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教会からのお知らせ

年間第2主日 勧めのことば

2025年01月19日 - サイト管理者

年間第2主日 福音朗読 ヨハネ2章1~11節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日はカナの婚礼で、イエスさまが最初のしるしを行われた箇所が朗読されます。この場面は、元々は1月6日の主の公現において祝われてきました。主の公現の起源はクリスマスより古く、救い主であるイエスさまが全人類にご自身を公に現された出来事を、東方の占星術者の訪問、主の洗礼、カナでの最初のしるしとして祝ってきたことに由来します。

さて、今日の場面は婚礼の席上です。聖書のなかで婚礼は特別な意味をもっていて、婚礼は喜び、祝いのシンボルで、花婿と花嫁の関わりは、しばしば神とイスラエルの民との関係にもたとえられてきました。そしてここでは、婚礼は神の国が到来しているしるしとして描かれています。そこでひとつのハプニングが起こります。それは婚礼の席で欠かせないぶどう酒が足りなくなるということです。物語の顛末は、イエスさまがユダヤ人の清めに用いる石の水がめに水を満たし、水をぶどう酒に、しかも最上のぶどう酒に変えたということで宴会が無事に終了します。さて、この物語の意味は何でしょうか。

ここでユダヤ人が清めに用いる石の水がめというシンボルが出てきますが、ユダヤ教の律法によると、人間が聖なるものとなるために、つまり神さまによって義とされる、よしとさるためには、徹底して汚れを避け、汚れを清めることが大切とされてきました。清められて聖なるものとなること、これがユダヤ教の救いと考えられてきました。どの民族、宗教にも汚れという考え方がありますが、そもそも汚れという考え方は清いという概念を前提としたもので、ものごとを聖と汚れとにわけ、汚れを避けて聖となることで、聖なる方、神さまと一致すると考えられてきました。日本の神道などはその典型です。ユダヤ教でも、汚れを避けるということが最重要とされ、聖書のなかでも「ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある(マルコ7:3~4)」と記されています。ですから「ユダヤ人の清めのしきたり」を守るためには、多くの水が必要で、そのためにどこの家でも清めのための水がめがあったのです。食事の前や帰宅したら手洗いをする、沐浴をする、また食物についての禁忌などは清浄規定といわれるもので、衛生という観念がなかった時代、それらのしきたりを守ることで人間の心身の健康を保つという人間の知恵だったのです。実際、それらのしきたりに宗教的な意味をもたせることで、人々によりその規定を守らせようとしました。しかし、清めという考え方は、ものごとの区別、差別を生み出していくことになります。「汚れたものが触れるものは、すべて汚れる(民数記19・22)」と考えられるようになり、宗教的な規定は自分の内にも、自分の外にも区別、分断を作り出していきます。ですからユダヤ人は自分が汚れることを極端に恐れ、日に何度も手洗い、沐浴をするようになり、そのためにどの家にも水がめがありました。

しかし、日に何度も繰り返される清めで、人間の外側の汚れを拭い去ることはできても、人間の内側の汚れを拭い去ることはできないことにすぐに気づきます。つまり、わたしたち人間の外側を清めるという行為や自らの努力では、人間の内側は清められないし、それによって聖なる方と一致することはできないということなのです。そのことに気づかず、それを毎日延々と繰り返し、そのむなしい努力によって神さまに近づこうとしている、これが旧約聖書であるということです。そこには、どれだけ入念に清めや沐浴をおこなったとしても、これで大丈夫という安心はなく、そこにまことの平和、喜びはありません。規則は守られていて非の打ち所がないのかもしれませんが、そこにいのちがない、喜びがない、愛がないということが起こってきます。これがまさに旧約であり、婚礼のお祝い喜びの席に不可欠なぶどう酒がない状態なのではないでしょうか。しかし、イエスさまは、カナの婚礼の席で祝宴のために不可欠なぶどう酒がないという状況を、ユダヤ人が清めのために使う石の水がめに水を満し、それをよいぶどう酒、それも最上のぶどう酒に変えることで喜びの宴へと変容されました。旧約時代、人間はどれだけ自分の力や努力によって自分の汚れを拭おうとも、自力で自らの汚れを拭い去ることはできませんでした。ですから婚礼の席でぶどう酒がない、表面上が整っているようでも内的には喜びがないという状況だったわけです。しかし、自力で自分を清くすることができると思い込んでいたファリサイ人たちにとってはそれしかなくて、延々と清めを繰り返すという負の連鎖に陥っていくしかなかったのです。

ここで大切なことは、今まで清めのために必要であった石の水がめの水を、イエスさまがぶどう酒に変えてくださったということです。つまりわたしたち人間の力で千年かかってもできなかったことを、イエスさまは一瞬のうちに成し遂げてくださったということなのです。イエスさまは「外から人の体に入るもので人を汚すことのできるものは何もない(マルコ7:14)」といい、人間の外の汚れを清める石の水がめを満たしていた水を、婚礼の祝いの席の最上のぶどう酒に変えてくださいました。つまり、今までわたしたちの外側を清めるために使われていた水がめの水を用いて、わたしたち人間が口から飲み、人間を内側から養い、わたしたちの内も外も包み込んで、わたしのすべてを喜びに変えてくださったということなのです。イエスさまは、聖と汚れという区分を相対化し、清めのための水を喜びのぶどう酒に変えてくださったのです。何とかしてちまちまと汚れをはらっていたという次元から、わたしたちを直接に神さまとの交わりに高めて喜びで満たすという、まったく違う次元にわたしたちを招いてくださったのです。

こうして、今まで人間が自分の力で自分を清めようとしていたあり方を終わらせ、イエスさまがわたしを根本的に変える働きとしてご自身を示してくださったのです。この新しい新約のとき、主語がわたしたち人間から、神・イエスさまに根本的に転換されていくのです。このイエスさまの働きを押し広げていくためには、わたしたちはイエスさまの働きに身をゆだねていかなければならないのです。イエスの母を通して「この人が何かいいつけたら、そのとおりにしてください」といい、わたしを変えるイエスさまの働きに自分をあけわたすように招いています。わたしたちが頑張って悪い心からよい心になるのではありません。イエスさまの働きに、わたしたちをあけ渡していくのです。そのときイエスさまが働かれ、清めのための水は婚礼のぶどう酒に変えらます。イエスさまがわたしのうちにおいて働かれるためには、イエスさまがわたしたちのうちで自由に働きになれるようにして差し上げること、これが新約を生きるということなのです。その秘訣を洗礼者ヨハネは、「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない(ヨハネ3:30)」といい、イエスの母は「この人が何かいいつけたら、そのとおりにしてください」といい、己の身をイエスさまにあけ渡していくように招いています。

カナの最初のしるしは、イエスさまがわたしたちを変えることができ、救うことができる救い主であることを人類に現されたことを記念します。この旧約時代から新約への転換、このイエスさまの新しさにわたしたちが与るためには、「この人が何かいいつけたら、そのとおりにしてください」といわれた招きに従い、わたしの中でイエスさまが自由に働かれるように、我が身をあけ渡していくように招かれています。こうしてわたしの中でイエスさまが主となられ、わたしの中ですべてをしてくださいます。わたしの中でイエスさまがすべてをさせるとき、わたしは使徒、福音宣教者なのです。イエスさまはわたしを使って福音宣教をすることを望んでおられます。しかし、わたしがイエスさまの働きの邪魔をしてはならないのです。イエスさまがわたしの中で自由に福音宣教することがおできになるように、我が身をあけ渡していくこと、その大切さに気づかせていただく恵みを願いましょう。

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