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教会からのお知らせ

聖霊降臨の主日 勧めのことば

2025年06月08日 - サイト管理者

聖霊降臨の主日 福音朗読 ヨハネ14章15~16,23~26節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日は聖霊降臨の主日です。教会は今日までを復活節と呼び、今日が終わると、復活のろうそくを片付けます。今日の福音の中では、聖霊の派遣とわたしたちの魂のうちにおける聖霊の内住、現存ということが述べられます。また、今日の第1朗読の中では、エルサレムでの五旬祭の出来事が描かれています。ルカは、イエスさまの過越しが、ユダヤ教の過越祭の時期におこなわれたのと合わせて、聖霊降臨を、イスラエルの民のシナイ山での律法授与の記念である五旬祭に起こった出来事として描いています。これはルカの解釈であって、聖霊降臨が一体何であるかは実のところはわかりません。おそらく史実としていえることは、イエスさまの死後、弟子たちは十字架にかかって亡くなったイエスさまが真に生きておられ、しかも弟子たちとともに歩み、弟子たちを支え、弁護し、ともに働いておられるということを、また弟子たちの魂のうちに内住、現存しておられることを体験したということだと思います。それは、弟子たちのなかにイエスさまの生前の思い出が残ったという個人的体験ではありません。思い出ということであれば、あくまでもわたしの中の個人的な記憶であって、それらは時間とともに薄れていきます。しかし、この体験はイエスさまが現存される、つまりイエスさま側からの働きですから、薄れていくどころか、生き生きとしたリアリティをもった現実として弟子たちに体験されたということだと思います。

このことはイエスさまの側から見ると、弟子たちとともに生き、現存するということであり、それはイエスさまの復活、弟子たちへの聖霊の派遣によって実現していきました。弟子たちの側から見ると、亡くなったイエスさまが、自分たちのなかで単なる過去の思い出としてではなく、生き生きと現存しておられ、自分たちを愛し、ゆるし、自分たちとともに宣教し続けておられる霊の働きとして体験されたということだと思います。その働きは弟子たちの何かではなくて、イエスさまの側からの圧倒的な働きであって、そしてその働きはイエスさまの弟子たちに留まらず、すべての生きとし生けるものに対して働いています。そして、その働きは、イエスがすべてのものに働いているという真実に目覚めさせるために、すべてのものに等しく働いているということが明らかにされた出来事、それが聖霊降臨であるといえます。第1朗読の聖霊降臨の記述をみると、世界中から来ているありとあらゆる文化や言葉を異とする人々が、皆等しく福音を聞く出来事として描かれています。

生命体がこの地球に誕生して40億年の年月を重ねてきており、現在の地球はあらゆる多種多様な生命体で溢れています。今、地球には870万種類ほどの生命がいるといわれています。すべての生命体は細胞といわれる最小単位でできているのですが、40億年前、すべての生命の共通祖先となるあるひとつの細胞が誕生し、その細胞がひたすら分裂を繰り返し、地球の隅々にまで広がっていったといわれています(NHKスペシャルの人体より)。その証しとして、地球上の生き物の細胞はみな“同じ材料”でできていて、わたしたちは〝細胞きょうだい〟と呼ぶべきものであり、人間と他の生命体は決してかけ離れた存在ではないことがわかってきました。ですから、わたしたちにとって都合の悪いと思われるゴキブリや蚊なども、わたしたちの兄弟姉妹であるということなのです。彼らもわたしたちと同じ細胞をもつ細胞きょうだいです。わたしたち人間は、今まで自分たちが生命体の進化の頂点に立っている特別な存在で、独り勝ちをした存在であるかのように錯覚してきました。しかし、実はそうではなく、多種多様な生き物とわたしたちは並列の関係であり、わたしたちは生態系の支配者でも、主宰者でもないということなのです。人間は神の似姿、神の像であるとして、ユダヤ教とそれにつながるキリスト教は声高く主張してきましたが、人間だけが神の似姿、神の像ではなくて、すべての生きとし生けるものは神の似姿、神の像であるということなのです。この生命の多様性こそが生命のあり方なのです。

ですから当然人間という種の中にも、いろいろな文化や風土の違う民族が存在していて、人間界は成り立っています。今、行われている戦争や環境破壊、人権を認めないような国家や宗教のあり方は、人間だけを神の似姿と主張して他の生命体を支配し、近代になると人類を生命体の進化の頂点と錯覚しているような誤った生命観から起こっている問題なのです。これは自分と自分の周りの一部の人しか認めないような人類優生的な考え方であり、生命体として人類を絶滅危惧種としてしまうような危うさを抱えており、人類だけでなくこの地球を破滅に導きかねない考え方なのです。現代世界には、国家や宗教の名において生命の多様性を認めないような考え方が蔓延しているのです。

人間の生物として大きな特徴は、社会性であると考えられてきました。しかし、人間以外の生命体も優れて社会的、利他的な存在であることがあきらかにされています。すべての生命体は、お互いが協力しながらコミュニティーを作っていく存在です。それなのに人間は争い、お互いに傷つけあう弱い存在です。しかし、わたしたちは愛する力ももっているはずです。愛するとは、すべてのものが等しくあるということなのです。この人は愛するけれど、あの人は愛さないというのなら、それは愛とはいえません。それは好き嫌いということです。好き嫌い、善悪というのは、どこまでいっても人間の都合でしかないのです。もしこのような愛の特徴が等しさであるとしたら、この地上の870万種もの多種多様な異なった生命体に溢れているということはどのように捉えればいいのでしょうか。この多様性の根底に流れるものは、40億年前に誕生したひとつのいのちの細胞であり、すべてはこのいのちにつながっており、わたしたちは細胞きょうだいであり、皆等しいものであるということではないでしょうか。いのちに上等も下等もありません。そのような区別をしているのは、人間の都合です。この夫々の多様性を認めるための前提は、わたしたちは自他ともにすべての生きとし生けるものは、同じ大きないのちで生かされており、そのいのちを生きているということなのではないでしょうか。

十字架のヨハネは、「愛の特徴は、愛するものをその愛の対象と等しくする(霊の賛歌27)」といっています。ですから、旧約聖書の「自分を愛するように、隣人を愛しなさい」という自分を出発とするのでは足りないのです。先ず、すべてに勝って、生きとし生けるものに等しく注がれる神さまの愛を知ることが必要であり、その愛を受けるのに上も下も、高い低いもありません。夫々の多様性に応じて、皆夫々一杯に受ける、その意味で皆等しいということなのです。わたしたちは同じいのちを生きるものなのです。しかし、すべては異なっています。ひとつとして、同じものはないのです。

聖霊降臨の出来事は、皆が夫々の文化や習慣、民族の違いをそのままにして、等しくイエスさまの福音を聞くということでした。これこそイエスさまが、太陽はすべてのものに等しく注がれているといわれたことでした。等しく注がれるという側面から見ると平等ですが、光を受けるものは夫々違っています。違っていますが、お互いを排除したり、敵対したりしません。キリスト教は、安易な平等、極端な個人主義を説く宗教ではありません。皆で一緒に○○しましょうというのなら、小学校の今週の目標と同じです。すべてものは異なっている、しかしすべて同じいのちで支えているということにわたしたちを気づかせ、立ち帰らせる働きが、聖霊降臨の出来事であるということができます。お互いの差異を認めならが、しかしともにある世界、これが本来のいのちの世界なのです。

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