祭儀は、イエスさまがわたしたちすべての人類のために、ご自分のいのちを一度切り、十字架の上で捧げ尽くし、いのちの真実を示してくださったイエス・キリストという救いの出来事への感謝に他なりません。それなのに、わたしたちは未だイエスさまに何を要求するというのでしょうか。