年間第25主日 勧めのことば
2025年09月21日 - サイト管理者年間第25主日 福音朗読 ルカ16章1~13節
<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗
今日のたとえ話は、放蕩息子のたとえ話の直後に置かれています。今年は十字架称賛のお祝い日が日曜日に入りましたが、普通であれば、年間第24主日に15章の放蕩息子のたとえで、憐れみ深いお父さんの姿が読まれた次の週に、世間的で不正な管理人のたとえ話が読まれるわけです。しかも、今日の箇所は、放蕩息子のたとえもそうなのですが、ルカ福音書にだけに見られるたとえ話です。マタイ、マルコに並行箇所が見られないということは、今日の箇所はルカの関心事によって編集されたとみるのが正しいでしょう。それにしても、今日の箇所はイエスさまに由来する話として理解しがたいものがあります。そもそも、このようなたとえ話を現代人のわたしたちが理解することは非常に難しいものがあります。15章の放蕩息子のたとえ話もルカ固有なものであることを考えると、ルカは放蕩息子のたとえで憐れみ深いお父さんの姿で神さまの姿を紹介し、16章で抜け目のない管理人の話をすることで、人間の姿をあからさまに示そうとしてわざと並べたのかもしれません。それにしても、今日の箇所から何を受け取ればいいのでしょうか。イエスさまの意図からかなり離れてしまっており、これはルカの教会の関心事であるということをよく知っておく必要があると思います。
「不正な富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか」、「神と富に使えることはできない」というのが、今日のたとえ話の結論であると考えられています。不正にまみれた富というのは、不正義な手段で手に入れた富という意味ではなく、この地上の富という意味です。そのことから考えていくと、当時のルカの教会が置かれていた状況というものがあるのではないかと思われます。つまり、教会が「本当に価値あるものを任せられる」ものなのか、また「本当に価値あるものを任せられている」という意識があるのかどうかという問いかけがあったのではないかと思います。ルカの教会は、ユダヤ教から独立し、異邦人宣教に向かっていった教会です。教会が教団として広がっていき、組織が大きくなっていくということは、どうしても組織を維持していくということに関心事が動いていきます。自分たちの組織を維持していくために、自分たちは選ばれた正しい正統な集団であるという意識をもたなければやっていけません。そして教団の体制を整備し、教えを整理し、財産を管理していくという問題も出てきます。その上で、その当時の社会と対峙していくわけで、それは当時の社会と距離をとっていくことになりますが、現実的には対峙する社会の価値観ややり方を自分たちの中に取り入れていくことを意味しています。そうすると、地上の富というものとどういうふうに折り合いをつけていくかということが問題になります。ルカ福音書のひとつのテーマは、貧しさということです。そうすると、貧しさということを強調しておきながら、教会は自己矛盾を抱えるということになっていきます。さらに自分たちの教団に入れば救われるが、入らないものは救われないというような教えを作っていくわけですからなおさらです。そのようにして教会は自らのアイデンティティを作っていくのですが、そのことによって教会は既成宗教に成り下がり、イエスさまの福音を宣べ伝えるという本来の使命からずれていきます。ルカの教会の中には、そういう危機感があったのではないかと思います。イエスさまの福音を生きることと、実際に組織を維持し、運営していくという現実の板挟みになっていたのではないでしょうか。
現代のキリスト教はどうでしょうか。時代や社会からかけ離れた教えや制度、組織にしがみつき、自分たちは特別なグループだという意識にとらわれていないでしょうか。現代の教会をみてみると、教団への忠誠心を要求し、教団の教えをイエスさまの教えであるとして、それを守ることに拘っているように見えます。そうなると、教会は社会から乖離していき、社会は宗教を必要としなくなっていく、そして教団も本来の使命から離れ、特殊化していくという悪循環に陥ります。これでは、現代人の魂の要求に応えることができなくなってしまいます。教会は自らの現実に問題があるということを常に意識していなければならないということだと思います。ルカの共同体はその意識をもっている共同体だったのでしょう。いくら自分たちの宗教は真理をもっている、「本当に価値あるもの」をもっているんだと主張したところで、イエスさまの教えから離れていては宗教としての役割を果たすことはできません。ですから、教団の中にいるものは、絶えず自分たちの枠を取り壊していくという意識をもっておく必要があるのだと思います。
カトリック教会は完璧で、普遍的であるという考え方自体、錯覚ではないでしょうか。教会はあくまでも神の国、人類すべての救いのための手段であって、その役割が終われば終焉するのだという意識をもっている必要があると思います。カトリックの人だけは救われるというのなら、これはイエスさまの教えではありません。すべての人類が救われるためであれば、カトリックがなくなってもよい、というのが本来の宗教の姿です。自分たちのいる教団だけは生き残るというのであれば、これはイエスさまの教えではありません。単なる宗教的エゴイズムでしかありません。外ずらはキリスト教、しかし内側は、ひどい宗教的エゴイズムということが起こってくるのです。それでは、なんでもかんでもいいのかというとそうではなく、わたしが真理であるイエスさまと出会うことが大切なのです。真の宗教は、病気が治るとか、お金持ちになるとかそういうものではありません。真の宗教は、わたしの個人的な幸福を約束するものではありません。わたしの生き方を問う、いのち、真理を追い求めていくことが、宗教の本質的なあり方です。人間を問うということは、人間の生死を問うということであり、それがイエスさまを問う、真理であるイエスさまと出会うということです。その意味で、今日の福音は、あなたがたは「本当に価値あるものを任せられる」ように生きていますか、あなたがたは真理を追い求めていますか、ということが問われているのだと思います。わたしたちは、「神と富に仕えることはできない」という言葉をどのように生きているか、教団にも、わたし自身にも問われているのだと思います。
