年間第29主日 勧めのことば
2024年10月20日 - サイト管理者年間第29主日 福音朗読 マルコ10章35~45節
<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗
今日の聖書の箇所は、イエスさまが3度目のエルサレムでの受難予告をされた直後のお話です。イエスさまは、「今、わたしたちはエルサレムに上って行く」といい、先頭に立ってエルサレムに向かって進んでいかれました。その姿に弟子たちは驚き、従う者たちは恐れたとあります(10:32)。さすがに鈍感な弟子たちも、周りの雰囲気やイエスさまの様子から、エルサレムに上ることは唯ならぬことであることに気づいたのでしょう。そのような状況のなかでのヤコブとヨハネの願いが描かれます。マルコ福音書は、イエスさまの3回の受難予告の直後に、無理解な弟子たちの姿があからさまに描かれています。その度に、根気強く、イエスさまは弟子としてのあり方を教えていかれます。今日のことばは、主導権争いに終始する弟子たちに対して、イエスさまの姿勢を要約したものといえるでしょう。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分のいのちを捧げるために来たのである」。これがイエスさまの自己理解であり、イエスさまが考えておられた神の国の宣教ということでした。
ヨハネ福音書の中の最後の晩餐の席で、自らが跪いて弟子たちの足を洗われるイエスさまの姿が描かれます。イエスさまは、福音宣教を人々への奉仕として理解されていました。わたしたちは、福音宣教というと、イエスさまを知らない人たちにキリスト教を教え、洗礼に導くことだと考えがちです。特に、戦後の日本の教会は、貧しく教育の行き届かない人たちに、教会の教えを伝え、教育し、洗礼に導くことを中心にやってきました。確かに、それも福音宣教の一部でしょうが、そのような捉え方は、福音宣教の真の姿を弱め、歪んだものとする危険があるといわざるを得ません。その一番大きな問題は、上から目線の教えてあげる的な布教で、イエスさまの福音宣教の姿勢とは根本的に異なっていたといわざるを得ません。
教会では、ながらく布教ということばが使われてきました。布教は大航海時代から使われた言葉であり、文字通りイエスさまを知らない人々に教え、教育をし、洗礼によって救いに導くことと定義されていました。その布教ということばは、プロパガンダ=宣伝が語源で、「特定の思想・世論・意識・行動へ誘導する意図を持った行為」であるといわれています。バチカンの福音宣教省は、かつては布教聖省といわれ、まさにそのような上から目線の発想でやってきました。大航海時代に始まる海外征服にキリスト教の宣教師が同行し、キリスト教の伝達という名のもとに霊的植民地化を推し進め、列強の植民地政策に協力してきたという経緯があります。第二バチカン公会議は、そのような教会の姿勢を改め、福音宣教(福音化)ということばをもちい、布教聖省も福音宣教省という名前に変更されました。第二バチカン公会議は、イエスさまの福音宣教の精神を再興しょうとしたのだといえるでしょう。
イエスさまの神の国の宣教の心構えは、「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分のいのちを捧げるために来たのである」ということばに要約されています。イエスさまは、福音宣教を奉仕として理解されていました。しかし、この奉仕ということばも気をつけて使わないといけないと思います。「仕える」というのですから、そこには上下関係が前提となってきます。実際、イエスさまも「あなたがたのなかで偉くなりたいものは、皆に仕えるものになりなさい。いちばん上になりたいものは、すべての人の僕となりなさい」といっておられます。少し意地悪な読み方をすると、あなたがたは偉くなりたいんでしょう、いちばん上になりたいんでしょう、それなら皆に仕えるものになりなさいという、弟子たちのレベルに合わせた方便の教えであるともいえなくもありません。主導権争いをしている弟子たちに、イエスさまはこのようにいうことが精一杯だったのでしょう。
