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教会からのお知らせ

年間第20主日 勧めのことば

2025年08月17日 - サイト管理者

年間第20主日 福音朗読 ルカ12章49~53節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

イエスさまは、「わたしが来たのは、この地上に火を投ずるためである。その火がすでに燃えていたらと、どんなに願っていることか」といわれました。ここでいわれる火とは何でしょうか。イエスさまが切に願っておられるこの火とは、どのような火なのでしょうか。旧約聖書のなかで、火は聖霊のシンボルとして使われてきました。火は人間が暖をとったり、料理をしたりするなど、人間の生活に欠かせないのですが、また火はすべてのものを焼き尽くしてしまう激しさをもっています。すべての汚れを浄め、すべてのものを焼き尽くし破壊し、自らへと同化してしまう働きがあります。イエスさまが地上に火を投ずるために来たといわれるのは、この愛の炎である聖霊で世界を焼き尽くすことだったのではないでしょうか。イエスさまがこの世界に愛の火が燃え上がることを切望され、また愛の火でこの世界を焼き尽くそうといわれているということが、どのようなことか味わってみたいと思います。

この愛の火の特徴は、すべてのものを焼き尽くすということです。すべてのものを焼き尽くすということは、よいものも悪いものも、価値があるものも価値がないものも、紙切れであろうと1万円札であろうとも、同じように焼き尽くしてしまうということです。よいもの悪いもの、価値があるもの価値がないもの、紙切れと1万円札の違いを決めているのは人間の都合です。付加価値をつけるといういい方がありますが、付加価値とは、生産活動によって生産された商品の価格が、原材料等の価格より高くなることをいいます。そもそも、その原材料に価格をつけているのも人間です。その基準は、あくまでも人間にとって役に立つか役に立たないか、人間の都合です。この世界のすべてのものが商品のための材料で、人間さえも人材として扱われているわけです。その根底にある価値観が、わたしにとっての善悪、有用無用という人間の分別、人間の都合に他なりません。そして、その分別が人間世界にありとあらゆる分断、分裂、差別、争い等を引き起こしているのです。イエスさまが投ずるために来たといわれる火は、それらのすべての分別を飲み込んで、焼き尽くしていきます。これが愛の第1の働きです。

第2の特徴は、火はすべてのものを浄める働きであるということです。大海は、自分に注がれるすべての汚れを受け入れます。大海は、単にその汚染されたものを希釈するだけではなく、浄化していく働きでもあります。火も同じように、汚れたものを薄めるのではなく、自らが受け入れて、その汚れを浄める働きをもっているのです。わたしたちの罪や汚れ、過去の忌まわしい思い出や傷、どうすることも出来ないものもすべて焼き尽くしていきます。わたしたちの中にあるそのようなものを、わたしは自分ではどうすることも出来ません。わたしたちがどれだけ否定しようとも、存在し続けるわたしの一部であるのです。しかしそれらが、イエスさまの愛の火の中に一度投げ込まれると、焼き尽くして、わたしたちを浄めていくのです。

第3の特徴は、火は火の中に投げ込まれてものを、火と同じものにしていく働きがあります。たとえそれがどんなに汚れたものであっても、ひん曲がっているものであっても、一度火の中に投げ込まれると、初めは臭い匂いやその中に含まれている水蒸気、有害物資を吐き出しながら、火は投げ込まれたものの中に浸透していき、やがて火と区別することができないほどひとつになって、燃え上がる炎となって燃え上がります。わたしたちの罪や汚れ、わたしたちのみじめな自己中心性、わたしたち自身もすべて、聖霊という愛の活ける火の中に投げ込まれるなら、わたしたちの感覚は静められ、分別という理性は浄められ、意志は神の意志とひとつとなって、ただひとつの意志、ひとつの愛となって燃え上がります。そして、イエスさまが愛される同じ愛をもってイエスさまを、人々を愛するものとなります。そこにおいては、「もはや、ギリシャ人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられる(コロ3:11)」世界が現れます。そしてその世界こそが真実の世界であり、実はわたしが今生きている世界は真実の世界なのだということが明らかにされます。その真実に背を向けているのがわたしです。その真実に目覚めさせる働きが、世界に投げ込まれる火、聖霊なのです。

ここで大切なことは、その真実は将来のこととか、わたしたちが努力して頑張って、いつかそうなるといっているのではありません。わたしたちは、今すでに愛の火に投げ込まれ、愛に焼き尽くされて、愛の炎となって燃え上がっているのです。わたしたちが頑張って愛の業をおこなって愛の火を燃え上がらせるというのであれば、それは人間の業によって神の働きをおこさせようとすることであり、人間が中心になって神さまに指示することになります。そうではなく、されるのはあくまでも神さまであって、人間はそれに協力するのにすぎません。

イエスさまが宇宙の歴史の中にお生まれになった、イエスさまの生涯、特に受難、死、復活によって、ご自分の愛を永遠化して、無限の光ですべてのものを照らし、無限のいのちですべてのものを充たされたのです。そして、時間と空間を超えて、イエスさまの愛の炎はわたしたちを焼き尽くし、愛の炎とし、燃え上がっているのです。これは死んでからの話でも、特別な聖人たちのための話でもないのです。その愛の火は、今このとき燃え上がっており、わたしたちがそのことに目覚めることをイエスさまは願っておられるのです。イエスさまが切に願っておられることは、それはもう実現し動いているのです。「今日、あなたがたが耳にしたとき、実現している(ルカ4:21)」といわれている通りです。わたしたちが信じたから、何かをおこなったから、わたしたちが祈ったからそうなるという話ではないのです。イエスさまがそう働いておられるのです。確かに、わたしたちは肉の人で、罪の中に投げ込まれています。しかし、「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。そのキリストの血によって義とされ(ロマ5:8,9)」、「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちのこころにそそがれているのです(5:5)」。これが世界の真実なのです。わたしたちは、聖霊によって燃やされ生かされている、「あゝ、そうであったのか」と気づかされること、その真実をいただくこと、それを信仰というのです。

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