年間第23主日 勧めのことば
2024年09月08日 - サイト管理者年間第23主日 福音朗読 マルコ7章31~37節
<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗
今日の聖書の箇所は、イエスさまが、耳が聞こえず舌の回らない人を癒された箇所です。そこでは「エッファタ」という印象的なことばが使われます。「エッファタ」というのは、当時のユダヤ人が使っていたアラマイ語で「開け」という意味です。おそらくイエスさまが直接に使われたことばで、人々にとって非常に印象的であったので、ギリシャ語で聖書が書かれたとき訳されることなく、そのままアラマイ語が残されたのだと思います。そのようなものとして「タリタ、クム」、「アッバ」、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」などがあります。これらはイエスさまに由来することばであるといわれています。
さて、耳が聞こえず、ことばが話せないということですから、それは生まれつきの障がいであったという可能性が高いことがわかります。生まれつき耳が聞こえないということは、音として情報が一切入ってこないということですから、目で入ってくるものが何であるかがわからないという状況になります。つまり、人間は発達段階の中で、音として入ってくるものでことばが生まれ、ことばでその人の世界が作られていきます。「ママ」という音が、母親を指すものだということで、ママということばが何を意味しているのかがわかるということです。音がないとことばができませんし、ことばがないと意味というものがわかりません。生まれつき聞こえないということであれば、音からことばを習得することができないということになります。だからことばも話せないということになります。人間はことばをもつことで、自分の世界が作られていくのです。ですから、わたしたちがその人の状況を想像することは、大変難しいということがわかります。わたしたちは考えるとき、頭の中ではことばで考えているわけですが、ことばがないということは考えるということができません。それは本人にとっては非常に深刻なことなのですが、その深刻さを本人がわからないし、周りの人もそのことを想像することができないのです。文字でことばを学べばいいというかもしれませんが、当時の民衆は読み書きができませんでしたから、文字をことばとして認識することは容易なことではありませんでした。
ですから、その苦しみは本人が自覚することさえできないほど、精神的な、心理的な、社会的な苦しみとなっています。その苦しみの本質は、その人から他者やこの世界とのコミュニケーションを、すべて奪っているということなのです。ことばをもたないので「苦しみ」という意味も理解できず、当然他者とのコミュニケーションはできません。ですから、その種のコミュニケーションの阻害は、根本的、本質的なものであるといえます。中途で耳が聞こえなくなった場合、すでにことばや文字を習得していれば、手話とか、筆談で人とコミュニケーションをとることができます。しかし、生まれつき耳が聞こえない場合は、生きとし生けるものとのつながりという感覚をもち難く、自分の内に閉じこもるということになります。その苦しみは非常に内的であって、わたしたちが想像できないような苦しみだということです。
イエスさまの時代、耳が聞こえないようなことも含めて、そのようなことは悪霊の仕業であると考えられていました。悪霊の働き方はいろいろありますが、主なことはひとつであるといえるでしょう。それは、その人が、神さまへ、あるいは他者へと向かっていくこと、関わっていくことを妨げるということです。外へ向かっていくことを妨げられた人は、自分に向かっていかざるを得なくなります。いわゆる自己関心へと、その人を閉じ込めてしまいます。人間は基本的には、自己関心の塊です。そのような人間であるわたしたちは、イエスさまや他者と関わることによって、自己関心という人間の最大の闇から解き放たれていくことができるのです。わたしたちは、イエスさまや他者と関わることがあったとしても、それでも自己関心という呪縛から完全に自由ではありません。しかし、この世界と関わることによって、せめて、自己関心という闇のなかに閉じこもることから守られているのです。
人間は、神の似姿として創られているといわれます。神の似姿であるということは、愛し愛されるものとして創られているということです。愛するということは、神さまの本質であり、人間の本質であり、すべてのいのちの本質でもあります。つまり、愛するということは、自分を出ることであり、自己脱出、自己忘却、自己超越であり、自分をおいて、他に向かっていこうとすることです。イエスさまは愛そのものですから、愛することしかできません。イエスさまにとって愛するとは、自分を出ること、自分を与えることであり、愛の神さまですから、一瞬たりとも愛さないでいることはできません。その際に、一切条件を付けられません。たくさん犠牲をして祈りをすれば愛してあげようとか、ミサに行ったら愛してあげようとか、告白に行けばゆるしてあげようとかいわれません。わたしがわたしであるというだけで、今のわたしを愛し、ゆるしておられるのです。わたしが何かをしたから、何かをしなかったから、愛されゆるされるのではありません。イエスさまに愛されるため、ゆるされるために、わたしが何かをすること、わたしが変わる必要がないのです。イエスさまからただ愛されゆるされていることに気づくこと、それがわたしが愛されるということなのです。これによって、はじめて愛が完成されます。わたしたちがイエスさまに愛されたままになること、これが、わたしがわたしを出ていこうとすること、自己脱出なのです。わたしたちは、そのことがわからず、自力で一生懸命自分を変えようとしているのです。何と愚かなことでしょうか。まさに、イエスさまに向かうことをせず、小さい自分の考えや思いのなかに閉じこもっている、自己関心という闇のなかで、もがいているのだといえばいいでしょう。
今日の福音に出てくる耳が聞こえず舌の回らない人というのは、神の似姿として創られたわたしたち本来の姿を生きられないようにされているのです。自分が望んだのでないのにも関わらず、その人を自己という闇の中に閉じ込めてしまっているのです。そして、その自己という闇から、自力では決して出ることができません。イエスさまは、その人を自己の闇から解き放ちたいと思われたのです。そして、「エッファタ(開かれよ)」といって、その人の耳を開き、音を届け、ことばを与え、意味をわからせようとされたのです。その人が生まれてこの方、決して自分では出ることができなかった闇の世界から、イエスさまが光の世界へと導き出してくださったのです。ことばというものを知らなかったであろうその人が、すぐに話し始めたように書かれていますが、イエスさまは人と人とが関わるために必要なことばも授けてくださいました。そのことを「唾をつけて、その舌に触れられた」と書かれています。
今日の福音はわたしたちにいろいろなことを教えてくれています。わたしたちが当たり前のようにしている聴くこと、見ること、話すことは何か、ことばとは何か、わかるというのはどういうことかということを改めて考えさせられます。これらが整って、人はコミュニケーションを取ることができるのです。そしてコミュニケーションとは、単なる人間活動である以上に、人間が神の似姿として作られたことを現実化していくこと、人間の本質である自己脱出そのものであるということなのです。わたしたちにとって一番難しいのは、自分という中に閉じこもってしまうことです。わたしたちは、日々の生活の中で、たやすく自己関心という闇に飲み込まれてしまいます。そのようなわたしたちをみて、深く憐れみ「天を仰いで深く息をつき」、「エッファタ」といって、わたしを無明の闇から光へと解き放ってくださるのがイエスさまなのです。わたしたちは、イエスさまに憐れんでいただくしかない存在です。ですから、わたしたちは、イエスさまに向って、「主よ、わたしをあわれんでください」と祈るのです。