年間第22主日 勧めのことば
2025年08月31日 - サイト管理者年間第22主日 福音朗読 ルカ14章1,7~14節
<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗
今日の話はわたしたちにとっては、非常に分かりにくい話であると思います。イエスさまは、食事の席に招かれた人たちが上席を選ぶ様子に気づいて、今日のたとえを話されました。「たとえ」というのですから、これは単なる世間的な知恵や道徳について話されたのではなく、神の国についてのたとえであることがわかります。それにしても、神の国の何についてのたとえであるのか、非常に分かりにくいといわざるを得ません。普通、このたとえを聞いたら、イエスさまが礼儀作法について話されたとしか考えられません。そして、日本人であれば、何かの席に招かれたとき上席に座る人はありません。それこそ、世間知らずで、社会性がないということになります。ユダヤ人には、日本人のような謙譲の美徳というようなものは通用しません。ですから、あからさまに上座に座ることをいさめなければならなかったのでしょう。では、日本人は皆が下座にいきたがろうとする、だから謙虚な国民かといえばそうではありません。教会でも謙遜、へりくだりということをしきりに教えますが、謙遜、謙遜といっていると、かえって謙遜になる努力をするという傲慢に陥ってしまいます。謙遜というのは結局傲慢の裏返しであり、へりくだりというのも自分が上にいること前提にした発想でしかないからです。ですから、傲慢に対していわれるような謙遜というものは、本当の謙遜ではありません。イエスさまがここでいわれていることは、自分の座るべき所に座るということを意味しています。
金子みすゞの詩に「私と小鳥と鈴と」というのがあります。「私は両手をひろげても、お空をちっとも飛べないが、飛べない小鳥は私のやうに、地面を速くは走れない。私がからだをゆすってみても、きれいな音は出ないけれど、あの鳴る鈴はわたしのやうに、たくさんの唄は知らないよ。鈴と小鳥と、それから私、みんなちがって、みんないい」。わたしたち人間は、鳥でないのに飛んでみようとしたり、鈴でないのに音を出そうとしたりします。わたしたち人間だけが、必死に自分以外の何ものかになろうとしているのではないでしょうか。しかし、そもそもわたしたちがなろうとしている自分とは何でしょうか。「わたしは○○です」といえるものは、果たしてわたしでしょうか。親子との関係では、親であったり子であったり、兄弟との関係では、兄であったり弟であったり、会社では上司であったり部下であったり、学校では教師であったり生徒であったり、教会では信徒であったり司祭であったり、ペットとでは飼い主とペットであったり、それらはいずれも関係性の中でのみ成り立っているわたしに過ぎません。しかし、わたしたちはそのような自分の立場にこだわり続けているのです。それらは確かにわたしの一部でしょうが、それがなくなったら、わたしはわたしでなくなるわけではありません。
それでは、もっと根本的な意味で自分とは何でしょうか。名前でしょうか。役職でしょうか。肉体でしょうか。魂でしょうか。キリスト教では魂ということにこだわりますが、この魂が自分でしょうか。実は誰もわからないのです。何もわからない自分が一生懸命、自分でない何ものかになりたがっているとしたら、こんなに滑稽なことはありません。自分など、本当はあるようでもないし、ないようでもないし、何ものでもありません。あるんだかないんだかわからないのに、何か確固としたものが「ある」ように思い込んで、執着している。そして、その何ものかになろうとして、必死で努力し、自分探しを続けています。イエスさまは、あなたは自分のことを何ものかのように思い込んで生きているけれど、一度それを手放してみなさいといわれているのではないでしょうか。そうすれば、どちらが上座に座るとか、どちらが偉いとか、どちらが優秀だとかいったことはどうでもよくなるはずです。
わたしの部屋に「赤い実がなる木に、赤い実がなった。木の満足」という言葉が掛けられています。当たり前のことなのですが、この当たり前のことができないのがわたしたち人間です。謙遜ということを、わざわざいわなければわからないほど、人間は他の動植物より愚かなのです。「謙遜は真理である」といわれます。つまり、ありのまま、小鳥は小鳥、鈴は鈴、わたしはわたしということなのではないでしょうか。そのことがわからないのが人間ということになります。ある人の言葉に、「わたしは神さまのお使いになるほうきです。神さまはわたしをお使いになり、使われた後、わたしをドアの後ろにお置きになりました」というのがあります。神さまがほうきを使っておられるときに、ほうきは立派な働きをしています。しかし、掃除が終わったら、誰も振り向きもしないドアの後ろ、ほうきが普段置かれている暗い所に直されるということです。そして、そのことについて、ほうきは文句をいいません。この当たり前のことがわからないのが、わたしたち人間です。わたしは神父だとか、わたしは社長だとか、わたしは責任者だとか、そんなことに何の意味があるのでしょう。イエスさまがどうしてこんなわかりにくいたとえを話されたのか考えると、そこまでいわなければわからないほどわたしたち人間は愚かであるということなのでしょう。わたしは神さまのほうきです。どうぞ神さまのお仕事のためにお使いください。お仕事が終わったら、どうぞ隅っこに直してください。これを召命というのです。自分が何ものかになることが召命ではありません。神さまの前での真実のわたしが見えて、わたしがわたしがいるところに置かれる、それが召命なのです。
9月7日分はお休みさせていただきます。
