年間第24主日 勧めのことば
2024年09月15日 - サイト管理者年間第24主日 福音朗読 マルコ8章27~35節
<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗
今日の箇所は、マルコ福音書における大きな分岐点にあたる箇所が朗読されます。イエスさまは、故郷のガリラヤで病人をいやし、罪人にゆるしをもたらし、貧しい人々に神の国の福音を積極的に述べ伝えてきました。しかし、イエスさまが直面されたのは、ファリサイ派の人々の反発と批判、身内や故郷の人々の無理解、そして、弟子たちの無理解でした。イエスさまの孤独感は高まり、宣教活動にも陰りが見えてきます。そのような状況の中で、ヨルダン川の源流の北限の地であるフィリポ・カイザリアに行かれます。どのような思いで、フィリポ・カイザリアに行かれたのでしょうか。
イエスさまがガリラヤでの宣教で直面したのは、人々の反対と熱狂、そして熱狂している人々のうちに見られる勘違いと無理解でした。人間は皆自己中心なので、自分の思いや願いをかなえられることを最優先にします。そして、多くの宗教は人間の思いをかなえるという形で人を誘導し、むしろ人間を迷いの方向に導き、宗教の本来の姿を見えなくさせてしまっています。宗教に入信して一生懸命精進しても、自分の願いや思いがかなわないとき、指導者に相談すると必ずといっていいほど、祈りが足らないとか、信心が足らないとか、精進が足らない、献金が足らないといわれます。いわれた方もそうかなと思い、ますます熱心になり、精進するということが繰り返されます。しかし、そもそもその根底にある勘違いは、宗教をすることや信仰をすること、祈ることや修行をすることで、自分の思いや願いが成就されると考えているということなのです。また、宗教の方も自分たちは特別なもので、救われるのは特別なものであると考えているということです。それらは、いずれも根本的に間違いなのです。それだけなら、ただの自己実現、自己充足にひたっているだけに過ぎません。
そもそも人間は、一般的にいって、苦しみからの救いを宗教に求めてきたのでしょう。ガリラヤの人々が求めたものも、例えば病気の回復、貧困や飢えからの解放、いろいろな人生における困難の解決を救いと考えていたと思います。または、旧約聖書のイザヤ書にある「苦しむしもべ」のような、苦しみの意味を求めたり、また生死の意味を求めたりします。また、実際的に死後の行方を求めるということもあります。そして、そこから反転して、宗教をこの世の道徳の基礎として説明するという構図もあります。つまり、死後に天国に行くために、この世でよいことをしようという、この現世での道徳の基礎として宗教を求める理由になっていきます。このように、人間はどの時代においても宗教を求める心理というものをもっているように思います。しかし、このような人間の素朴な宗教心は、イエスさまが感じられたこと、つまり自分が教えれば教えるほど、奇跡をおこなえばおこなうほど、むしろ人々を迷わせてしまっているのではないかという疑念、自己嫌悪になっていったのではないでしょうか。イエスさまは、自分が伝えようとされた神の国の真実と人々の思いの間に、あまりにも大きな乖離があることを痛感せざるを得なかったのだということです。そこで、イエスさまは、ガリラヤでの宣教活動に終止符を打って、ユダヤ教の中心であるエルサレムへいくことを考え始められるというのが、今日の箇所であると思います。
そこでイエスさまが弟子たちに、「人々は、わたしのこと何者だといっているか」と尋ねるという話がつづきます。このことは教会では大切なペトロの信仰告白として捉えられていますが、これは後の教会でのイエス・キリストへの信仰告白を土台とした教話の挿入です。ペトロの「あなたは、メシアです」という答えは、「あなたはイスラエルの新しいまことの指導者になられます」ぐらいの意味しかありませんでした。事実、ペトロの勘違いは、イエスさまが十字架上で亡くなられた後も続きます。ペトロがイエスさまの神の国の真実に気づかされたのは、復活されたイエスさまとの出会いの体験後なのです。ここで、むしろ大切なのは、ペトロの告白後に語られるイエスさまの生き方とその教えにあるといえるでしょう。
非常に簡単にいうと、イエスさまは自分が殺されること、それが自分の人生、生きることだといわれたのです。そのことをイエスさまは「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥され殺され、三日の後に復活することになる」といわれ、「自分のいのちを救いたいと思うものは、それを失うが、わたしのため、また福音のためにいのちを失うものは、それを救う」といわれたのです。人は皆、生きていれば死ぬ、しかし、死ぬことによって人は生きるのだといわれたのです。そして、それがイエスさまの後に従うこと、人間として生きることだといわれたのです。ある意味で、当たり前のことをいわれたのです。
大体の人間は、自分が生きていて、自分は自分で生きていると思っています。ですから、このようなイエスさまのことばが衝撃的に聞こえるわけです。しかし、少なくとも、わたしたちは自分の意志で生まれてくる人は誰もいません。そして、死ぬことも自分の意志ではコントロールできません。わたしたちが、自分が生まれることは決められないとしても、死ぬとき死ぬのはわたしであるのに、その死ぬことをわたしの意志では決められないということなのです。つまり、生まれてきたことも死ぬことも、わたしの意志ではないのです。生まれてきたので死ぬまで生きていく、これがわたしの人生だということなのです。それが、わたしたちはこの世に生まれて、だんだん大きくなっていくと、このからだ、このいのちは自分のからだ、自分のいのちであるように思いこみ、この人生は自分の人生であると思いこんでしまうのです。そして、自分の意志で生きていると思ってしまっている、だから自分の思い通りにならない自分の人生や死を、宗教を持ち込んで解決し、意味付けをしようとする、そこら辺から宗教が始まったのではないかと思います。そのように、わたしの思いをどこまでもすえ通らせようとするわたしたちに、「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」とイエスさまはいわれたのです。特に現代社会は、自分が自分の力や意志、科学の力で生きていると思い込んでしまっているのです。現代の個人主義はその最たるものです。しかし、わたしのいのちだと思っているいのちはわたしが作ったわけではないのです。では今生きているわたしは、一体だれが望んだのだということになります。それを神さまが望んだのだというのが宗教なのでしょう。しかし、その神さまはわたしだけの都合に合わせて、わたしを作っておられませんし、誰かの都合や思惑に合わせておられわけでもありません。ただ今こうして自分が生きてあるということ、そのこと自体が奇跡のようなものです。そのことが、あますところなく満ち溢れていることに気づくこと、それがまことの宗教のように思います。
そのことをイエスさまは、生きて死ぬといわれたのです。ですから、死ぬことによって生きること、生きるとは死ぬことだといわれたのです。だからわたしたちの思っているような救いなどもともとないのです。救われたよう思うことで、真実に気づかされるということではないでしょうか。わたしたちの人生の中での苦しみや困難が歴然として存在することには変わりません。しかし、苦しんでいるのは自分で、苦しみを苦しみとしているのはわたしであって、それがわたしの人生の中で起こっていることなのだと気づくこと、それにもかかわらず、わたしは生きている、今、生かされているということに気づくとき、それが救いであり、安寧であり、今まで苦しんでいた世界とは別の世界-同じ世界なのですが-がみえてくるということなのです。それをイエスさまは、「自分のいのちを救いたいと思うものは、それを失うが、わたしのため、また福音のためにいのちを失うものは、それを救う」といわれたのだと思います。