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教会からのお知らせ

年間第6主日 勧めのことば

2026年02月15日 - サイト管理者

年間第6主日 福音朗読 マタイ5章17~37節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の箇所は、他の共観福音書にないマタイ固有の箇所になります。そこから、マタイの教会の抱えていた問題がわかります。彼らの多くはユダヤ教からキリスト教になった人たちで、ユダヤ教側から決別されて、自分たちの今までのユダヤ教に由来する信仰を見直し、新しいイエスさま中心の生き方に向かっていかなければなりませんでした。自分たちは、一体何者なのかを問わざるをえなくなっていきました。

マタイ福音の中でのイエスさまの話し方は、「あなたがたも聞いているとおり」で始まり、「しかし、わたしは言っておく」というスタイルになっています。それは、旧約の律法ではこのように教えられていたけれど、わたしは新たにいうといういい方です。さらに、イエスさまは「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファイリサイ派の人々の義にまさっていなければ、決して天の国に入れない」といわれます。それでは、律法学者やファイリサイ派の人々の義とは一体どのようなものだったのでしょうか。今日の箇所を見ると「殺してはならない」「姦淫してはならない」「偽証してはならない」などという十戒の教えがまず述べられます。十戒の教えは、「目には目を、歯には歯を」でよく知られた同害報復法のハムラビ法典とともに古代社会の法規として知られています。ハムラビ法典は、社会秩序と人間のいのちを守るために、犯された行為に対して同等の償いを要求する古代の人間社会の法規です。ハムラビ法典は、お互いが必要以上の復讐に発展しないようにする人間の知恵でもあったわけです。これは現代にいたるまでの一般的な人間社会の正義であり、ユダヤの律法や十戒はその人間の正義を宗教化し、神法化したものです。

ここでいわれている人間の正義は、どこまでいっても報復的正義、配分的正義であり、わたしたちの今の社会もその正義で成り立っています。罪を犯したら罰を受ける、また反省させる、罪に釣り合った償いを受けさせるという考え方です。それは勧善懲悪、因果応報という考え方であり、多くの宗教がその倫理観にもとづいて教えを説いてきました。ですから、頑張れば報われる、努力すれば認められるが怠ければ報われない、罪を犯せば罰せられるという極めて単純な考え方が特徴となっていきます。これはどこまでいっても、人間の理性で考えた正義であって、律法学者、ファリサイ派の人々の正義はこれであるということです。人間にはわかりやすいし、誰もが受け入れやすい考え方であり、説得力のある教えです。

しかし、イエスさまは「あなたがたの義がファイリサイ派の人々の義にまさっていなければ」といわれました。それではイエスさまは、わたしたちに律法学者やファイリサイ派の人々より立派な人になれといわれたのでしょうか。「右の頬を打たれたら、左の頬をも向けなさい」的なことでしょうか。しかし、イエスさまがいわれるのは、律法学者やファリサイ人よりさらに上の正義を目指しなさいといわれたのではないと思います。わたしたち人間の考える正義とは、所詮は人間の頭で考えられる理屈で納得できる正義なのですが、神の国の正義、イエスさまがいわれる正義は、人間の側からのすべての理由や説明がまったく通用しないということなのです。どういうことでしょうか。

パウロはローマの教会の手紙のなかで次のように書いています。「律法が入り込んできたのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました(ロマ5:20)」。パウロの考えでは、律法が与えられたことで罪ということがより一層意識されるようになった。だから罪が増し加われば、それなりに罰も償いも重くなる。しかし恵みの世界では、罪が増し加われば加わるほど、神の恵みはなおいっそう満ちあふれるのだというのです。罪が多くなり重くなれば、それだけそのゆるしは大きくなり、恵みは満ち溢れるということです。これが、神の国の正義なのです。わたしたちは何度となく、このパウロのことばを聞いています。しかし、いくら聞いていても、どうしても人間の正義、理屈と合いません。わたしたちは、頑張ればそれなりに認められたいし、悪いことをした人は罰を受けて当然だと思っています。自分の嫌いな、また自分を害する人がゆるされて救われるなどということを、わたしたちは到底受け入れられないのです。イエスさまがゆるしても、わたしは認めないしゆるさないということになります。しかし、イエスさまの考え方、神の国の正義は、わたしたちの考えとまったく違っているのです。神の国の正義は永遠の絶対平等であり、わたしたちはそれを愛と呼んでいます。それは、頑張ったものは報われて、罪を犯し悪いことをした人は罰せられるというようなこととまったく関係がない世界なのです。わたしたちは、やはり頑張った人は評価されて、悪い人は自業自得だと思いたい、しかしその考え方がまったく通用しないのがイエスさまの正義なのです。だからわたしたちの頭で神の国の正義を理解できるはずがありません。

ですから律法学者やファリサイ派の人々にまさった義というのは、彼らの正義の捉え方の延長線上にあるより立派な正義、例えば敵への愛とかではなくて、人間の正義という物差しをまったく超えた正義、まったく人間の理由や理屈が通用しない神さまの正義、神さまのあわれみのことなのです。わたしは、なぜイエスさまから愛されているのかを考えてみてください。それは、わたしがイエスさまの愛にふさわしいからでしょうか。そうではありません。わたしがふさわしいから、愛してもらうなどと考えるのは人間の正義の捉え方です。イエスさまが愛するとき、与えるとき、ゆるすとき、理由などないのです。それはあたかも水が高いところから低いところに流れるように、自然でただそのままで、愛とはそういうものだということなのです。わたしが生まれてきた理由も、死んでいく理由もありません。ただ生まれて、生きて死んでいく、そこに理由などありません。わたしたちは自分が生きていると考えがちですが、生きるということはわたしの努力などによるものではありません。あるがままなのです。これが神さまの正義、愛のありさまなのです。

大きないのちの世界は、わたしたちが考える自分と他人の区別がなくなった世界、生と死がなくなった世界です。いのちに上等も下等もありません。神の国は、そのようないろいろな区別、隔てがなくなった透明な世界のことを指しているのです。イエスさまはそのことを、まことの義といわれました。自他、生死のある世界は、やはり暗い苦しみの世界でしかありません。自分さえよかったらいいとか、他人のことは知らないとか、いつまでも生きたいとか、そうすると自分が病気になったり、老いたり、死ぬことは悪になります。これは苦しみの世界です。これが人間の考える正義、理屈なのです。しかし、わたしたちはもっと大きないのちそのものに生かされているのです。にもかかわらず、わたしたちは人間の正義という小さな枠組みの中に閉じこもっていることに気づかないのです。人間の正義が全く通用しない大きな正義、愛といってもいい、そのような大きないのちが、この小さなわたしを生かしているのです。それが神さまの正義、天の国、神の国なのです。ですから神の国(天の国)は場所ではなく、時間の中にあるのでもなく、わたしたちを生かしている働きそのものなのです。

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