information

教会からのお知らせ

主の降誕(日中のミサ) 勧めのことば

2024年12月25日 - サイト管理者

主の降誕(日中のミサ)  福音朗読 ヨハネ1章1~18節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の福音は「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった」と始まります。そもそも、ことばというものは何でしょうか。ことばの「こと」というのは音のことであり、音が意味をもったものがことばになるようです。ですから、ことばとは意味であるといってもいいと思います。わたしたちは普通にことばを使います。話すだけでなく、読んだり書いたりします。このことはよく考えてみると、非常に不思議なことです。わたしたちはいつどこで、ことばを使い始めたのでしょうか。自分のことを振り返ると、ことばを話す前の子どもであったとき、周りの大人や親から教わったといえるでしょう。しかし、その大人は誰から教わったのでしょうか。「オギャーオギャー」という音だけではことばになりません。音がことばになって意味がわかるようになるのですが、そもそもそのことばが何を意味するか皆がわかっていなければことばにはなりません。例えば神さまといったとき、神さまがいてもいなくても、皆はそれが何を意味しているかわかります。では、皆がわかっているそのことばの意味をだれが決めたのでしょうか。このようなことばの意味の不思議さに気づいた人が、「初めにことばがあった」といい、ことばはわたしが生まれる前より、人間がこの世界に誕生する前に、この世界や宇宙が誕生する前からあったといったのです。ですからその「ことばは神であった」といったのでしょう。

科学が発展したこの世界において、人間はすべてがわかると思っています。しかし、このわかるということは、わたしたちがそのことの意味をわかっているということであり、そのことをわたしたちはことばでわかっているのです。そして頭の中で、ことばで考えて理解しているのであり、ことばにならないものはわからないのであって、わたしたちがことばにすることで、わたしたちの世界が作られていきます。子どもがことばを覚えることで、自分の世界が広がっていく、その世界が作られていくのと同じです。現代人は見えるもの、理解できるものしか信じないといわれていますが、考えてみるとわたしたちは見えなくて、わからないものをずいぶん信じているわけです。愛情とか友情とかは目に見えませんが、それをことばにすることであたかもそれが実在するかのように信じているわけです。ですから、わたしたちはことばによって信じているともいえるのです。確かに友情も愛情も存在していますし、その意味でわたしたちはことばで信じており、ことばがわたしを生かしており、ことばはわたしそのものを作っているといっていいのかも知れません。人がことばを使っているようですが、実はことばが人を作っているのだといってもいいのはないでしょうか。

主の降誕はイエスさまの誕生を祝います。マタイ福音書では、「その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからです」といわれ、「その名はインマヌエル」といわれてもいます。イエスという名前は「わたしはあなたを救う」という意味であり、インマヌエルというのは「神は我らとともにおられる」という意味です。ヨハネがいおうとしていることは、先ずことばそのものというものがあって、わたしたちはそのことばによって創られて、そのことばによって生かされているのだということをいおうとしたのだと思います。そのことばそのものである方は、「わたしはあなたを救う」という方であり、「神は我らとともにおられる」といわれる方であるということをいおうとしているのでしょう。そして、そのことばは神であって、光であって、いのちであって、真理であって、恵みであるということをいおうとしているのです。

ことばが光であるということは、その光はすべての暗闇を照らす光であって、太陽のように影を作り出す光ではなく、影を作り出すことがなく、すべてのものを貫く光そのものであり、照らされないということがない、時間と空間を超えた光であるということを意味しています。わたしたちが理解できる光はすべて限界をもった光ですが、この光はこの世界、宇宙をあまねく照らし満たすような光であるということを意味しています。これが、ことばが光であるということの意味です。ですからこのような光はいのちそのものでもあるわけです。わたしたちが理解できるようないのちは、空間と時間の中にある限界をもったいのちですが、この世界にあまねく満ちる光であるいのちは、空間や時間に制約されるようないのちではありません。このいのちには限りがありませんから、永遠のいのちと呼ばれます。この世界は、このような永遠の光、永遠のいのちに満たされているのです。わたしたちはことばそのものが人間となること、つまりわたしたちのことばとなることで、その意味を知らせていただきました。ですから、この永遠の光、永遠のいのちはことばそのものであり、そのことばはこの世界、宇宙を満たしており、それをわたしたちは神と申し上げるのです。

このことばを通してわたしたちに知らせていただいたことが真実であり、真理なわけです。この真理はわたしたちが発見する前から、わたしたちがこの世界に誕生する前からあり、あきらかになっていることであって、わたしが信じる信じないに関係なく、わたしがわかるわからないに関係なく、この世界にあきらかにされており、この世界そのものであるところのものなのです。それがことば-イエスという方によってあきらかにされていくのです。このイエスという方は、「わたしはあなたを必ず救う」という方そのものであり、「わたしは世の終わりまであなたとともにいる」といわれる方なのです。わたしが、信じても信じなくても、わたしがキリスト者であろうとなかろうと、そんなことに一切関係なく、この世界の真実としてわたしたちとなって、この世にこられました。アウグスティヌスはこの真理のことを「おお、古くてまた新しい美、真理よ、わたしはあなたを知り愛することにあまりにも遅すぎました」と嘆いています。この真理に触れた人は、この真理に魅せられて、もはや自分の狭い了見や救いも罪も何もかも吹っ飛んでしまうのです。ことばの力が、わたしたちに日々働きかけ、今わたしのこころを動かすのです。ことばが世界を、宇宙を動かすのです。

イエスという名は、「わたしはあなたを必ず救う」という名、「わたしはあなたとともにいる」という名であり、そのことばがわたしたちのところにこられた、そのことばがわたしに届けられていることがあきらかにされたこと、それが主の降誕です。そして、わたしに届けられているその働きに気づくことが主の降誕を祝うこと、神の恵みというのです。「こうしたら救われる」「ああしたら救われる」というわたしのはからいの世界ではなく、ことばの受肉において、永遠においてすでに実現している真理と恵みに気づかせていただくとき、時間と空間を貫いてわたしの中に永遠が入ってくるというか、今わたしが永遠の中にいることに気づくこと、そのことが救いなのです。これは2千年前の話でも、死んでからのことではありません。今、わたしに起こっていることなのです。ただそこのことを知らせるためにだけ、ことばは人間となられ、わたしたちの中にすべてがあることを教えてくださいました。救いは遠きにあるのではなく、わたしの中にあるのです。

(勧めのことばは主の公現から再開します。)

お知らせに戻る

ミサの時間

毎週 10:30~

基本的に第2、第5日曜日のミサはありません。大祝日などと重なる場合は変更があります。