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教会からのお知らせ

年間第31主日 勧めのことば

2024年11月03日 - サイト管理者

年間第31主日 福音朗読 マルコ12章28~34節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の箇所は、エルサレムの神殿で、当時の宗教的指導者である律法学者との対話の場面で、モーセの律法のなかで何が一番大切かということが問題になります。というのは、当時、モーセの律法は細かく細分された613の項目に分かれていました。それで、律法学者の間では、どれが一番大切な掟かという論争がなされていたようです。そこで、律法学者が真摯にイエスさまに尋ねます。それに対して、イエスさまは、ユダヤ教の日常の祈りの信仰告白である「シェマ(聞け、イスラエルよ)」の最初の部分(申6:4~5)とレビ記(19:18)から、神への愛と隣人愛の掟をお答えになります。それに対して、律法学者は適切な受け答えをしたので、「あなたは、神の国から遠くない」といわれたのです。

キリスト教のなかでも、神への愛と隣人愛は、キリスト教の教えであるかのようにいわれ、またそれを実践するように教えられてきました。しかし、今日の箇所を読む限り、イエスさまは神への愛と隣人愛はモーセの律法の要約であって、これがわたしの掟であるといわれたわけではありません。そして、イエスさまご自身、この2つが律法の要約であると認めた律法学者に対して、「あなたは、神の国から遠くない」といわれました。遠くないということは近くもない、まして神の国に入れるといわれたわけではありません。しかし、キリスト教のなかで、この2つの掟が、イエスさまの愛の掟であるとか、キリスト教の掟、黄金律であるといったことが平気で教えられています。

一方でイエスさまは、律法で「隣人を愛し、敵を憎め」と教えられてきたイスラエルの人たちに、「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しいものにも正しくないものにも雨を降らせる」天の父の完全性を示し、敵への愛を説かれました。ここに律法に見られない新しさがあります(マタイ5:43~48)。そもそも人間は、自分を中心にして、自分の隣人(味方)と敵、悪人と善人、正しい人と正しくない人、ユダヤ人と異邦人などという区別、差別を作って生きてきました。それに対してイエスさまは、隣人と敵、善人と悪人、正しい人と正しくない人、ユダヤ人と異邦人といった区別、差別をしない天の父の完全性にもとづく一切平等を説かれたのです。しかし、わたしたち人間は、この神さまの本質である愛の完全性を受け入れることは非常に難しいのです。

イエスさまが誰も区別、差別されないということは、簡単にいうと、わたしが嫌いなあの人、わたしが憎んでいるかの人も、わたしを愛しておられるのと同じように愛しておられるということです。わたしたちは、自分が努力をして、一生懸命働いて、熱心に教会活動をして、真面目にミサに行っている。だから、イエスさまに当然受け入れられ愛されると思っている。しかし、イエスさまは、努力もせず、頑張りもせず、だらしなく、堕落しているとわたしが軽蔑しているあの人も、わたしを愛されるのと同じように愛しておられるということなのです。わたしたちは、救われ天国に行きたいと思っているかもしれません。しかし、わたしが考えている天国は、わたしの敵や罪人、堕落しただらしない人がいないところが天国だと考えているのです。つまり、わたしが救われたいと思うとき、わたしが嫌いなあの人、わたしが憎んでいるかの人は救ってほしいと思っていないということなのです。そのような人たちが天国に入るのは、わたしはゆるせないし、嫌なのです。それが、どこまでもいっても自分本位である、わたしという人間の惨めな本性です。しかし、イエスさまは、「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しいものにも正しくないものにも雨を降らせる」といわれるのです。それが、神さまの完全性です。その完全とは、失敗しないとか完璧な人みたいになるという意味ではないのです。わたしたちは、そのようなイエスさまのいつくしみ、愛の完全性を理解できずに、背を向けて生きることしかできないというのが現実なのです。

