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教会からのお知らせ

死者の日 勧めのことば

2025年11月02日 - サイト管理者

死者の日 福音朗読 ヨハネ6章37~40節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

カトリック教会では、11月は死者の月といわれ、11月2日は死者の日となっています。今年は11月2日が日曜日になりましたので、日曜日ですが死者の日のミサがささげられます。日本のお盆のようなものです。でもよく考えてみると、死者というのは一体何なんでしょう。

人類はその誕生以来、死というものと向き合ってきました。それは、死が人類最大の謎だったからです。偉大な哲学者や宗教家は、この死という謎と向き合ってきました。しかし、誰一人として、死が何であるかを解明した人はいません。なぜなら、人類は、生きている人で誰も死を体験した人はいないからです。多くの宗教は、死と死後について様々に語ってきましたが、それらについて話しているのは、すべて生きている人たちなのです。生きている人が、死と死後について語っているのです。よく考えるとおかしなことではないでしょうか。そもそも、生きている人がどうして死について語ることができるのでしょうか。また、それが真実だとどうしてわかるのでしょうか。教会が教えているからでしょうか。この世界の中で、死について問題にしているのは人間だけで、他の動物も植物も死について考えていません。同じ生命体なのになぜでしょうか。

「わたしは復活であり、いのちである。わたしを信じる者は、死んでも生きる。また、生きていてわたしを信じるものは決して死ぬことはない。このことを信じるか(ヨハネ11:26)」とイエスさまはいわれました。この個所は、イエスさまが自分を信じるものに、死後の永遠のいのちを約束したように説明されています。しかし、そうでしょうか。イエスさまは、わたしを信じるもの-つまり生きているもの-は死なない、生きているものは死を体験することがないという至極当然のことをいわれただけではないでしょうか。わたしたちは死が存在すると考えています。しかし、生きているもので誰も死んだものはいないし、死を味わったものも死を体験したものはいません。わたしたちが知っているのは、二人称、三人称の死なのです。一人称であるわたしは、死を体験することはできないのです。そのときわたしはいないのです。

三人称の死とは、わたしたちにニュースや情報として入ってくる死者の数です。死者の数とは死体の数なのです。二人称の死はわたしたちの親しい人、知っている人の死です。このときにわたしたちは、大変悲しみます。この二人称の死も、三人称の死もわたしたちは死体があるときに死んだといいます。親しい人がただいなくなったのであれば、それは行方不明として、その人が生きているといいます。だから、捜索願を出したり、探しにいったりするのです。わたしたちは、死体があることで死を確認した気になっていますが、それは死体であって、死体は死ではありません。

そもそも、わたしは死というもの体験することはできないのですから、わたしが生きているときに死はありえないのです。その反対に、死が存在するとわたしは生きていません。だから、わたしが生きているということは、死なないという当たり前のことをイエスさまはいわれたのではないでしょうか。ですから、イエスさまがいわれたことは、わたしを信じるものは生きているものだ、そして、生きているものには死はないと当たり前のことをいわれたのです。事実、イエスさまは「神は死んだものの神ではなく、生きているものの神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである(ルカ20:38)」といわれました。また、イエスさまは、「死んでいるものたちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたはいって神の国をいいひろめなさい(同9:6)」といわれ、死んだもののために何かをするとか、葬りをおこなうことを相対化されました。なぜなら、死があると思っているのは人間の錯覚だからです。二人称の死に寄り添うということが、宗教の中に取り入れられたのです。

わたしたちは、二人称と三人称の死体を見て、それが死であると錯覚しているだけなのです。たぶん、他人が死ぬのを見て、死がわかった、死を見た、死を知っていると思ってしまっているのです。自分が死ぬということを誰もまったくわかっていないのに、それをわからないままに、死体を見てそれを死と呼び、動いているもの生きているものを見て、生と呼んでいます。しかし、わたしたちは生きているということを、意識することはできません。わたしが呼吸しなければいけないと思って呼吸しているわけではない。食べ物を消化して栄養にしようと思って、消化しているのではない。心臓を動かして体中に血液を送らなければいけないと思って、心臓を動かしているのでもありません。つまり、わたしたちはだれも自律的に生きているわけではなく、意識的に生きているのでもないのです。ただ、そうなっている。それが生であり、それが動かなくなるとき、動かなくなるだけなのです。だから、誰も自分で生きている人はいないし、自分で死ぬ人もいないのです。人間にとって生死は便宜上の言葉であって、ただそうなっている、自然ということなのです。人間といえども、自然の一部です。自然は生死を当たり前に生きているのです。それに逆らっても仕方ないし、無理する必要もないのです。

イエスさまが十字架の上で死んだといっても、その死にざまはイエスさまの生き方でした。そして、死んだイエスさまは、人間は皆、生きて死ぬという当たり前の事実をわたしたちに見せただけなのです。死後のいのちがどうとか、永遠のいのちがどうだとか、そんなこと誰も死を説明できないのに、どうして死後があるなどということをいえるのでしょうか。生きていて死を体験したことがない人が、どうして死の世界や死後を語るのでしょうか。宗教だからゆるされているのでしょうか。死の世界や死後のことは、あくまでも生きている人間が期待していることなのです。イエスさまは、はっきりと「神は死んだものの神ではなく、生きているものの神だ」といわれました。実は、イエスさまは死後のことについて、何も話しておられません。イエスさまは、「すべての人は、神によって生きている」といわれ、イエスさまがいわれた永遠のいのちは、われわれを生かしている神のいのちのことであって、死後のいのちのことではありません。お釈迦さまだって、死については何も語られませんでした。宗教は生きている人たちのためのものです。死者のためではありません。宗教はいのちの真実を告げるものであるのに、死後の世界のための教えにしてしまったのです。11月は死者の月だといいますが、これは二人称、三人称の死を体験した家族や親しい人、生きている人が、自分が生きているということはどういうことなのか、何なのかを考えるための月なのではないでしょうか。死んだ人が、わたしたちに何かを期待しているなんてことはありません。

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