年間第5主日 勧めのことば
2025年02月09日 - サイト管理者年間第5主日 福音朗読 ルカ5章1~11節
<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗
今日は最初の弟子の召命について描かれています。共観福音書にはいずれも最初の弟子の召命について報告がありますが、ルカの特徴はその出来事の内面を描いているということです。今回は、それを見ていきたいと思います。
わたしたちは召命というと、すべてを捨ててわたしたちがイエスさまに従うことだと思いがちですが、わたしたちの側からみればそうかもしれませんが、それは召命の一面を捉えているとしかいえません。聖書において召命は、イエスさまが彼らを見て、イエスさまが彼らをお呼びになる出来事として描かれています。そこには、わたしたちが何かをする前に、イエスさまの存在、働きというものが先にあるのです。わたしたちは自分が何か新しいことを始めるとき、自分が選択して決断したと考えます。しかし、わたしが何かを選んで決断したというよりも、新しい生き方がわたしを選んで、わたしを動かしている出来事なのだというふうにいえないでしょうか。わたしたちの力や努力、計画やはからいを超えた何か大きな力がわたしたちに働いて、その大きなものにわたしたちが突き動かされるというような体験です。それをわたしたちは召命ということばで説明しています。召命のラテン語の元の意味は「呼ぶ」であって、その主語はわたしではなく神さまです。神さまが呼ばれる、これが召命の意味であって、わたしの決断とか選択という意味はありません。それがいつの間にか、わたしが何かを決断すること、応えることだと思われるようになってしまいました。
しかし、今日の福音を読むと、イエスさまが弟子たちを見て、呼ばれるということがはっきりしています。過去、教会のなかでは、召命というと司祭・修道者になることだと狭く解釈されてきました。それはひとつの結果であって、大切なことはわたしたちが何か大きなものに呼ばれていることに気づかされ、その懐深くに入り込んでいくことであるといえるでしょう。そこには、まずわたしたちの力や予測をはるかに超えた大きな存在、働きがあって、それが自分に働きかけてくるという体験をすることが大切になります。ですから百人いれば百通りの体験があるということになります。それがペトロの場合は、不思議な大漁ということでした。イエスさまの話を聞こうとして、多くの人が集まっています。イエスさまは漁の片づけをしているペトロの持ち船に乗って、人々に教えられました。ペトロは、イエスさまが自分を選んでくださったのだと、調子に乗っていたかもしれません。話が終わると、イエスさまはペトロに沖に漕ぎ出して漁をするようにといわれます。ペトロの機嫌は急に悪くなったのではないでしょうか。ペトロはプロの漁師で、昨夜は一晩中漁をしましたが何も取れませんでした。この無謀な申し出に、ペトロの機嫌は悪くなり、こころは不信でいっぱいになったのではないでしょうか。しかし「おことばですから、網をおろしてみましょう」と漁を始めます。そうするとおびただしい魚がかかるという出来事が起こります。
そこでペトロは、自分の力をまったく超えた大きな神の働きを体験します。同時に自分とは何かという自己認識も深めていくことにもなります。それがペトロの「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深いものなのです」ということばとなって表れてきます。ペトロが何か罪を犯したわけではありません。しかしペトロはイエスさまのことばを通して、漁師としての自分のキャリアもプライドも打ち砕かれるような体験をします。そこで、ペトロは自分をはるかに超えた大きなものと出会うという体験をしました。「降参です」とか、「参りました」といって頭を下げるという感じでしょうか。イエスさまはこの出来事を通して、ペトロに正しい自己認識、己の限界と罪深さということを体験させたのです。このような体験は必ずしも、わたしたちにとって心地よいものではありません。しかし、こうした体験を通して、わたしたちの心のやわらかさが養われていきます。
