年間第20主日 勧めのことば
2024年08月18日 - サイト管理者年間第20主日 福音朗読 ヨハネ6章51~58節
<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗
イエスさまは、わたしは天から降ってきた生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことであるといわれました。今日の箇所は、わたしたちが生かされるということはどういうことであるかを取り上げています。それは、わたしたち生きとし生けるものが生きるということは何であるかということを問うことでもあります。今日の福音によると、生きるということは食べるということであるといわれています。わたしたちすべての生命体は、生きるためには他の生命体からいのちを分けてもらわなければならないのです。生きるということは食べるということであり、食べられなくなったら死が訪れるというのが一般的な理解だと思います。一昔前まで、食べられなくなったらお迎えが来るといっていました。それが最近の医療や介護では、生きたい生きたいといっている個人のいのちを引き延ばすことだけに視点が向けられています。これは、個人の中に閉じ込められているいのちがすべてであるとする近代科学の考え方でもあります。
「汝とは、汝の食べた物そのものである」という西洋のことわざがあります。これは、食べ物の食環境によって、わたしたち生命体のありようが影響を受けるという意味のようです。肉食とか、草食とかいわれていますが、よくよく考えてみるとわたしという存在は食物連鎖の中にあって、わたしだけで存在することはできないばかりか、わたしという存在そのものが、すべての事象の夫々の関係性の中にあるということをいっているように思われます。普通、わたしはわたしでないものとわたしを区別したものをわたしと呼んでいますが、わたしとわたしでないものの境界はどこにあるのでしょうか。わたしたちの体の表面には、約40兆個という細菌やばい菌が生息しています。さらに、わたしたちの腸内には100兆個以上の細菌が生息しているといわれます。それをわたしたちは排除することなく、わたしたちはたくさんのばい菌と共生しているのです。実はわたしという境界は非常にあいまいで、本来的に区別することなどできないのだということではないかと思います。わたしたちを構成しているものは、元をたどるとこの世界を構成している元素と同じです。わたしがわたしであると呼んでいる意識というか、魂というものも、この世界、この宇宙と同一だということになっていきます。ですから、わたしとは、わたしの食べた物そのものである、実はわたしは、この世界、環境、自然であるといえるのではないかと思います。
このような視点は、キリスト教の中ではいわれてこなかったことで、むしろ汎神論、理神論的として異端的な考え方だと思われてきました。しかし、皮肉なことにキリスト教のアンチテーゼとして発展してきた科学が近年発見してきたことは、この宇宙、この世界は決してそのもの単独で成立しているものは何もなく、お互いがジグソーパズルのような精密さをもって、お互いが共生しあっているという事実です。人類は万物の霊長として、独り勝ちをしたようなキリスト教神学に基づく人間論が展開されてきましたが、皮肉なことにそのような偏った価値観に対抗するために生み出された科学が、人類に未曾有の発展と恩恵をもたらしました。しかし、同時にこの世界を破滅へと導いているのも事実です。今わたしたちは、そのような世界の中にあって、改めていのちの諸相を捉えなおしていくことを余儀なくされているのではないでしょうか。それが、今日の福音で語られていることのように思います。
いのちの諸相としてあることは、あらゆる生命体は絶え間のない自己破壊と自己組織化によって成り立っているということです。多くの場合は、いのちをできるだけ永らえさせ、いのちの自己組織化を維持していくということがいのちの本質であるようにいわれてきたと思います。DNAは利己的で、自分の個体や個種を維持していくようにプログラミングされているといわれてきました。しかし、最近の生命科学の発展によって、多くの生命体は自己を破壊することでいのちを繋いでいること、また夫々のいのちはお互いに共生しあうということでいのちを繋いでいるということもわかってきました。わたしたちはこの地上の生命体は弱肉強食で、強いものが生き残り、弱い個体は淘汰されていくのだというふうに教えられてきたと思います。しかし、生命体は必ずしも利己的だけではなく、お互いが助けあったり、共生しあったり、また弱いものを守ろうとする利他の働きをするということもわかってきました。もちろん、それを意識的にしているわけではないでしょう。しかし今まで、わたしたちがいのちというとき、ある一定期間、蝉であれば2週間、犬であれば15、6年、人間であれば80、90年といった有限な個々のいのちしかみてこなかったのではないでしょうか。しかし、いのちの動き、働きをじっくりとみていくと、そのような短いいのちの中でも、夫々の細胞組織の中にで、また大きな生命体においても、自己破壊と自己組織化が絶え間なく繰り返されていることが明らかになっています。これはまさに、わたしたちが死と復活といってきたいのちの本質ではないでしょうか。キリスト教や聖書が教える前に、すでに世界は、この宇宙はそのいのちの実相を生きているのです、
今日の福音でイエスさまが、わたしの肉を食べ、わたしの血を飲まなければ、あなたたちの中にいのちはないといわれたことは、まさにそのいのちの実相そのものなのではないでしょうか。いのちというものは、生きたい生きたいと願っているものです。しかし、同時にそのいのちは自分自身を超えていくという性質をもっています。個体の中に閉じ込められたいのちが、その個体以上になっていくために、その個体を自らが壊してあふれ出ていくという性質があるということです。実際に、多くの植物や動物は、自分のいのちを壊して、いのちを次世代へ繋いでいきます。このいのちの自己脱出というか、自己超越こそがいのちの独特の現象なのではないでしょうか。イエスさまはわたしたちに新しいことを伝えられたのではないのです。すでに自然に生き続けられてきたこのいのちの本質を、ご自分の十字架の自己犠牲という出来事を通して、自らの肉を裂き、血を流すという行為によって、いのち本来の実相を示してくださったのです。そのことをどのように神学的に説明するかそれはそれで結構ですが、わたしたちがこの自分の個体だけがいのちであると思っているあいだは、本当のいのちはわからないのだと思います。どんなにいのちが大切だといっても、いのちを個としてしか捉えないのであれば、自分が永遠のいのちを手に入れるという程度のところで終わってしまい、わたしを超えた大きないのちが何であるかがわからないままではないでしょうか。イエスさまは自分のいのちを壊すことによって、大きないのちの中にご自身を解放されました。イエスさまの復活は自分のためではありません。イエスさまが個の中にあったいのちを失うことによって、自分を取り壊すことによって、大きないのちそのものとなられました。
わたしたち人間は、自分の個体性を失うことが一番怖いことなのです。だから、人は死を恐れるのです。人間以外の動植物、細菌、ばい菌は、この自己解体ということによって、新しいいのちを繋いでいっています。だから、自分が死んでもいのちは受け渡されていきますので、自分は死なないのです。この当たり前のことができないのが人間です。そうすると人間はどうするのかというと、この世のいのちにしがみつくか、来世のいのちにしがみつきます。前者はこの世の身体的生命だけをいのちだと考える現代科学であり、後者は自己意識をいのちだと考える思想、宗教となっています。いずれにしても、わたしがわたしだと思っているものを、大きないのちに中に解放しなさいということがイエスさまのメッセージです。 「自分のいのちを愛するものは、それを失うが、この世で自分のいのちを憎むものは、それを保って永遠のいのちに至る(ヨハネ12:25)。」といわれました。わたしがわたしの救いなどと考えているあいだは、ダメということ、そのことを今日の福音はわたしたちに告げているのです。