年間第30主日 勧めのことば
2024年10月27日 - サイト管理者年間第30主日 福音朗読 マルコ10章46~52節
<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗
今日はバルティマイという目の見えない人を見えるようにされたという箇所が朗読されます。目が見えないということはどういうことでしょう。目が見えないということは、単にものが見えないということだけではなく、この世界が光に満ちているのに、その光を見ることができないということです。考えてみると、わたしたちは太陽の光があるので、いろんなものを見ることができるのですが、その太陽の光を意識するということはありません。太陽の光線は、透明なガラスを通り過ぎるとき、窓から入って来て、知らないうちに反対側へと出て行きます。しかし、ガラスが汚れていたり、曇っていたりすれば、光によってガラスが汚れていることに気づかされます。イエスさま自身が「わたしは世の光」であるといっておられますが、イエスさまの存在はこの世界のありとあらゆるものに平等に注がれ、すべてのものを刺し通す光のようなものではないでしょうか。その光は永遠の彼方からやって来て、常にわたしたちを照らし続け、わたしたちを包み込んでいます。
わたしたちが、光を意識するのは、光を遮る強烈な何かがあるときです。光がさして影ができることで光を意識する、また教会の壮麗なステンドガラスが美しく見えるのも、太陽の光を遮るものがあるからです。とすれば、光であるイエスさま自身が意識されるのは、そこにイエスさまを遮るもの、つまり照らされ、癒され、浄められ、贖われなければならない、種々の病や、誰も癒すことのできない傷、わたしたちが抱えている罪や闇があるときだといえるのではないでしょうか。しかし過去の教会では、そのような罪、傷や弱さ、貧しさや惨めさは、イエスさまと出会うための妨げ、障がいであると教えてきました。そうではないということなのです。つまり、イエスさまの光は絶え間なくわたしたちに届いており、その光がわたしたちに働きかけていることにわたしたちが気づかされたときに、わたしたちは病をいやされたとか、罪をゆるされたとか、傷が癒されたと感じ、イエスさまがおられることを感じるのだということなのです。イエスさまを感じるのは、光を妨げているものがあるからです。そして、その働きを感じ、その妨げが取り除かれたことをわたしたちはお恵みであるといっているのです。しかし、まことの恵みとは、わたしたちのうちにある光を妨げるものが取り除かれることではないのです。わたしたちの病気がよくなったとか、傷が癒されるとか、罪がゆるされて平和になったことをお恵みであるといいますが、そうではないのです。イエスさまの光が、わたしが何であっても何でなくても、わたしに絶え間なく注がれていること自体が恵みなのです。わたしたちは、神の働きの結果を感じるだけであって、それ自体が恵みでも救いではないのです。イエスさまが働いておられること、光が注がれていること自体が恵みなのです。
今日の福音に出てくるバルティマイは、目が見えませんでした。ですから、イエスさまを見ることができません。しかし、幸い耳は聞こえましたから、ナザレのイエスのお通りだという声が耳に入ってきます。目が見えず、暗闇のうちにいても耳は聞こえていたのです。それは、遥か彼方から聞こえてくる、バルティマイを呼ぶ声だったのではないでしょうか。バルティマイは、ナザレのイエスのお通りであると聞くと、人々の制止もものともせず「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫び続けます。長い間闇の中にいたバルティマイにとっては、イエスさま、どうぞこのわたしを憐れんでくださいとしかいえなかったのでしょう。最近のミサ曲で、「イエスさま、わたしを慈しんでください」と歌っていますが、そのような中途半端なものではない、「わたしを憐れんでください」というのはバルティマイのこころの底からの叫びなのです。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」といわれ、彼は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスさまのところへやって来ます。イエスさまは、「何をしてほしいのか」とお尋ねになります。彼は、改めて自分の目が見えないことを意識します。「先生、目が見えるようになりたいのです」。これは、彼のこころからの願いであり、これはわたしたちの魂の叫びではないでしょうか。この人の目が見えるようになったときに、一番先に見えてくるのはイエスさまです。
