年間第33主日 勧めのことば
2025年11月16日 - サイト管理者年間第33主日 福音朗読 ルカ21章5~19節
<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗
今日はイエスさまが、終末について語られる箇所です。「先生、では、そのことはいつ起こるのですか」と問う人たちに対して、イエスさまは「世の終わりはすぐには来ない」と答えられました。当時の歴史観は、飢饉とか戦争、暴動が起こり、試練を通してメシアが来臨して、イスラエルの民が再興されるというものでした。そのメシアはダビデの子と呼ばれ、ダビデのような理想的なイスラエルの民の指導者であり、その指導者のもとイスラエルは国家を再建し、理想的な支配が確立されるというものでした。ですから、終末といっても、イスラエル民族を中心とした国家の再興であって、その統治の下にすべての民族が入ってくるといった、非常にユダヤ覇権主義の強い思想でした。弟子たちがイエスさまに期待していたのは、そのような強い指導者であり、いつくしみぶかく、十字架上で無力のうちに亡くなっていく弱いメシアではありません。ですから、イエスさまの十字架上の死は、当時の人々にとっては、失敗、挫折であって、メシアの来臨は叶わなかったというのが人々の理解でした。当時の人々は、終末というものを、ある時間と空間の中で起こることとして理解するしかできませんでした。ですから、「いつ、どこ」でということが問題になったわけです。
ルカの教会は、ローマ帝国によるエルサレムの陥落、神殿の破壊を知っている教会です。エルサレムの神殿は、当時のキリスト者にとっても信仰のよりどころでした。ですから、この出来事をどのように理解していくのか考えざるをえませんでした。そこで当時の教会は、当時のユダヤ教の終末思想をもとに理解していこうとするのです。ですからキリスト教の中では、イエスさまの到来、その生涯、その死と復活に終末が始まり、イエスさまが再臨されることで、神の国が完全に到来すると考えたのです。これがイエスさまの再臨、私審判(個人の死)、最後の審判という終末論となり教会の教えとなっていきました。当時の教会は、終末をあくまでも時間の流れの中で起こることとして理解していたのです。しかし、このような形での終末は到来しませんでした。なぜなら、このような終末理解は、永遠である神さまを時間と空間の中に押し込めた、その時代の中の限界ある歴史観にすぎなかったからです。カトリック教会では、終末理解が再解釈されていくとはいえ、それを今日でも同じように教えているわけです。ですから、1000年のとき終末が来るとか、2000年のとき終末が来るというような陰謀論が広まったのです。
今日、科学や物理学の発展によって、宇宙の成り立ちや時間と空間について新たな発見、解明がなされています。その現代において、旧来のカトリック教会の教えは非現実的なものとなっています。教会の教えは現実の社会から遊離したものとなり、教会の教えは教会の教え、この世の現実は現実という割り切りがキリスト者の信仰生活の中に蔓延してしまうというのも無理はありません。教会の教えは綺麗事であって、わたしたちの人生には何の影響も与えないとなってしまうのが現実です。
もうひとつの問題は、このような終末についての教えの根底にあるのは、当時の人々が期待していた、現世での個人の生の充足、民族の充足、いうなれば幸せな生活、完成された世界を終末として捉えているということです。これは、実はこの世の生活の充実が人間の第一の目的だと考えている現代人と同じ考え方です。結局は、自分にとって幸せで有意義な人生や国家を築き上げるということが、目的になっています。キリスト教はといえば、このユダヤ教の終末思想を少しだけ修正し、その目的を時間的に延長し、それを来世に設定しただけに過ぎません。たとえ、それがキリスト教化された終末についての教えであったとしても、時間的流れの中で、キリスト教という枠組みの中だけでの充足を考えているのであれば、それは根本的に違うのではないでしょうか。この世の、あるいは来世のいのちの充足が目的だと考えている個人、宗教、信仰であれば、それはいのちの本来のあり方に背いたものであって、真の宗教とはいえないように思います。真の宗教というものは、夫々の宗教の教えや自己中心的な立場を超えて、すべての生きとし生けるもののうちに働いている普遍的ないのちそのものの真理であり、その真理に己をまかせていくというものではないでしょうか。それが、自分の人生、自分の国、自分の宗教、自分の信仰だけで完結しようというのであれば、それは宗教本来のあり方とはいえません。また、自己の救いを目的としているのであれば、それは人間としてのあり方としても偏ったものであるといわざるを得ません。それらは、結局は自我が作り出した幻想であって、イエスさまの願いとは異なっているのではないでしょうか。
一方で、わたしたちは自分のこと、自分の近くにいる人のことからしか考えられないのが現実です。わたしたちが大切に思ったり、悲しんだりするのは、自分と自分の近くにいる二人称のだれかであって、いくら地球の裏の人々のことも同じように大切にしましょうと叫んでも、それは言葉だけであって、わたしの近くにいる人と同じように大切にすることなど不可能なのです。わたしたちは、時空を超えてイエスさまがされたようにすべての人に関わることも、平等に接することなど出来ないのです。わたしたちの中にあるのは、まずわたし、そして大切な人、嫌いな奴、そしてどうでもいい人々です。世界の人々を同じようにといっても、出来ないのです。まずは、その人間としての限界、悲しみを謙虚に見つめていくことが必要なのではないでしょうか。わたしたちは自分を中心にした世界を作りだしているのであり、その世界は虚構であって、真実ではないのです。結局のところ、わたしのことからしか考えられないというわたしの痛み、悲しみを見つめるとことからしか始まらないのではないでしょうか。そして、このような個人の救いというものに囚われているわたしたちが、わたしの救いから解放されることが、まことの救い、終末なのではないでしょうか。
結局、この度し難いわたしがどうにかならない限り、世界が幸せになることもない、本当の意味で世界が、わたしが幸せになることもないということだと思います。ですから、終末はわたしたちの救いのためにあるのではなく、今、生きているわたしに対する問いかけとして存在するのだと思います。
