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教会からのお知らせ

年間第19主日 勧めのことば

2024年08月11日 - サイト管理者

年間第19主日 福音朗読 ヨハネ6章41~51節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日、イエスさまは、自分が天から降ってきたいのちのパンであり、このパンを食べる人は死なない。永遠に生きるといわれました。そして、わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉であるといわれました。ここで、イエスさまは永遠のいのちについて語っておられます。今日は永遠のいのちということについて考えてみましょう。

わたしたちは今日の箇所を単純に読むと、ミサに与かって、聖体をいただくと、永遠のいのちがいただけるのだと勘違いしてしまいます。そもそも永遠のいのちというと、先ず有限ないのちがあって、わたしたちが自分の人生という有限のいのちを生きて、その有限のいのちが終わるとき、その一生の所業に応じて、永遠のいのちに入るか、滅びるかが決められるのだと考えてきたと思います。あまりにも幼稚な生命観ですが、これがキリスト教の従来の捉え方になっています。しかし、今日の福音を注意深く読むと、永遠のいのちというものの本質がみえてきます。

先ずイエスさまは、「父が引き寄せてくださらなければ、誰もわたしのもとに来ることはできない」といわれました。確かに、イエスさまのもとに来なければ何も始まりません。しかし、引き寄せてくださるのは、父である神の働き、イエスさまの働きであるといわれています。ですから、イエスさまを信じて、イエスさまの方に行くのはわたしたちですが、そのような信じるこころを引き起こすのは神さまご自身であることがいわれているのです。それでは、わたしたちが信じることとは一体何なのでしょうか。それは、先々週からみてきた通り、イエスさまがいのちのパンであり、「ともにおられる神」としてわたしたちとともにおられるという事実です。ですから、永遠のいのちとは、永遠のいのちでない別のいのちがあって、そのいのちに永遠のいのちが与えられるのではなく、イエスさまがわたしたちとともにおられるということが永遠のいのちであることがわかります。わたしたちはそのことを信じさせていただくわけですから、わたしたちは、すでに永遠のいのちを生きている、救われてあるということを信じるのです。

なぜなら、イエスさまは十字架の死と復活によって、神さまはわたしたちとともに永遠におられる神であることを啓示してくださったからです。イエスさまのときまで、永遠のいのちはなかったのではなく、わたしたちはすでに永遠のいのちのうちにあったことをあきらかにしてくださったのです。わたしたちの問題は、光の中にあって光を捜すような、大海の中にあって海を捜すようなことをしているということなのです。イエスさまが死んで復活されたということは、イエスさまの十字架の死と復活によって、全人類が永遠において救われており、イエスさまのみ手の中にあるということなのです。そのことが、わたしたちがすでに光にうちにある、大海のうちにあるといったらいいでしょう。

太陽は善人の上にも、罪人の上にも、貧しい人の上にも、豊かな人の上にも等しく昇ります。日の光は、何も一切区別しません。区別を作り出しているのは、人間の知性、分別であり、人間が貧富の差、支配・被支配、格差、差別、競争、貧困などのありとあらゆる区別を作り出しているのです。イエスさまは、善人悪人の別なく一切平等ですべての人を救う神さまの姿を示すことで、人類にそのあり方を問うておられるのです。確かに、イエスさまは弱い立場にある人たちの側に立たれました。それは、その人たちが、声をあげることすらできないほど、貧しくされているからに他なりません。そして、そのような状況を作り出している人間自身の闇に、人間が気づくことを望まれたのでした。その気づきを回心といっていいでしょう。その上で、イエスさまは、差別される側の人も、差別する側の人もともに救われていく世界、神の国の到来を宣言されました。豊かな人だけが救われて、貧しい人や罪人は救われないような不正義な世界ではなく、かといって、貧しい人や罪人が救われて、豊かな人や支配者は罰を受けるというような勧善懲悪の世界でもなく、そのような差別、区別、分別を作り出している人間の業、闇をあわれんで、その浅ましく愚かな人間すべてが等しく救われていく世界をイエスさまは望まれたのです。それが神の国といわれます。そして、そのイエスさま側からの神の国のありさまが永遠のいのちといわれるのです。

神の国は、イエスさまの生涯とその死と復活によって啓示され、すべての人類はその救いの光のうちに置かれています。しかしながら、それが分からず、相変わらず区別、差別、分別、搾取等を作り出し続けているのが人間の業、罪に他なりません。ですからイエスさまが、引き寄せてくださらなければ、誰も自分のところに来ることはできないといわれたのです。人間は真理に触れることなしに、自分の愚かさ、闇、罪ということを知ることはできません。わたしたちは真理であるイエスさまに出会うときに、初めて自分が救われなければならない罪人であることが知らされ、同時に、イエスさまによってすでに救われていることにも気づかされます。感謝の祭儀は、すでに救われていることに気づかないわたしたちに、あなたがたはもうすでに救われているのだということを思い起こさせてくださる場であり、また、わたしたちが救われていることを感謝する場であり、神の国のために派遣される場でもあるのです。

イエスさまは、わたしたちが救われているということを、「信じる者は永遠のいのちを得ている」といわれました。ですから、わたしたちは、すでに救われてイエスさまのうちにあることに気づかされ、その真実を知らされたことを「永遠のいのちをすでに得ている」といわれたのです。わたしたちは、今、イエスさまのうちに生きているのです。だから、信じることによって永遠のいのちを獲得するのではなく、すでに永遠のいのちのうちにわたしたちがあることに気づかされ、そのことを信じるのです。大海を泳いでいる魚が、実は自分が泳いでいるところが海であったことに気づくのと同じです。ですから、永遠のいのちは、死後のいのちではなく、また生前の善行への報いでもなく、わたしたちが、今、生きているこのいのちに他なりません。しかし、教会は―イエスさまが決して教えなかったこと―つまり、この世は辛くても、来世には永遠のいのちが約束されているというようなことを教えてしまいました。永遠のいのちを、死後のいのち、「あの世」のものにしてしまったのです。「この世」が思い通りにならないので、「あの世」のことを持ち出すことによって、「この世」のどうしようもないことを慰め、我慢させるために、永遠のいのちを利用してしまったのです。イエスさまのいう永遠のいのちは、「あの世の」ことではありません。

イエスさまによって、わたしたちのすべて、わたしたちの生も死もすべてが包みこまれているのです。そして、そのイエスさまご自身が永遠のいのちそのものですから、わたしたちは、今すでに、永遠のいのちを生きているということなのです。思い通りにならない、苦しみの連続である「この世」において、イエスさまがわたしたちとともに歩んでくださっていることに目覚めさせていただくことが、救いに他なりません。悲しいから、苦しいから、イエスさまを信じて、死後に永遠のいのちを求めるのではないのです。今、ここで、わたしたちとともにいてくださるイエスさまに出会わせていただくことが、永遠のいのちそのものなのです。だから、たとえ肉体の死がわたしたちに訪れたとしても、わたしたちにとって死はないのです。感謝の祭儀で聖体を拝領するものに永遠のいのちを約束されるのではなく、全人類、全世界は、イエスさまによって計らわれ、生死を超えたところで、生かされているのだということを宣言する、その真実を宣言する場が感謝の祭儀なのです。

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