わたしたちが探し求めているものは何でしょうか。それは、イエスさまではないでしょうか。それでは、そのイエスさまはどこにおられたのでしょうか。イエスさまは、天地創造の前から、わたしとともにおられました。そのことに気づかず、イエスさまに背を向け続けてきたのは、実はこのわたしだったということなのです。イエスさまがおられなかったのではなく、わたしがイエスさまに背を向け続けていたのです。イエスさまは永遠の光として、絶えずわたしたちを照らし、包み込んで、わたしとともにおられました。目が見えないということは、わたしが、わたしたちともにおられるイエスさまの現存に気づいていなかったということに他なりません。このバルティマイは、わたしたち自身の姿です。
ずっとイエスさまはわたしたちともにおられるのに、わたしたちが目を閉じていたのだといえばいいかもしれません。わたしたちが目を閉ざしていれば、光は入ってきません。光がないのではなく、わたしが目を瞑って光を拒絶していたのです。しかし、わたしたちが目を瞑っていても、光はわたしたちを絶え間なく照らし続けています。生まれつき目が見えないのであれば、自分が光によって照らされていても、それが闇であることさえ分からないのです。つまり、自分が闇のなかにいることさえ気がつかないほどの深い無明の闇に沈んでいる、これがわたしたち人間の姿なのです。そのようなわたしたちですが、耳は開いています。目の見えないバルティマイでしたが、ナザレのイエスさまが近づいて来られるのが聞こえます。わたしたちがどんなに拒もうとも、イエスさまのわたしへの呼びかけの声は聞こえているのです。「天は神の栄光を語り、大空はみ手の業を告げる。日は日にことばを語り継ぎ、夜は夜に知識を伝える。ことばでもなく話でもなく、その声は聞こえないが、その響きは地をおおい、その知らせは世界におよぶ(典147、詩編19)」と詩編でも歌われています。イエスさまの声は世界に鳴り響いている、それにもかかわらず、その呼びかけの声に心の耳を閉ざしてきたこと、これがもっと深い闇であるといえるでしょう。“闇”という漢字が現している通り、まことの闇は、その呼びかけの声、“音”にも門を閉ざすことなのです。
バルティマイは目が見えないという現実を通して、イエスさまと出会いました。イエスさまと出会うということは、病を治してもらうということではありません。イエスさまに聞き従うことに他なりません。イエスさまの弟子たちは、長年、イエスさまと一緒にいましたが、イエスさまに耳を傾けていませんでした。イエスさまを見ていたかもしれませんが、イエスさまを見ていません。ここに本当に見えるということは何かということが問われます。イエスさまがともにおられるということなら、弟子たちもバルティマイも同じです。違うのは、イエスさまの呼びかけが聞こえたかどうかということです。信仰は、弟子たちのように、目に見える形でわたしたちが何かをするということではありません。わたしたちは、闇のなかにいて何もできないのですから、イエスさまの呼びかけが聞こえるという事実しかないわけです。このイエスさまの声を聞かせていただくということが信仰に他なりません。信仰はわたしの努力や善意で作り出せるものではないのです。イエスさまに従っているつもりの自作の信仰は、イエスさまの受難の前にしてあえなく崩れ去ってしまいます。それは、自分のこころのあり方を頼りにしているからです。大切なことは、わたしのこころがどうかではなく、わたしに呼び掛けられるイエスさまに聞くこと、信頼することなのです。これをもって信仰というのです。信じることで、わたしの心が平和になったとか、安らかになったということではありません。信仰は聞くこと(ロマ10:17)に尽きるといえます。わたしがどう聞いたとか、どう従ったとか、安心が得られたとかいうことでさえありません。そうなると、わたしの心の問題になりってしまい、そのような信仰は絶えず不安定なものとなってしまいます。イエスさまの呼びかけが聞こえるということだけが、真実であり、そこにまことの信仰の本質があるのです。