年間第21主日 勧めのことば
2025年08月24日 - サイト管理者年間第21主日 福音朗読 ルカ13章22~30節
<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗
「主よ、救われる人は少ないのでしょうか」という弟子たちの問いから、今日の物語が始まります。そもそも、弟子たちのこの問い自体が間違っています。救いというものが、何かを信じたり、何かをしたことの結果であったり、また救いがすべての人の救いでないのなら、救いではありません。宗教は気をつけないと、救いに条件を付けたり、救いに線引きをしたり、こちらに来れば救われるが、こちらに来なければ救われないということをやりがちです。宗教は、自分たちの正統性を主張するために、他を排除し、救いを限定するという自己矛盾に度々陥ります。これがどの宗教も抱えている自己矛盾であり、同時にそれは自己内省、自己点検の要点にもなります。また宗教は、国家権力と結びついたり、民族・文化と結びついたりして、様々な問題を引き起こしてきました。そもそも、宗教が救いということを説くときに、救いを特定の人たちだけのものであるとしたり、信じた人だけが救われるといった時点で、それはもはや宗教の本来の姿から逸脱したものであり、真の救いではなくなってしまいます。わたしたちが信じている方は、そんなに狭量な方ではありません。慈しみ深く、憐れみ深い方であって、すべての人間の救いを望んでおられる方ではなかったのでしょうか。問題なのは、救いそのものを誤って捉えているわたしたち人間にあるのではないでしょうか。
今日の福音では、救いはすべての人が招かれている宴会として描かれています。しかし、宴会というイメージで救いを説明しようとすること自体にすでに限界があります。わたしたち人間は、宴会というと、ある特定の時間に、ある特定の場所で行われている、招かれる人と招かれない人がある会食としか捉えることができません。そうすると、わたしたちは、どうしたら宴会にいくことができるのか、その条件を考えて、その条件に適うようにしようとします。そして、その条件を充たすことが救われることだと勘違いするようになってしまいます。ですから、救いを宴会として説明しようとすることには、どうしても無理があります。イエスさまの時代にはまだ分かりやすいイメージだったのでしょうが、これだけグローバル化された現代においては、宴会は理解しがたく、紛らわしいイメージであるといえるでしょう。イエスさまが意図しておられたことは、おそらくもっと別のところにあったように思います。
イエスさまが問題にされていたのは、どうしたら救われるかということではなく、どこまでも救いに背を向け続ける人間の姿にあったのではないかと思います。そうすると、イエスさまがいわれた「狭い戸口」というのは、救われるための条件の厳しさではなくて、どこまでいっても救いを人間の頭の理解で捉えて、頑なに救いを拒否していく人間の狭さ、限界についていわれているのではないでしょうか。あとの部分で、イエスさまははっきりと、「人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国の食卓に着く」といわれました。そこには何の条件も付けられていません。誰をも排除しない、差別しない、すべての人が救いの対象であることが明確に述べられています。救いのために条件があるかのように思うのは、人間の勝手な思い込みであり、イエスさまと駆け引きをしているのにすぎません。こういうふうにすれば救われるといって、救いをどこまでも限定し、狭めていく人間の浅はかな知恵が「狭い戸口」なのです。そして、こんなはずではなかったと、泣きわめいて歯ぎしりするのです。人間の頭で考えている限り、イエスさまの救いなど分かるはずがありません。どこまでも、自分のこころで納得して、頭で分かろうとする愚かな愚かなわたしたちの姿が描かれてるのです。
実は、その愚かさに気づくこと、それ自体が救いなのではないでしょうか。救われる救われないではない、そのような分別をしているわたしたちの愚かさをはるかに超えて、わたしたちを救うといわれるイエスさまの願いだけがあるのです。イエスさまは、すべての人が「東から西から、また南から北から来て、神の国の食卓に着く」ことを願い、誓われているのです。そして、イエスさまが願い、誓われているということは、もうすでにその願いは実現しているということなのです。なぜなら、イエスさまは真実な方ですから、その誓いが反故にされることはあり得ないからです。わたしたちは、その願いに背き続けている自分らの愚かしさに気づく、気づかせていただくことだけだと思います。人間は、自分の力では決して自分の愚かしさには気づくことはできません。だれもが自分は、他の誰かよりはましだと思っているからです。そのような、わたしたちの愚かしさは消えることがありません。ただ、わたしたちを救うと誓われているイエスさまの真実のみが、わたしの愚かしさに気づかせてくれるのです。そして、その気づきが救いなのです。わたしが信じることで救われるのではありません。わたしたちは救われていることに気づくこと、それが信仰です。その信仰はわたしの心に起こりますが、わたしのこころに与えられた気づきであり、イエスさまからの一方的な恵みでしかないのです。わたしたちが救いだと思っているものから解放されること、それが真の救いなのです。