ペトロは、カファルナウムの住民の中では、自分は罪人であるとは思っていなかったでしょう。この町で、ペトロは普通のユダヤ教の信徒、それほど熱心なわけではないけれど、かといってそれほど悪くはない。ペトロを支配していた思いは、自分は胸を張れるほど熱心で信仰深いわけではない、でもあの徴税人や娼婦ほど悪くはない、どちらかといえばまだまともな人間だと思っていたのではないでしょうか。ちょうどわたしたちが、自分はそれほど悪くない、少しはまともな人間だ、よいカトリック信者だ、司祭だと思っているのと同様です。ですから、自分が罪深い人間、罪人だとは間違っても思っていませんでした。自分はまともだとか、誰よりはましだと思っていますから、人への優しさや愛情をもつこと、人の痛みや弱さに共感していくことは難しかったのではないでしょうか。しかし、イエスさまは武骨なペトロを、神さまの憐れみと慈しみに触れさせ、自分の罪深さについて自発的に、それも卑屈にならずに認めさせ、自分こそ神さまの憐れみとゆるしを必要としている第一の人間であるということに気づかせられたのです。わたしたちは、自分に注がれている神の憐れみと慈しみを体験すればするほど、自分こそが他の誰よりも神さまからの憐れみと救いを必要としているもっとも貧しい罪人であることをはっきりと思い知らされます。他の誰かよりはまともだなどとは考えもしないのでしょう。このような自己認識は究明、反省をして得られた自己認識ではなくて、神さまの憐れみに触れることによって恵みとして与えられたものなのです。苦労して頑張って、反省しても、神の慈しみの体験がないのであれば、その人は道徳的な内省に留まっており、福音的ではなく、むしろ害悪となってしまいます。
イエスの弟子となるということは、自分が他の誰よりもイエスさまの救いと憐れみを必要としている大悪人、罪人の中の罪人であることを知るということです。それは、自分が具体的な罪人であるという意味ではなくて、わたしが実存的な意味で罪人であることを知っているということなのです。このような自分の限界、貧しさを体験することを通して、イエスさまとのさらなる深みへと招かれていきます。召命はイエスさまから呼ばれ、それに応えることだけでは終わりません。さらにイエスさまの懐深く入っていかなければなりません。自分の内なる魂の深みに降りていくことだともいえるでしょう。キリスト者であれば、自分は洗礼を受けたとか、司祭になったとか、修道院に入ったとか、結婚生活に入ったとか、どこからどのように入るのかという形に囚われがちですが、大切なのは形ではありません。どこからどのように入ったとしても、いつまでも入り口でうろうろしていないということが大切なのです。いつまでも自我をくすぶらせ、イエスさまの懐深くに入り込むことなく、イエスさまとの関わりを深めることをないがしろにして、自分の立場や生活に囚われて、入り口をちょろちょろするようになってはならないのです。罪を犯さなくなるとか、倒れなくなるということが問題なのではなく、いついかなるときにおいてもイエスさまにおいて前進することが大切なのです。どれほどの信徒・司祭・修道者がイエスさまとの関わりをないがしろにして、組織の運営、維持管理、形式的な祈り、外面的な信仰生活に留まり、そこにエネルギーを裂き、キリスト者として生きていると錯覚していることが何と多いことでしょうか。これこそ召命への不誠実ということなのです。
最初の弟子たちは、イエスさまとの出会いの驚きを通して、自己認識を深めイエスさまとの深みへと招き入れられてきました。イエスさまと出会いは、絶え間のない驚きの連続であり、わたしたちに自分の真の姿を見せつけます。イエスさまに頭を下げて「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深いものなのです」といい、「主よ、罪人であるわたしをあわれんでください」というしかない我が身を見せつけられます。しかし、イエスさまは「恐れることはない。わたしに従いなさい」といって、わたしたちをご自身とのさらなる深みへと招き入れてくださるのです。罪人でしかない己を知るという出発点にわたしたちが立ち、そこから生涯をかけて、日々イエスさまとさらなる懐深くにまでわたしたちが入り込んでいくこと、ここにわたしたちの召命、信仰生活があるのです。