わたしたちが、たとえ隣人を愛するといっても、「敵を愛しなさい」といわれたイエスさまのことばを聞いて、わたしがその隣人の境界、枠を少しばかり広げることでもやっとなのです。わたしたちのいう隣人愛は、わたしの考えている境界を広げていくだけであって、それはどこまでいっても神さまの愛の完全性とは質的に異なったものでしかありません。神さまは、そのことを分かっておられましたから「自分を愛するように隣人を愛しなさい」としか教えられなかったわけです。わたしたち人間が愛するとき、自分を抜きにして愛することは不可能だからです。仏教の世界では、仏の愛を大慈悲といいますが、人間の愛は小慈悲といわれます。人間はどこまでいっても、自分というものを抜きにして愛することはできない存在であるということなのです。そのことを知らずして、隣人愛を実践しましょうと平気でいうことがいかに愚かかということなのです。自分が隣人愛を実践していると思っていることが、実は自分を愛していることに他ならないのです。ですから、神への愛と隣人愛を律法の中心であると答えた律法学者に対して、イエスさまは「あなたは神の国から遠くない」、でも「近くもない」といわれたのです。つまり、隣人と敵、悪人と善人、正しい人と正しくない人、ユダヤ人と異邦人というような区別、差別を作っているわたし自身の殻が破られない限り、神の国には入れないといわれたのです。では、どうしたらよいのでしょうか。

そのためには、わたしたちが、イエスさまの何ものをも区別しないその愛にまず触れること、イエスさまに聞くことであるといわざるを得ないと思います。どこまでいっても愛せない人間の弱さというか、人間の性に涙し、救いの計画を起こし、人間となってこの世界にこられたイエスさまが、先ずわたしたちを愛してくださいました。しかしその愛は、単に一方的で、無償でわたしたち人類をあわれみ、愛するだけでは終わらず、愛することができない人間が“愛するもの”となるまで変容するところまで及びます。これこそ、愛は愛されることによってしか完成しない神の愛の本質であり、人間を神の愛の本質に与らせようとされたということなのです。その上での神さまの壮大な救いのご計画であるといえるでしょう。それは、わたしたちがイエスさまを愛することによってではなく、先ずイエスさまがわたしたちを愛するという働きによってなされたものなのです。わたしたちは、わたしがイエスさまを信じることによって救われると思っているかもしれません。しかし、それだけなら、わたしがイエスさまを信じるというわたしのこころを確固たるものとしようとしただけであり、そのようなわたしのこころはいろいろな状況のなかで、いつどのように変わってしまうかわかりません。わたしの信念を強くするとか、わたしの疑いがなくなることが信仰ではないのです。信仰がただそれだけなら、結局わたしのこころの問題で終わってしまいます。そうではなく、イエスさまがわたしを愛されることで、わたしのなかに今度はわたしがイエスさまを愛したいという願いを呼び起こし、わたしのうちでイエスさまが愛してくださることによって、愛は愛されて完成されるのです。ただ不思議としかいいようがありません。

ですから、わたしを愛されるのはイエスさまであり、わたしのなかでイエスさまを愛するようにしてくださるのもイエスさまなのです。それが可能になるのが、最後の晩餐の席で弟子たちを極みまで愛し、十字架の上で自分のいのちを与え尽くすイエスさまの愛、聖霊がわたしたちのうちの恵みとして注がれていることに気づかされることによって実現していくのです。信仰は、この愛の働きを信じることに他なりません。ですから信仰はわたしのこころの持ち方ではなく、信仰自体がイエスさまの恵みなのです。わたしたち人間ができることは何もないのです。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい(ヨハネ13:34)」といって、わたしにご自分の愛を与えてくださった、そのイエスさまの愛がわたしに届いていることをわたしは信じさせて頂くことしかできないのです。そして信じさせて頂けるのも、それもイエスさまの愛の働きに他ならず、神さまの愛のダイナミズムにわたしたちが入れられていることに他ならないのです。

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