待降節第2主日 勧めのことば
2024年12月08日 - サイト管理者待降節第2主日 福音朗読 ルカ3章1~6節
<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗
今日は、イエスさまの宣教活動に先立つ洗礼者ヨハネの活動を述べます。ルカは、その際に“とき”ということを強調します。「皇帝ティベリウス治世の第15年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督であったとき…」と述べています。それは、おそらくイエス・キリストという出来事が、いわゆる伝説や架空上のおとぎ話ではなく、人類の歴史のなかで実際に起こった出来事であることを強調しようとしたのだと思います。
普通、わたしたちは現在・過去・未来というときの流れのなかに生きているというふうに考えています。また、時間というものがあると考えています。だから、よきにつけわるきにつけ、わたしたちは過去の行いによって今の自分があり、その自分が過去を背負って生きていくのだというふうに考えます。勧善懲悪的なものの考え方というものは、過去によいことをすれば将来よい報いがあり、悪いことをすれば将来罰がくだるという時間の流れの中で因果関係を捉えていくという発想になります。そして、実際の人間社会も宗教もそのように時間というものをとらえています。しかし、現代の物理学の発達によって、時間を初めがあって終わりがあるような現在・過去・未来というようなときの幅をもった連続として捉えるのではなく、時間というものはあくまでも、人間が天体などの運動法則等によって作り出された変化をはかるための物差しにすぎないと考えるのが主流となっています。ですから、人間が考えている現在・過去・未来というのは人間の作り出した物差し、決め事であって、宇宙そのものはそのような時間や空間の規定の枠のなかにはないというように捉えられています。ということは、わたしたち自身も宇宙の一部ですから、わたしは時空のなかにいるわけで、実は時間というものは人間の決めた約束事であり、必ずしも真実、リアリティあるものであるという確証はないということになります。つまり、今わたしが生きていると思っている時空の世界は、人間が理性で過去と未来として認識しているのにすぎず、今という現実を人間は認識することはできないということなのです。それでは、一体何が真実、リアリティなのでしょうか。
そのような観点から、改めて今日の箇所を読み直してみると、まったく別の読み方をしていくことができると思います。皇帝ティベリウス治世の第15年のとき、洗礼者ヨハネが悔い改めの洗礼を宣べ伝えた、預言者イザヤを通して「人は皆、神の救いを仰ぎ見る」といわれたそのときは、世界史的には紀元27年か28年にあたると特定されています。それによって、イエス・キリストという出来事を人間の歴史的事実として位置づけることができます。しかし、まったく別の観点から読み直していくと、その“とき”というのは、紀元27年か28年にあたる過去の時間のある一点をいうのではなく、人が皆、神の救いを仰ぎ見つつあるそのとき、イエス・キリストによって救いが実現しつつあるとき、わたしたちが“今、救われつつあるとき”、つまり永遠における今であるところの、わたしたちが決して捕まえることができないその“とき”であるということではないでしょうか。それが、神さまは永遠であるということです。
聖書の中では、イエスさまといついつに出会ったといういい方がなされており、わたしたちもイエスさまとの出会いというとそのように時間とか自分の人生の中でのこととして考えてしまいます。確かに、ヨハネ福音書では最初の弟子がイエスさまと出会ったのが「午後4時ごろ(ヨハネ1:39)」であったとか、パウロのようにダマスコへ行く途中で復活されたイエスさまと出会った(使徒9:2)というような体験が描かれています。確かにそうなのでしょう。しかし、大切なことは、今生きているわたしたちがイエスさまと出会うことができるのは、過去のあるときでもなく、まだ来ていない未来のあるときでもなく、わたしが生きている今この“とき”でしかないということです。聖書に描かれているような、過去の人の救いの体験というものは参考になるでしょうし、それを黙想して追体験するということもできるでしょう。しかし、救いそのものを、救われたという過去の出来事や思い出であるとか、その過去に起こった出来事にもとづいて未来に起こるであろうことであると捉えてしまうと、救いとは人間のこころの問題になってしまいます。そのようになると、わたしたちは過去の救いの体験にしがみつくか、未来の救いの希望にしがみつくことになります。こうして、救いはいずれも人間のこころの問題になってしまうのです。そうすると、わたしがどのように生きたかとか、どのように生きるかとか、わたしがどれだけ強く信じたかとか信じなかったかによって、救いが決まってくるということになっていきます。救いは、過去の出来事でも、未来の約束事でもありません。救いや永遠のいのちを、将来受けるであろう何かと捉えることになってしまいます。これらは人間の作り出したものであって、それらが真実であるという保証はどこにもありません。なぜなら、わたしたちが信じるというとき、その対象は不確かだということだからです。ですから、わたしが信じれば信じるほど真実が深まり、救いが確実になるということはあり得ず、信じれば信じるほど不信の闇は深くなるのが現実です。それは、救いを人間の信じるという行為によると捉えているからです。そうすると疑いのこころが起こるのは信仰が弱いからだといい、追い打ちをかけるような教えになってしまいます。
しかし、救いは神さまの行為であり、神さまの業です。人間の行為とか、人間の信仰の影響を受けません。しかし、人間は自分が救われたという証拠が欲しいので、救われたという体験を記憶につなぎ留めたり、教会に保証を求めたり、またそれを自分の信仰の深さに求めてきました。しかし、自分のこころを拠り所としている限り、そのような状態が長続きすることはあり得ません。それは、最初の弟子たちもパウロも同じだったでしょう。あの出来事は一体何だったんだろうと疑いのこころを起こしつつ、自問自答していたのではないでしょうか。ですから教会では、繰り返して感謝の祭儀をおこなって、イエスさまのことを忘れないようにしてきたのだと思います。そして、わたしたちは過去に犯した過ちや罪に対して恐れおののきつつ、将来訪れるであろう苦しみや罰に怯えながら人生を過ごすのです。教会がそのような教え方をしてきたということも否めません。しかし、もしわたしたちの人生がそれだけであれば、人間は人間が作り出した時間の奴隷にすぎません。そうではなく、神さまが永遠で、生きておられるということは、わたしたちがイエスさまと出会い救われるのは、わたしの業とか何かによるのではなく、わたしが生きている今、救われつつあるのは永遠の今であるこのときにおいては他にあり得ないということなのです。やれ救われた救われないという不確実な人間の思惑が入り込まない、しかしわたしたちが現実に生きている今というこの“とき”こそが、神さまとわたしとの出会いのために与えられた“とき”であるということなのです。そして、このときはイエスさまが人類のために一回きり、ご自分のいのちを捧げてくださったその救いのときでもあるのです。
主の降誕に向かってわたしたちは黙想会に参加したり、12月25日にイエスさまが来られると信じて馬小屋を整えたり、こころを浄めてイエスさまを迎えようと準備します。それ自体はよいことなのですが、考えてみると、確実なものなど何もないわたしたちは何と愚かなことをしているのでしょうか。イエスさまがわたしたちを訪れ、わたしたちのうちにイエスさまがお生まれになるのは、二千年前の過去のベトレヘムの馬小屋ではないのです。まして、まだ来ていない今年の12月25日でもないのです。イエスさまは、今生きているわたしのうちに、今お生まれになるのです。イエスさまがお生まれになるのは、“今というとき”をおいて他にはないのです。