主の奉献 勧めのことば
2025年02月02日 - サイト管理者主の奉献(年間第4主日) 福音朗読 ルカ2章22~32節
<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗
今日は主の奉献の祝日です。第二バチカン公会議前は「マリアの清めの祝日」でマリアの祝日でしたが、公会議後は焦点をイエスさまにあわせ、主の奉献の祝日として、イエスさまの祝祭日となりました。今日の祝日も主の洗礼の祝日もそうですが、少し理解に苦しむ祝日です。主の洗礼の祝日は、イエスさまがどうして洗礼を受ける必要があったのかということです。なぜなら、洗礼者ヨハネがおこなっていた洗礼は、メシアの到来を準備するための民の改心と清めの意思表示としての洗礼でした。それをメシアであるイエスさまが、どうして改心と清めの洗礼を受ける必要があったのかということでした。主の奉献の疑問点は、イエスさま自身が生きた神殿であるのに、どうして人間の作った神殿で捧げられる必要があったのかということです。聖書の中では「律法の規定どおり」とありますから、イエスさまは望むと望まないに関わらず、律法に従われたということになります。イエスさまは赤ちゃんですから、自分の力で何もできない弱い存在です。だからマリアとヨゼフのする通りに、人間の決めた通りにするしかできないわけです。いくらそれが理屈に合わないことであっても、不条理なことであってもそれを受けていく、イエスさまはそれほど弱く、貧しく、小さい者となられたということなのでしょう。そして、この弱く小さい貧しいイエスさまが、「万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、イスラエルの誉れ」であるという逆説的な真理を表しています。イエスさまの救いは、人間の理解を超えた世界です。
それでは異邦人を照らす啓示の光、万民の救いとなる光とはどのような光でしょうか。そもそも光は何ものも区別をしません。日の光はすべてのもの上に平等に注がれます。「善人の上にも悪人の上にも太陽を昇らせ」とイエスさまがおっしゃるとおりです。このように、すべてを照らすイエスさまの光は、ユダヤ人であるとか異邦人であるとか、善人であるとか罪人であるとか、男であるとか女であるとかの区別なしに、すべてのものを照らし、すべてのものを包み込みます。まさに万民の救いです。イエスさまの愛は、すべてのものを包み込み、すべてのものを救い取ります。何ものも取り残したり、排除したりしません。イエスさまはこのような意味で光そのものです。しかし、わたしたち人間は、わたしたちの小さい頭で考えた人間の救いの基準で、自分という基準で、あるいは教会が決めた基準で、イエスさまの愛を判断してしまいます。そして、人のことを、また自分のことを見てしまいがちです。しかし、イエスさまの愛はすべてのものをあまねく照らす光であって、そこに何の障りもなく、区別もありません。
このような光は、闇の中で意識され、闇を照らし、闇を追い払うような光です。光が光であることが意識されるのは、たいていは闇の中にいるときです。昼間、日の光が満ち溢れているときに、光を意識することはありません。ですから、光としてのイエスさまをわたしたちが意識するのは、わたしたちが闇の中にいるときなのです。わたしたちはよく、これは神さまのお恵みであるとか、神さまの働きであるというようないい方をします。それはたいていの場合は、自分が助けられたとか、困っていることが解決したとか、自分の思いがかなったとか、病気が治ったとか、罪がゆるされたというようなことではないでしょうか。それは何かというと、神さまに向かうのを妨げているとわたしが思っているものを、神さまが取り除かれたということではないでしょうか。重い病気があればそれが治るとか、犯した罪がゆるされたとか、解決できないような問題が解決されたとかいう場合です。つまり、わたしの都合がよくない何かがあって、それがひとつの闇と思っていて、そこに光が差した、何かがよくなったということを神さまのお恵みだといっているのです。ですから闇に輝く光として光を体験することは、わたしたちにとっては、イエスさまがそこにおられ、働いておられる単純なわかりやすいしるしになるということなのです。しかし、それはまことの光を体験したことにはなりません。自分の都合がよくなっただけの話だからです。
