待降節第1主日 勧めのことば
2024年12月01日 - サイト管理者待降節第1主日 福音朗読 ルカ21章25~28節、34~36節
<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗
今年も待降節に入りました。待降節はイエスさまの降誕を待つ季節として理解されていますが、アドベントということばは「来る」という意味です。ですから、待降節は大きく2つの部分に分かれています。12月17日からは降誕前の8日間として、主にイエスさまの降誕に向けた準備の時期として位置づけられています。それに対して、待降節第1主日から16日までは、イエスさまの再臨ということがテーマとなっています。ですから、今日読まれる福音箇所は、イエスさまの再臨ということがテーマです。
このテキストは福音書のなかでも解釈の難しい箇所のひとつです。ルカはこの箇所の直前で、ローマ帝国によるエルサレムの都の包囲と滅亡を予告していますが、ルカが書かれたときすでにエルサレムの都は陥落していました。なぜこのように書かれたのかというと、エルサレムの陥落は聖書で預言されており、イエスさまを拒んだユダヤ人への神の怒り、裁きとして描きたかったのでしょう。ルカ福音書は、ユダヤ教からキリスト教になった人、またユダヤ人でないキリスト者に宛てて書かれています。エルサレムの都の陥落と多くのユダヤ人が虐殺され捕虜となったことは、彼らにとっても大きなショック、信仰の試練となったようです。というのは、当時のキリスト者たちにとって、エルサレムはイエスさまが最期を遂げられた聖地であり、救いはエルサレムから始まると考えていたからです。ルカ福音書の後編でもある使徒言行録では、「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父から約束されたものを待ちなさい(1:4)」と述べられ、聖霊降臨、そしてそこから福音宣教が始まることになっています。
当時の初代教会は、ユダヤ教から受け継いだ終末思想を生きていました。ユダヤ教の終末思想というのは、試練によって浄められたイスラエルの民にメシアが遣わされて救いがもたらされ,審判が行われて人類の歴史が完成するというものでした。この思想は初代教会にも受け継がれ、旧約聖書で預言されていたメシアであるイエスの生涯、死、復活によって終末と救いが始まり、メシア(キリスト)が再臨することで人類の歴史は完成され、神の国が到来するという期待が広がっていました。そして、その舞台がエルサレムでした。そうした期待が、苦しい状況を生きるキリスト者のこころの拠り所となっていたのです。
しかし、そこでキリスト者たちが体験したことは、神の沈黙とキリストの再臨の遅延という現実です。神さまは、エルサレムの都が滅ぼされ、民が殺されるままにしておられる。彼らはすぐにでもキリストが再臨して、ローマ帝国の支配を裁かれると考えていましたから、何が何だかわからないということだったと思います。ですから、この神の沈黙とキリストの再臨の遅延という事実について、キリスト者たちは再解釈をしなければならなくなったわけです。再臨の遅延を、さらに時間的に延長したり、精神化して捉えようとしたりしました。その後この終末思想は、キリスト教の教義となり、現在も死、審判、地獄、天国を四終として教え、私審判と公審判とか、天国・地獄・煉獄の教えと絡み合って、怖れでもって信仰教育をする時代が非常に長く続いていくわけです。21世紀になっても、このような前世紀的なことが教えられていることに驚かされます。
この終末思想は、特定の民族に偏った現世利益的な救済観、歴史観です。そもそも、イエスさまの十字架の死によって、ユダヤ人の救いは果たされませんでしたし、安定した日常も訪れませんでした。つまり、イエスさまはこの世から人類の苦しみをなくされなかったということです。わたしたち人間が生きていく限り、誰もが体験する老病死という現実はなくならなったのです。イエスさまはわたしたちの幸せを実現するような、またわたしたちが生きる上での苦しみ、老病死からの救い主ではなかったということなのです。初代教会の体験したことは、イエスさまの十字架、復活という出来事を信じても、自分たちの苦しい人生は何も変わらないということです。むしろ、それに追い打ちをかけるように、エルサレムの都の陥落、ローマ帝国によるユダヤ人の虐殺、その後はキリスト教徒に向けられる迫害と試練が続きました。その中で脱落者も出てきます。もとのユダヤ教に戻ろうとするもの、キリスト教信仰から離れるものも少なくありませんでした。彼らは、神の沈黙、イエスさまの不再臨に待ち疲れてしまいました。ユダヤ教から受け継いだ終末思想は、もはや彼らの信仰の拠り所にはなり得なかったということです。
それでも尚且つ、彼らがイエスさまへの信仰を持ち続けたのはどうしてでしょうか。当時の人々があれほどの試練のなかでも、イエスさまへの信仰から離れなかったのは、彼らが頑張ってイエスさまを信じ続けた意志の強さゆえでしょうか。そうではないと思います。もはや、人間の力でどうこうできる種類の状況ではなかったはずです。それはキリスト者が頑張って信じたからではなくて、イエスさまからの働きかけ、彼らがイエスさまから離れられない何かがあったのではないでしょうか。イエスさまは、当時の人々の望みに何も答えませんでした。ローマ帝国によってエルサレムの都が破壊され、ユダヤ人たちが殺害されあるいは捕虜にされ、今度は自分たちに迫害の矛先が向けられてくる。神は介入せず、イエスさまが再臨して自分たちを危険から守ることもされません。終末論的な希望はすべて打ち砕かれたのです。
それでも、彼らが信じ続けたのは、彼らの意志や信念、こころの強さではなく、復活されたイエスさまが彼らのなかに生きておられ、彼らを捕らえて離そうとされなかったということではないでしょうか。これを復活体験というのです。彼らはもはやイエスさまなしの人生など考えることが出来ないほど、イエスさまから深く関わられてしまったのです。パウロはそのことの体験を「キリストの愛がわたしたちを駆り立てているのです(Ⅱコリ5:14)」といいました。パウロ自身がではなく、イエスさまがパウロ自身を捕まえてしまったと告白するのです。だから「誰が、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができるでしょうか。艱難か。苦しみか、迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か(ロマ8:35)」というのです。わたしがイエスさまのことを忘れようとも、どれだけ離れようとも、呪おうとも、イエスさまは決してわたしを見放そうとはされない、そのことを体験した人は、自分のなかで復活されたイエスさまが今生きておられ、もはやイエスさまの再臨を待つ必要がなくなったのです。ただ、わたしがイエスさまとその人生をたどるために、待降節があり、降誕祭があるのにすぎないのです。わたしたちは、いつもガリラヤから始めて、わたしとともに歩んでくださるイエスさまとともに人生を歩んでいけるのです。
今生きているわたしたちは、その当時の終末思想の焼き直しのような終末論を教えられています。最後の審判で、正しい人は報われ天国に行き、悪人は罰せられる地獄に落とされると。イエスさまは、正しい人にも正しくない人の上にも注がれるいつくしみ深い神さまの真実を説かれたのではなかったでしょうか。それなのに、どうして教会は救われる人と救われない人を区別しようとするのでしょう。また、今もっても教会の内と外とを区別しようとするのでしょうか。イエスさまとともに生きている人にとって、もはやそれらの区別は存在しないのです。なぜなら、わたしたちは、わたしのうちに生きておられるイエスさまと出会っているからです。ですからわたしたちが気づきさえすれば、イエスさまはわたしたちのうちにおられ、わたしたちはイエスさまのうちにいるのです。その気づきを、イエスさまの降誕、イエスさまの再臨というのです。この待降節を迎えるにあたって、改めてわたしたちが置かれている身というものを省みてみましょう。