年間第7主日 勧めのことば
2025年02月23日 - サイト管理者年間第7主日 福音朗読 ルカ6章27~38節
<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗
今日の福音の箇所はイエスさまが敵への愛を教えられた箇所です。マタイ福音書では「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしはいっておく。敵を愛し、自分を迫害するもののために祈りなさい(5:43)」の並行箇所にあたります。ユダヤの律法で「隣人を愛し、敵を憎め」と教えられていましたが、しかし「わたしはいっておく」といって、イエスさまが律法を超える新しい教えを述べられた箇所になります。
「隣人を愛し、敵を憎め」といわれていることは、ユダヤ教だけでなく、わたしたちにとっても当たり前となっている価値観です。同胞の権利を守り、敵国を排除すること、また被害者の権利を守り、加害者を罰することなど、わたしたちは普通のこととして考えていることではないでしょうか。そして、多くの国の法律がその考えに基づいて定められています。しかし、イエスさまは、わたしたちがよい市民であるとしても、それだけで満足しているのであれば、それならだれでもしていること、罪人でも同じことをしているといわれます。イエスさまは「敵を愛し、あなたがたを憎むものに親切にしなさい」といわれました。わたしたちの悪口をいうもののために祈り、頬を打つものにもう一方の頬を向け、上着を奪い取るものに下着をも与えなさいといわれます。それでは、そんなことはわたしたちに可能なのでしょうか。
イエスさまはその根拠として、天の父の憐れみ深さをもって説明しようとされます。「いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである」といわれます。そして、「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深いものとなりなさい」といわれます。マタイでは「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全なものとなりなさい(5:48)」といわれています。そこでは、神の憐れみ深さというものが天の父の完全性に置き換えられています。わたしたちは、神さまの完全性というと、神さまの全知全能ということを考えます。全知全能ということは、いつでもどこでも自分の思いや願いを叶えることができるということだと考えます。そして、わたしたちは自分の思いや願いが叶うことが、幸せであると考えます。しかし、自分の思いや願いが簡単には叶わないことも知っています。ですから人間社会のなかでは、自分の思いや願いを叶えることができるような一握りの権力者やリーダーになることを目指します。そして、それが現代社会の価値観ともなっています。
しかし、神さまが全知全能である、またその完全性というものは、自分のやりたいこと思うことができるという意味ではなくて、神さまの完全性とは慈しみ憐れみ、愛そのものであるということがイエスさまによって明らかにされます。つまり神さまの完全性、その本質は、慈しみ憐れみ愛することそのものであるということなのです。ということは、神さまは、相手を慈しみ、愛し、ゆるし、自分を与えることしかできないということなのです。それが神さま、真実の世界のあり様であるというのです。ルカでは「いと高き方は、恩を知らない悪人にも、情け深いからである」といわれています。このことは、マタイでは「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しいものにも正しくないものにも雨を降らせてくださる(マタイ6:45)」といわれていることです。太陽や雨は善人悪人、正しい人正しくない人を区別しません。すべてのもの上に平等に注がれます。これが神さまの完全性ということなのです。人間であれば、善人を選び、悪人は退けるとか、正しい人は受け入れ、正しくない人は受け入れないということをするでしょう。しかし、神さまの慈しみの愛の完全性というものは、善人悪人、聖人罪人の区別をすることがなく、ただ人間を等しく慈しみ、愛し、ゆるされる、そのようにしかできないということなのです。これが神さまの慈しみ、憐れみ深い愛の本質であり、愛は慈しみ、憐れみ、ゆるすことしかできない、そして、人間を愛し、憐れみ、慈しむことが神さまの喜びなのです。なぜなら、神さまの本質は慈しみ、憐れみ、愛ですから、その本質を実現することしかできませんし、そのことが神さまの喜びだからです。神さまの愛は、わたしたち人間の正義や善悪の基準に左右されません。神さまはわたしたちのように、人を罪人だと決めつけたり、裁いたりはされないのです。
実はこのような無条件の、絶対平等の愛を、わたしたちは人間の赤ちゃんのとき体験しているのです。ただ、そのことを覚えていません。しかし、この世に生まれてきたということ自体が、たとえわたしたちが覚えていなくても、無条件の愛を受けたという事実に他ならないからです。赤ん坊は何もできません。おなかがすいたといって泣き、おむつか濡れたといって泣き、泣くことしかできません。その度に親にあたる人たちは、よしよしいい子といって、わたしを受け入れて、愛してくれたのです。おしめを濡らしたらダメといわれなかったのです。人間として自分では何もできなかったのです。勉強ができたとか、お祈りができたとか、よいことが何かできたわけではありません。それなのに何をしても何をしなくても、よしよしといって、わたしは一身に愛を受けたのです。これは、まさに親という方を通して神さまがわたしを愛してくださったことそのものではないでしょうか。しかしながら、わたしたちはそのように愛されたことを忘れてしまっています。でも、わたしたちの体はその愛を覚えているのではないでしょうか。わたしたちのなかに、イエスさまの、神さまの愛の痕跡が残っているといってもいいでしょう。イエスさまと同じ愛が、同じいのちがわたしたちの魂の深いところに地下水のように流れているのだと思います。ですから、わたしたちがイエスさまのことばに触れるとき、また真実に触れるとき、その愛がわたしのなかで呼び覚まされていくのです。わたしたちがそのような愛を理解できるのは、そのような愛で愛されたからに他なりません。
わたしたちは、無条件で愛されたという事実をほとんど覚えていません。わたしたちが成長過程で覚えているのは、条件付きの愛だけです。「~ができたので、誉めてもらった」とか、「~をしたので、認めてもらった」という、「~ができた」「~した」という条件付きで受けた愛だけです。それが成長する、大人になるということなのでしょう。教育にはそのような要素もありますから、そこで承認欲求が生まれ、競争心も養われ、社会性を身につけていくのでしょう。ですから愛が無条件であるとかいわれても、頭では理解しても、なかなか実感がわきません。本能的に疑ってしまうのです。しかし、わたしたちが覚えていなくても、わたしたちは確かに無条件で愛され、慈しまれ憐れまれたのです。ですから、その真実に触れるときに、わたしたちの中でわたしたちの神さまの愛の記憶が呼び覚まされていくのです。
イエスさまは、その真実を証しするためにこの世界に来られました。そして、イエスさまご自身が、その真実そのものでいらっしゃいました。愛、慈しみ、憐れみ、ゆるしそのものでおられたのです。ですからイエスさまは、敵を愛し自分を迫害するもののために祈りなさいと教えることができ、そして実際そのようにされたのです。イエスさまは、ご自分を十字架に釘付けにしようとするものたちのために、「父よ、彼らをおゆるしください。自分が何をしているのか知らないのです(23:34)」と祈られました。イエスさまは、敵への愛を“教え”として説明されたのではありません。イエスさまは、ご自身をもって教えられたのです。ですから、イエスさまの「あなたがたも憐れみ深いものになりなさい」というのは、わたしができるとかできないとかの掟や命令ではなくて、イエスさまのわたしへの愛の呼びかけとなっているのです。ですから、わたしたちがその愛を理解し、そのような愛をもってわたしが愛されていることを信じるとき、その愛はわたしたちの中で現実のものとなっていくのです。