光は夜昼関係なくわたしたちを照らし続けています。わたしたちが救われたとか、助かったという実感があってもなくても、光はわたしたちに注がれていることになります。わたしたちが、これは神さまの恵みだとか、神さまの働きだと感じなくても、絶え間なく神の恵みはわたしたちのところにあり、神は絶え間なくわたしに働いておられるのです。わたしたちは、このような真昼の光、わたしたちが捕らえられないような当たり前となっている光を意識することは大変難しいといえるでしょう。わたしが理解し体験できる光は、わたしの知性と感覚で捕らえることができる有限な光であって、有限な光であれば、すべてのものを照らすことはできないのです。人間が捕らえることのできる有限な光というものは、影を作り出してしまいます。光そのものは、すべてのものを平等に照らしているようですが、大きなものが前にあれば、その後ろにあるものは影になって光はあたりません。また強い闇の中では、光は闇に吸収されてしまいます。しかし、イエスさまが光であるといわれるような光は、何ものも区別することなく、何ものも妨げとなることなく、地獄の底の底まで照らし、この宇宙の隅々まで満たすような光、働きなのです。ですから、通常わたしたちには捕らえられないのです。復活徹夜祭で歌われる復活賛歌の中にあるように、その光は「火の柱の輝きによって、罪の闇を打ち払い」、「絶えず輝き、夜の闇が打ち払われ」るような光、「その光は星空に届き、沈むことのない明けの星」、陰ることのない光、無量無辺で無碍の光、永遠の光、「人類を照らす光」です。キリスト者だけの専売特許の光ではありません。すべての人に、すべてのものに、すべてのところに、いつの時代にも、時間と空間を超えた照らされる永遠の光なのです。このような光によって、わたしたちは照らされ、収め取られているのです。この光は何も区別しない、何も差別しない。キリスト者であろうと、仏教徒であろうと、宗教をもたない人であろうとなかろうと、善人悪人を問わず、全人類、全宇宙の隅々にまでいきわたる光なのです。これが、イエスさまが異邦人を照らす光、すべてのものの救いであるといわれる意味なのです。
ところが、わたしたちはこのイエスの光の中にあっても、わたしたちの小さな頭で考えた理屈や教会の決めた基準で、その光に背を向け、わたしたちの心の目が覆い隠されてしまいます。わたしの小さな自我へのこだわりが、イエスさまの救いを妨げ、イエスさまの働きを拒否し、イエスさまの光を自分自身で見えなくしてしまっているのです。それが、わたしたちが自分で闇をつくり出していること、無明、罪といわれるものなのです。それでもイエスさまは、あきらめることなく、倦むこともなく、わたしたちを照らし続けてくださっているのです。これがイエスさまの大いなる慈悲の光なのです。これは人間の頭や知恵の理解を超えた世界であり、そのことをわたしたちは今日記念します。わたしたちのうちに光として来られたイエスさまは、何の条件もつけず、無償で、照らし続けておられるという真実にわたしが気づかせていただき、その慈しみの光にわたしたちは身を委ねればよいのです。わたしたちの罪とか弱さ、限界によって、イエスさまの光が妨げられることも、遮られることも、陰ることも一切ありません。わたしたちはわたしたちを救おうとされているイエスさまの働きに目を向け、イエスさまの知恵、慈悲に出会わせていただくように呼びかけられているのです。その光、その声は、今、わたしに届いているのです。このイエスさまの慈悲と出会うことが信仰といわれ、この信仰を生きることがわたしたちの祈りなのです。祈りは、難しいことばを唱えることでも、特定の祈りの文句を唱えることでもありません。わたしを救おうとされるイエスさまの働きに、わたしたちが単純化された愛のまなざしを注ぐこと、イエスさまの愛のまなざしとわたしのまなざしが出会うこと、この2人の愛の交流にわたしが身をゆだねることに他ならないのです。