年間第26主日 勧めのことば
2025年09月28日 - サイト管理者年間第26主日 福音朗読 ルカ16章19~31節
<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗
今日の箇所も、ルカだけ見られる固有の箇所です。このようなたとえ話が書かれた意図は何処にあるのでしょうか。「もし、モーセと預言者に耳を傾けないなら、たとえ死者の中から生き返るものがあっても、そのいうことを聞き入れはしないだろう」という言葉が、今日のたとえ話の結論になると思います。それでは、なぜ人は耳を傾けようとしないのでしょうか。自分は正しいと思っていたり、いつでも聞けると考えていたり、その人の性格などいろいろあるでしょうが、ひとつの大きな理由は、自分は死なないと思っているからではないでしょうか。死ぬまで、まだまだ時間があるから、まだ大丈夫と思っているのではないでしょう。そこで、今日は「死」というテーマから見ていきたいと思います。
人は誰でもが、「人は死ぬ」と頭では分かっていると思います。現代社会で100%確実なものは何もないといわれますが、すべての人は例外なく確実に死にます。しかし、その場合の死は他人のことです。なぜなら、わたしたちが体験するのは家族や自分に近い人の死であり、それは他人の死であって、どこまでいっても他人事でしかありません。他人の死を見ると、どうも死は大変なことらしいと思っています。しかし、どうしても自分の死というのは現実のこととしては考えられないのだと思います。
その一方で、どの宗教でも、見てきたような死後の世界の話をします。天国、地獄、煉獄、輪廻などでしょうか。しかし、死後の世界のことを話しているのは、100%生きている人間です。話しているのが生きている人間である限り、死についても、死後についても客観的に何かを語ることはできないはずです。イエスさまでさえ、生前に一度も死後の世界、死後のいのちについて話されたことはありません。だから、そんなものがあるのかどうか誰もわからないのです。確かに、イエスさまは永遠のいのちについて話されましたが、永遠のいのちとは死後のいのちのことではありません。わたしたちが今生きている、わたしたち生きとし生けるものを生かし、動かし、生死の枠を超えて働きかけている大きないのちの営み、その働きを永遠のいのちと呼んだのです。
生きている人で誰も死んだ人はいませんから、死が何であるかわからないのです。だから、死という100%確実な真理であっても、誰も自分のこととして認めたくないのです。他の人は死んでも自分だけは死なない、いつまでも生きていると思っている。医学が進歩し、社会や家庭から死が隠されていけばいくほど、人間が死ぬという感覚を失くしていくのではないでしょうか。またその一方で、現代人は、自分の「死に方」を自分で決めようとします。エンディングノートを書いたり、終活をしたりします。多くの人は、他人の死に方をみて、立派な最期だったといい、あるいは無念な死に方だったといいます。しかし、それは単に「死に方」の問題であって、それは「死」ではないのです。「死に方」と「死」を混同しているだけなのです。カトリックではどういう「死に方」をするかで、その人の救いが決まってくると教えてきました。でも、そんなことを誰が決めたのでしょう。安らかな立派な死に方をした人は聖人で、酷い死に方をした人は罪人だとでもいうのでしょうか。わたしたちのイエスさまは罪人の中の罪人として、絶望のうちに死んでいかれたのではないでしょうか。あんなみじめな「死に方」はありません。しかし、それは「死に方」の問題であって、死そのものではありません。わたしたちは見た目の現象としての「生き死に」に捉われているだけではないでしょうか。
死はすべての人に平等に訪れます。生きているものは必ず死ぬのです。人間は病気や事故で死ぬのではありません。生まれてきたから死ぬのです。人間が死ぬということは、生きているから、生まれたからだという以外の理由はないのです。そして、わたしたちが見るのは他人の死だけです。自分が自分の死を見るということはありません。多くの人は、死ぬと自分がなくなるとか、死後の世界にいくなどというイメージを持っていますが、それはあくまでも生きているわたしたちが思っているだけなのです。教会が教えているから、来世のいのちを信じるということでも構いません。しかし、そうだとしても、そうでなかったとしても、何であるかわからない死を恐れて、また死後の世界のことを心配しながら、今日という日々を過ごすのであれば、わたしたちは何ともったいない生き方をしていることでしょうか。わたしたちは、今というときを生きていないのです。わたしたちが生きるのは、今というこのとき、この刹那のときだけなのです。今日のたとえ話は、わざわざ金持ちとラザロの死後の二人の顛末を話して、生前での善行を促すというような陳腐な教訓話ではありません。あなたがたは、今を生き、今、神のことばに耳を傾けなさい、今、神のことばを聞かないなら、永遠に聞くことはない、といわれたのです。
イエスさまがいわれたのは、「聞く」というわたしたちのあり方です。イエスさまは、わたしたちが聞かない存在であることをよくご存じでした。あなたがたは、いくらアブラハムが話そうとも、ラザロが死者の中から蘇って話そうとも、復活されたイエスさまが話そうとも聞かない、といわれているのです。それは、あなたがたは、今というときを生きていないからである、といわれるのです。それは、わたしが死すべき存在であることを受け入れていないから、だらだらと生きているのだと。わたしたちは、過去の出来事や失敗、成功体験に囚われているか、あるいは将来への期待や夢に逃避しているだけで、今というときを生きていないのです。わたしたちが生きているのは、今というこのときしかないのに、今を生きようとしない。だから、今、聞くということができないのも当然なのです。わたしたちが生きているのは、今という一瞬、今という刹那であり、そこにすべてが、永遠があるのです。わたしたちは、過去でも未来でもなく、今を生きることしかできないのです。わたしたちは、いつイエスさまと出会い、いつイエスさまに聞くことができるのでしょうか。昨日でしょうか。明日でしょうか。1週間後でしょうか。それとも何年か後でしょうか。わたしたちは、今、生きているこのときしか、イエスさまと出会い、イエスさまに聞くことはできないのです。イエスさまのことばが、今、わたしに聞こえる、このことが救いなのです。そのために、イエスさまは今、わたしに働きかけてくださっているのです。
