年間第15主日 勧めのことば
2025年07月13日 - サイト管理者年間第15主日 福音朗読 ルカ10章25~37節
<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗
今日は、有名なよきサマリア人のたとえが朗読されます。今日の箇所は大抵の場合は、「誰が追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」というイエスさまの問いと、「行って、あなたも同じようにしなさい」というイエスさまの言葉を引用して、隣人愛の実践について説教されます。それはそうなのでそれでいいのですが、そもそもイエスさまがなぜこのたとえ話をされたのかというところから見ていく必要があるように思います。
今日の物語の伏線にあるのは、ある律法学者がイエスさまを試みようとして、「何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができますか」と質問したことから始まります。永遠のいのちを得たいというもっともな願いが背後にあるわけですが、それはイエスさまを試みるための悪意ある質問であったということが書かれています。どういうことでしょうか。ユダヤ教では、モーセから与えられた律法を実行すれば、永遠のいのちが得られると教えていました。ですから、神への愛と隣人愛を教える律法を実践するという答えはすでに出ているのです。それでは、何が問題だったのでしょうか。
永遠のいのちを受け継ぎたいという望みそのものが、問題なのだといわなければならないと思います。永遠のいのちを受け継ぎたいという望みの何が問題なのでしょうか。ユダヤ教の律法学者やファリサイ人にとって、永遠のいのちを受け継ぐこと、神によって嘉せられることは、彼らの宗教の究極的な目的でした。キリスト教であってもそうではないでしょうか。その何が問題なのでしょうか。それでは、永遠のいのちを得たいのは何のためでしょうか。それは、自分が救われたいとか、自分が神さまから嘉せられたいということでしょう。これをわたしたちキリスト者に置き換えるなら、天国に行きたいとか、洗礼を受けて救われたいとかいうことでしょう。でも、少し考えてみると、これほど自己中心的な話があるでしょうか。救われたいと思っているのは、結局はわたしの望みが叶うことではないでしょうか。そこでいわれている救いは、わたしの働きや努力が認められて、「忠実な良い僕だ、よくやった(マタイ25:21)」と褒めてもらえる世界、わたしが報われる世界です。また、わたしたちには、あの人とは会いたくないという人や、考えを異にする人たちがいます。わたしたちは、そのような人たちがいない世界、自分の嫌いな人、自分の考えと違う人がいない世界が天国で、救われた世界だと思っていないでしょうか。今日の聖書のことばでいえば、“わたしの隣人たち”だけがいる世界を天国だとか、永遠のいのちだと思っていないでしょうかということです。大体、自分と自分の好きな人たちだけが救われる、死んだあと親しい人とだけ再会したいと思っている、それの自分の性根そのものが問題なのではないでしょうか。気をつけないと、わたしの救いは非常に狭い、自分にとって都合のよい世界を考えていないかということが問われているのです。それでは、イエスさまはどのように考えておられたのでしょうか。
当時のユダヤ人たちが考えている隣人愛の対象となる人たちは、同じ同胞のユダヤ人だけでした。ユダヤ人以外の外国人、ローマ人やギリシャ人、そして何百年間も反目し合ってきたサマリア人はまさに敵そのものであって、愛することなど考えもしませんでした。ですから当時のユダヤ人が永遠のいのちを受け継ぐために、律法が命じている隣人愛の隣人というのは、同朋のユダヤ人だけに限られていたのです。つまり、彼らの考えている永遠のいのちの世界は、同朋のユダヤ人だけが幸せになる世界でしかなかったのです。他の憎むべき敵であるローマ人やギリシャ人、ましてサマリア人がいない世界であったわけです。こんなに自分勝手な救いがあるはずがないことは、わたしたちは直ぐにわかるでしょう。しかし、これがわたしのこととなれば別ではないでしょうか。
わたしたちが永遠のいのちを受け継いだ世界に、自分の嫌いな人、自分が憎んでいる人、自分を苦しめた人、自分にとって都合の悪い人はいてほしくないというのがわたしたちの本音ではないでしょうか。洗礼を受けた人は救われるが、洗礼を受けていない人は救われないという発想も所詮同じことなのです。イエスさまは今日のたとえ話で、祭司やレビ人を非難し、外国人であるサマリア人の行動を褒められたという単純な話ではないのです。また、イエスさまはよいサマリア人のたとえを話すことで、隣人愛の対象の境界を広げていくように教えられたのだという人たちもいます。しかし、問題はそんな簡単なことではありません。そもそも、隣人という言葉は、反対概念である敵を含んだ言葉であるということです。ですからユダヤ教では、「隣人を愛し、敵を憎め」と教えられてきました。それに対して、イエスさまは「敵をも愛しなさい」と教えられました。そこで、わたしたちが隣人愛の境界を少し頑張って広げて、隣人の範囲を大きくするような発想では、この憎しみと争いに明け暮れる世界をどうすることも出来ないのです。敵を作り出しているのは誰なのでしょうか。実は、隣人と敵、同朋と異邦人という境界を作り出しているのは、わたしのこころのあり方に他なりません。ですから、そのあり方、わたしたちのそのこころの闇に光を当てなさいということなのではないでしょうか。
イエスさまが問題とされたのは、味方と敵、ユダヤ人と外国人、洗礼を受けた人と洗礼を受けていない人というあらゆる区別、境界を作り出している人間のこころの闇です。わたしたち人間は自分を相手と区別することで、自分というものを認識し、安定しようとする存在です。わたしたちはそのようにしてしか、自分というものを確認することしかできないのです。そのようなわたしたち人間のあり方が、差別、区別、排除、敵対を作り出しているのだといっても過言でありません。イエスさまがいわれるのは、そのような人間のもっている本性、弱さ、限界、傾きを自分のこととして意識しなさいということだと思います。イエスさまには、敵味方、同胞外国人、男女などといった区別がありませんでした。イエスさまは、ただ相手を見て、憐れに思い、近寄って介抱されたのです。わたしの隣人はだれかを問うのではなく、あなたがその人の隣人になりなさいとイエスさまはいわれたのです。相手に何かを要求するのではなく、相手に沿うてみなさい、沿うだけではなく隣人となってみなさいといわれるのです。わたしがキリスト者であるとか、相手が何であるかということなど一切関係ないのです。あなたはその人になりなさいといわれたのです。なぜなら、あなたはその人だからといわれるのです。
イエスさまは、相手が自分の敵か味方か、同胞か同胞でないか、隣人か他人かで関わられませんでした。「そこではもはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいてひとりなのです(ガラテア3:28)」といわれます。イエスさまにとって,他者というのは自分であり、自分というものは他者なのです。みことばであるイエスさまが人間となられたということは、イエスさまはわたしになられたということなのです。イエスさまがわたしになられたということは、わたしはイエスになったということでもあるのです。これをパウロは、「キリストにおいてひとりである」というのです。ですから「ひとつの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、ひとつの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです(Ⅰコリ12:26)」。隣人を愛する、隣人となるというのは律法の掟でも、キリスト教の教えでもないのです。同じいのちを生きる、同じひとつの体であるいのちの法則なのです。ひとつの体しかありませんから、すべて自分ごとです。他人とか隣人はいないのです。ひとりの部分が痛めば、すべての部分が痛みます。これは掟なのではなくて、いのちとしての当然の法則なのです。見て、憐れに思い、近づくというのはいのちの法則なのです。イエスさまにはわたしというものなどないのです。実はわたしたちもそうなのです。
