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教会からのお知らせ

年間第17主日 勧めのことば

2025年07月27日 - サイト管理者

年間第17主日 福音朗読 ルカ11章1~13節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日は、祈りについての教えの要約ともいえる箇所です。今まで、いずれも問題とされてきたことは、神への愛と隣人愛、隣人と敵、祈りと活動というように、人間が物事を二元論的に捉えてしまうことです。ここで取り上げられる祈りは、生活や活動と遊離した祈りではなく、生活の中から湧き上がってくる願い、叫びのようなものとして見ることができます。そこから祈りの本質について考えていきたいと思います。

ルカ福音書は、しばしば祈っているイエスさまの姿をわたしたちに伝えてきます。今日の箇所は、洗礼者ヨハネが自分の弟子たちに祈りを教えていたように、自分たちにも祈りを教えてほしいという弟子たちの願いから始まります。そこで、イエスさまは弟子たちに主の祈りをお与えになります。しかし、ここでイエスさまが教えたのは、いわゆる文句としての主の祈りではありません。わたしたちは祈りというと、言葉が決まった祈りやミサ、ロザリオに代表される信心業を思い浮かべます。しかし、そもそも祈りというものは何でしょうか。アウグスティヌスは「主よ、あなたはわたしたちをご自身に向けて創られました。ですから、わたしたちたちはあなたのうちに憩うまで安らぎを得ることはできないのです」といっています。つまり、人間は、すべての生きとし生けるものは、神へ向かう存在として造られているということです。わたしたちの魂のうちに、いのちの根源へと還ろうとする動きが刻印されているといってもいいと思います。このいのちの根源へと向かう動き、それが祈りについて考えるときの前提になります。

弟子たちは、イエスさまがたびたび祈っておられる姿を見て、イエスさまのうちに体現されているこのいのちの本源へと向かう動き、方向性のようなものを感じたのではないでしょうか。イエスさまの全存在そのものが祈りとなっているというか、いのちの叫び、動きとなっていたということではないかと思います。ですから、弟子たちは、わたしたちにも祈ることを教えてほしいと願ったのではないでしょうか。すべての生きとし生けるものうちに、その根底に神へと向かう動き、渇きがあるのです。しかし、すべてのものがそのことを意識しているわけではありません。むしろ、その動き、渇きに対して無自覚、無関心であるのが普通かもしれません。しかし、人間の心の深みにはいのちへの渇きがあり、たえず神へと向かおうとしていいます。その渇きは、人間のさまざまな形を変えた欲望や願望となって、人間の中に蠢いています。満たされたい、愛されたい、大切にされたい、ひとつになりたい、自分のものにしたいといった人間の願望です。こうしたわたしたちの自分勝手な欲望は、どこまでいっても満たされることはありません。しかし、この癒されることのない渇きは、わたしたちの中にある根源的な神への渇きを指し示しているのではないでしょうか。どれほど雲が太陽を覆い尽くそうとも太陽は存在し続けており、雲に覆い隠されてその真実の姿はわからないとしても、いのちあるものは光の方へ、光の方へと向かっていこうとします。その動きは、太陽の存在を証明しているようなものです。そして、人間はその自分の内なる志向性によって、自分を超え出て行くとき、はじめて本来の人間になれるということではないでしょうか。その意味で、祈りは、人間の根源的な渇きであるとともに、もっとも人間らしい行為なのではないでしょうか。それは人間の行為なのですが、この渇きは神さまが与えられたものである以上、人間に働きかけている神の働きであり、神の営みそのものなのです。わたしたちの祈りは、神の営みに他ならないのです。

イエスさまは弟子たちに主の祈りを与え、パンを求める友人のたとえから、具体的な信頼をもって祈るようにいわれました。「求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求めるものは受け、探すものは見つけ、門をたたく者には開かれる」と。イエスさまは、「求めなさい。そうすれば、与えられる」といわれました。「多分与えられるだろう」とか、「おそらく」などとはいわれません。しかし、わたしたちは、神さまがわたしたちの自分勝手な願いは叶えてくださらないことを知っています。わたしたちが、自分勝手な願いを神さまに聞かせることが祈りではないからです。それでは、わたしたちの願いではなく、イエスさまの願い、イエスさまがわたしたちに与えるといわれたものは何でしょう。それが、今日の朗読の最後に書いてあります。「天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」と。つまり、イエスさまが願っておられることは、つまりわたしたちに与えたいと願っておられるものは「聖霊」であるといわれます。聖霊は神さまのいのちであり、神さまの愛の本質です。神さまがわたしたちに願っておられること、それは自らを与えることです。愛である神さまは、ご自身を与えることしかできないのです。それが聖霊を与えるといわれていることです。神さまは愛でいらっしゃるので、自分を与えることしかできない。だから神さまが願っておられ、わたしたちが願い求めるものは、愛を、神さまご自身を求めることであるということなのです。この愛は、すべての苦しむ生きとし生けるものをすべて救いたいと願っておられる、イエスさまの真実の愛以外の何ものでもありません。わたしたちが、求めなければならないものは、このイエスさまの愛であり、イエスさまはその愛を、聖霊を必ず与えるといわれるのです。

わたしたちのうちにイエスさまの愛への渇きを与えられたのは、イエスさまであり、わたしたちのうちにおいて、その愛を願い求めているのもイエスさまです。また、その愛を必ず与えるのもイエスさまです。おそらく、今までのわたしたちは、わたしがイエスさまを知って、イエスさまを信じて、イエスさまに祈って、努力して、聖霊が与えられる、そしてわたしが救われるのだと思っていたでしょう。司祭たちも信徒たちも、ほとんどそうだと思います。しかしそれは、まったく違っているのです。イエスさまの愛の世界は、そんなみみっちい話ではないのです。まして、聖体拝領をして、清いものになって救われたような気分になることなどとは全く違うのです。そうではなく、わたしたちすべてのものに愛の渇きが与えられているということは、実はわたしたちにはすでに聖霊が与えられているということなのです。聖霊はわたしたちのうちにおいて、わたしとひとつになって愛を乞い求めておられる。そして、すべての生きとし生けるもののうちに、愛を乞い求めるものとしてわたしたちとともにおられるのです。ですから、祈りは、イエスさまのわたしたちのうちにおけるイエスさまの働き、営み、聖霊の叫びに他ならないのです。こうして、わたしたちはイエスさまの祈りに乗せていただくだけなのです。

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