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教会からのお知らせ

待降節第2主日 勧めのことば

2025年12月07日 - サイト管理者

待降節第2主日 福音朗読 マタイ3章1~12節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日は洗礼者ヨハネの活動が描かれていきます。洗礼者ヨハネは、メシア到来を準備する悔い改めの洗礼を宣べ伝えました。悔い改めとは一体何なんでしょうか。わたしたちはミサの前に、「わたしたちの心を改めましょう」といいますが、わたしたちがこころを改めるとはどういうことなのでしょうか。そもそもわたしたちは悔い改めるということができるのでしょうか。

現代人のわたしたちは、わたしたちのこころ、体、いのちは自分たちのものだと思っています。ですから、自分のこころや体、いのちを自分の意のままにできると考えています。それはわたしたちのこころや体、いのち、そしてこの自然界は、神さまからわたしたち人間に与えられたものであるというユダヤ・キリスト教的な自然観が根底にあるからなのです。自分のこころや体、いのちは神さまからもらったものだから自分のものであり、それを支配することができると考えているのです。これが世界中に浸透している西洋の世界観でもあるのです。先ずわたしという存在を立てて、わたしたち人類が神の代理者としてすべてのものの所有者となりこの世界を支配し統治していく、この発想はキリスト教のものなのです。

そして、近代に起こってきた科学は、このようなキリスト教的な世界観への反発として起こってきたものなのです。今度は神さまに代わって、人間が支配者になるということです。こころや体、自然界が、わたしたちに与えられた、あるいはわたしたちのものであるというのですから、当然それらを人間の力で支配し、コントロールできると考えるようになります。しかし、現実はどうでしょうか。人類は自然界の支配者、所有者のような顔をして、自然から搾取し続けてきた結果、今、わたしたちはその自然から反逆を受けています。自然破壊や公害による気候変動などはそのひとつでしょう。

わたしたちはこころや体をわたしの所有物としてコントールしようとしてきました。ですから、キリスト教では、努力して頑張って、反省して罪を避けて、善行をしてよい人間になることが信仰者としてのあり方であると教えてきました。それでも、いろんなことがうまくいかない、病気になったり、不幸になったりするとそれは信仰が足らないからだといわれ、自分のこころを修め、強い信仰をもてば困難を克服できると教えてきました。または、これは神さまからの試練であるから忍耐するようにと諭してきました。これがキリスト教の信仰観なのです。しかし、果たしてわたしたちは自分のこころを修め、信仰を強くし、わたしたちの何かを変えることができたでしょうか。信仰は、わたしたちのこころのもち方でどうにかなる問題なのでしょうか。現実は病気がなくなることも、困難がなくなることも、死がなくなることもありません。人のこころをコントロールすることはできないし、それによって事態を動かすことなどできないのです。

わたしたちは、自分の意志で頑張って心臓を動かし、血液を体の隅々にまで送っているのでしょうか。わたしが頑張って呼吸して体に酸素を取り込み、食べ物を消化し栄養として取り込んでいるのでしょうか。わたしが腹を立てないように頑張れば腹が立たなくなり、憎しみのこころを抱かないように頑張れば憎しみが湧かなくなるでしょうか。わたしの中では、皮膚の細胞はおよそ1か月で入れ替わり、血液は3〜4か月、骨でさえ10年もすればほとんどが新しいものに入れ替わっているといわれます。わたしが、体に命令してそのようになっているわけではありません。わたしのこころとか意志とかに関係ないところで、自然とそうなっているのではないでしょうか。にも関わらず「わたしがある」と主張している「わたし」とは、一体誰なのでしょうか。わたしのこころとか、意志とか、意識とはどこにあるのでしょうか。このように考えていくと、わたしという人間がいかに不安定で、絶えず移り変わっていくものであるかということが見えてきます。わたしのこころも体も、絶えず変化していて、ひとつの状態に留まるということはありません。

それでは、悔い改めるよういわれているわたしというのは何でしょうか。わたしがわたしであると思っているような確実なものは、何もないのです。わたしは絶えず移り変わっていく、それが生きているということなのです。それなのに何か確実なものがあると思い込み、それを真実であるかのように握りしめているのがわたしです。それがひとつの考えとか思想であったり、宗教であったり、富であったり、権威であったり、地位や名声であったり、よい人間であるということであったり、恩恵の状態であったりします。しかし、たとえそのようなものを握りしめていても、あえなく崩れ落ちてしまいます。腹を立ててはいけないと思っていても腹が立ってくる、笑ってはいけないと思っていても笑ってしまう。病気にならないように気をつけていても病気になる。歳をとりたくないといっても老いてゆく。この世では何もわたしたちの思うようにはならないのです。かりに思い通りになったと思っても、それが永遠に続くことなどありえないのです。それを思い通りにしようとするのは、わたしの欲に他ならないのです。凝りもせずに、自分自身を、他人を思い通りにしようとする、しかし決して思い通りにはならないのです。それなのに、わたしはすべてを思い通りにしようとする、これこそが人間の根深い執着であり、迷いに他ならないのです。

最後は「わたしが」、「わたしの」という我執です。結局は自分を中心にしてすべてを捉えて、すべてを理解していこうとするこのわたし、我執が問題なのです。よい人間になりたいと思うのも、所詮わたしの執着なのです。わたしたちは、この我執から離れることができない、その現実に気づくことが必要なのではないでしょが。その我執がありとあらゆる苦しみ、罪と傲慢を作り出していくのです。

 

洗礼者ヨハネは「蝮の子らよ」といい、わたしたちにこの身を知らせ、この我執の身が破られることの必要性を知らせました。この身が知らされ、この身が破られるのは水の洗礼、つまり人間の業によってではなく、聖霊と火による洗礼、つまりイエスさまの到来によってしか成し遂げられることはできないとヨハネは宣言します。ヨハネの時代までは人の業、人の力による悔い改めであり、真の悔い改めは人の力によってなされるのではないことが知らされます。イエスさまの到来、イエスさまとの出会いだけが、わたしたちをこのわが身から、わたしを解き放つことができるのです。ですから、イエスさまの到来そのものが福音であり、神の国、恵みそのものなのです。

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