仕えるとか奉仕するというと、どうしても奉仕する人のことばかりが取り上げられます。マザーテレサの活動は取り上げられますが、その奉仕を受けた貧しい人たちのことは取り上げられません。ノーベル平和賞を受けたのはマザーです。しかし、仕えるとか奉仕ということが成り立つためには、仕えるためには仕えさせてくれる人、奉仕するには奉仕させてくれる人が必要です。いくら仕えたいとか、奉仕したいと思っても、相手がいなければ成り立たないのです。ですから、仕えさせてくれる人は仕えてもらうということで、仕えたのであり、奉仕させてくれる人は奉仕してもらうということで、奉仕しているのです。ですから、どちらが上とか、どちらが偉いということなどないのです。わたしたちがレストランに食事にいったとき、給仕をしてくれる人がいなければ食事はできません。しかし、お客さんが来なければ給仕することもできないのです。皆がお客さんであったら、誰が給仕するのでしょうか。皆が給仕するのであれば、誰が食べるのでしょうか。日本では「お客さまは神さまです」といった時代がありましたが、神さまも給仕する人がいて、はじめて神さまになれるのです。このことがミサについてもいえるでしょう。皆がミサを司式すれば、誰が参加するのでしょう。皆が参加者であれば、誰がミサの司会をするのでしょう。ですから、そのような関係はお互いさまであり、相手があって初めて成り立つものであって、もちつもたれつであり、どちらが偉いとか、どちらが上下とかいうようなことは本来的にあり得ないのです。
それなのに、教える方が偉いとか、奉仕する方が上だとか、偉くなりたいんだったら仕えるものになりなさいなどということを教えること自体がおかしなことなのです。ですから、イエスさまは、最後の晩餐の席で弟子たちの足を洗われた後、「ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合いなさい(ヨハネ13:14)」とお命じになったのです。そして、さらに「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である(同15:12)」といって、相互愛の新しい掟、お互いに足を洗い合いなさい、お互いに愛し合いなさいとおっしゃいました。もはや、敵を愛しなさいとか、相手を一方的に愛しなさいとはいわれなかったのです。お互いにといわれました。但し、ここでイエスさまが「わたしが愛したように」といわれる愛は、十字架上で自分のいのちを与え尽くすまで愛する、そのような愛し方(同13:1)です。これは神さまの愛し方であり、わたしたち人間が通常できるものではありませんが、わたしたちが生来的に知っており、体験している愛でもあるのです。わたしたちがこの地上にいのちを受けたということは、無条件に愛されたということそのことなのです。しかしわたしたちはその愛を忘れてしまっています。わたしたちが覚えているのは、駆け引きの愛しか覚えていません。そこでイエスさまは、わたしたちのために自分のいのちを与え尽くすことによって、わたしたちにいのちの本来の姿を示してくださったのです。そのいのちの本質は、無条件にすべてを与えつくしていく愛であり、愛し愛されるダイナミックな愛、イエスさまの霊である聖霊です。「わたしの父はその人を愛され、父とわたしはその人のところへ行き、一緒に住む(同14:23)」といい、わたしたちの魂の内奥に現存する愛のいのちの働きをあきらかにしてくださいました。わたしたちはこのいのちの働きによって生かされているのです。これが、わたしたちのうちにイエスさまがおられ、わたしたちがイエスさまのうちにいるということです。
ですから、わたしが愛するときに、わたしが愛するというよりもイエスさまがわたしたちのうちにおいて愛しておられるのです。つまり、イエスさまがわたしにおいて他者を愛する、また愛されるものとなられているのです。このような愛の働きはわたしではなく、イエスさまの働きでしかないのです。この愛には、誰が誰に仕えるとか、どっちが上で下でとか、どっちが仕えるとか仕えられるというような人間の価値基準における区別、差異はないのです。愛することも愛されることも愛なのです。このような愛が、イエスさまによってすべての人に差別なく等しく注がれており、わたしたちはその愛に生かされているのです。このような愛はただ恵みであって、わたしたちが自力で獲得できるものではありません。わたしたちはこのいのちを受け、このいのちを生きるように呼ばれているのです。