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教会からのお知らせ

待降節第3主日 勧めのことば

2025年12月14日 - サイト管理者

待降節第3主日 福音朗読 マタイ11章2-11節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の福音では、捕らわれの身になっている洗礼者ヨハネが登場します。洗礼者ヨハネは先週の福音にも出てきましたが、神さまによってイスラエルの民に送られた旧約の最後の預言者です。ヨハネはヘロデ王の結婚が律法に適っていないことを指摘したために、捕らえられ牢に入れられます。そのヨハネが獄中から弟子をイエスさまのところへ送って「来るべき方はあなたでしょうか。それともほかの人を待たなければなりませんか」と尋ねさせています。ヨハネはイエスさまに洗礼を授け、イエスさまのことを知っていたはずです。イエスさまが洗礼者ヨハネから洗礼を受けようとされたとき、ヨハネは「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところに来られたのですか(3:14)」といっています。つまり、イエスさまが神さまから使わされたメシアであることを知っていたのです。そしてヨハネは「イエスのなさったことを牢の中で聞いた」と書かれています。そうすると、ヨハネはわざわざイエスさまのもとに弟子を遣わして、「来るべき方はあなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」と尋ねるということは、ヨハネの中で何かが揺らぎ始めたということでしょう。ひとことでいえば、イエスさまは洗礼者ヨハネが思っていたとおりのメシアではなかったということでしょう。期待外れだということです。だから自分の弟子を送ってわざわざ「来るべき方はあなたでしょうか。それとも…」と尋ねねばならないほど疑問、戸惑いがヨハネの中に生じていたということなのでしょう。

イエスさまに「女より生まれた者のうち、洗礼者ヨハネよりは偉大な者はいない」とまでいわしめたヨハネでしたが、イエスさまの答えは「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、思い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」でした。ヨハネはその出来事の中に、神さまの働きを見ることができなかったのです。イエスさまをして「預言者以上のものである」といわしめたヨハネであってさえも、イエスさまにつまずいてしまったのです。イエスさまは「わたしにつまずかないものは幸いである」といわれます。おそらくヨハネは、イスラエルの民をローマ帝国の支配から解放する力強い指導者を期待していたのでしょう。しかし、イエスさまは、目の見えない人を見えるようにし、耳の聞こえない人を聞こえるようにし、貧しい人に福音を告げ知らせておられました。そのイエスさまの働きの中に、ヨハネは神さまの働きを見ることができませんでした。

このことは、わたしたちがイエスさまを理解するときにも同じことになりがちです。わたしたちも、わたしという狭い枠の中でイエスさまを捉えてしまう危険性が絶えずあるのです。ヨハネでさえ自分の狭い考えの枠の中でしか、イエスさまを捉えることができませんでした。わたしたちはなおさらではないでしょうか。神のみ言葉を聞くとき、わたしたちは自分に都合よく聞いてしまう傾向があります。そもそも、わたしたちが何かを理解するというとき、自分が今まで体験したことの中でしか物事を理解することしかできませんから、当然限界があるのです。ですから、神のみ言葉を聞くときも、自分の思い描いた自分の気に入った神さまのイメージ、信仰のイメージ、教会のイメージにあてはめて、その幻想を膨らましていくことになりがちです。洗礼者ヨハネでさえ、そうした誘惑から自由ではありませんでした。その後のヨハネは、牢屋の中で自分のすべてを奪われ失望のうちに、最期は殉教という苦しみを通して「自分勝手な思い」というものから清められることで、イエスさまの到来を準備するという己の使命に徹することを学んでいかなければならなかったのです。それは、あまりにも過酷といえば過酷です。ヨハネは牢屋の暗闇の中で度々「あの方は栄え、わたしは衰えなければならない」と繰り返したことでしょう。

わたしたちの基本的なこの世界とのかかわり方は何かといえば、「わたしは栄え、あの方は(相手側は)衰えなければならない」「わたしの思いが据え通らなければならない」ということなのです。わたしの望みが叶い、わたしの思いが据え通り、わたしの計画が実現していくことがわたしのモチベーション、わたしの目標なのです。それがわたしの我欲であると認識していればまだ救いようがありますが、それがわたしの生きがい、目標、使命であると勘違いしているのであれば重症です。たとえどのような立場にあっても、それがどれほど崇高な計画や目標であっても、自分のプロジェクトをイエスさまの計画と錯覚し、己を押し通していくということから、わたしたちは決して自由ではないのです。

このヨハネの姿は、キリスト者として生きようとするわたしたちの模範です。キリスト者とは、その名の示すとおり、「キリストにつくもの」となることです。わたしがどれだけすばらしいことをして活躍しても、教会に奉仕しても、信者として長い間信仰を守ったとしても、それが「自分教」であれば、わたしはまだキリスト者になっていない、ただの自分教の信者にすぎないのです。キリスト者としての成長は、神の恵みと助けによってわたしが何かができるようになることではありません。そうではなく、むしろ反対で、わたしの中でわたしが消え去り、イエスさまが中心となり、イエスさまがすべてを行われるようになることに他なりません。わたしたちがカトリックであることと、キリスト者であることは同じではありません。

イエスとの出会いはわたしたちにとっては、いつも驚きであり、予想外であり、感動なのです。わたしたちを動かすとしたら、それはイエスさまへの感動です。わたしたちは、高邁な教えや複雑な神学によって動かされはないのです。イエスさまへの感動は、わたしたちをまったく新しい真理へ、新しい世界へと招き入れてくれるのです。わたしたちは真の意味でキリスト者となるように、たえず呼びかけられているのです。

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