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教会からのお知らせ

四旬節第1主日 勧めのことば

2026年02月22日 - サイト管理者

四旬節第1主日 福音朗読 マタイ4章1~11節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

四旬節に入りました。今日読まれる箇所は、ヨルダン川で洗礼を受けられたイエスさまが、霊に導かれて、荒野に滞在される出来事が語られていきます。荒野というと、わたしたちはいろいろなイメージをもつと思いますが、日本で荒野というと荒れ果てた土地のことや休耕田を考えるかもしれません。しかし、イスラエルでの荒野は、まったくいのちを寄せ付けない、人が一度迷い込んでしまうといのちが危機に晒され、死と向き合わなければならなくなるような不毛の土地をさしています。そのような荒野は、わたし自身のいのちが脅かされ、わたしがわたしであると思っているような些末なこと、こだわり、大切にしていること、社会的な地位、役割、家族的な役割、宗教などもすべて役に立たなくなる世界です。

わたしたちは通常、社会の中で生きているとき、わたしが何者かであるということを他者との関わりの中で確かめて生きています。親であるとか、子であるとか、夫婦、兄弟姉妹といった血縁関係、会社では上司・部下、同僚、地域ではお隣さん、学校では教師・生徒、教会では信徒、司祭、司教、役員など、また性別、出身地とか等などです。つまり、わたしたちは自分の戸籍や住民票に書いてあったり、免許書やパスポートに書いてあったり、名刺に書いてある役職や名前が自分であると思い込んで生きています。しかし、荒野というところは、そのような自分、つまり自分が自分だと思っていることが一切通用しなくなるところなのです。通常、わたしたちは立場だとか、役割だとか、身分だとか、名前とかが自分であると思って生きています。しかし、それが通用しないところが荒野です。イエスさまが霊によって導かれていかれたところは、そのような場所なのです。そこではイエスさまも神の子であるということが通用しません。そこで悪魔は「あなたが神の子ならば…」といって誘惑してくるのです。悪魔というと悪いものというイメージがあるかもしれませんが、その意味は「誘惑するもの」です。つまり、わたしたちが自分のことを何ものかのように思っている、しかし本当にそうなのかというところを突いてくるのだといえるでしょう。荒野での滞在を、悪魔の試練のように思われていますが、そうではなく、わたしは一体何ものかが問われる場であるといったらいいでしょう。それが荒野なのです。あなたは自分のことを、○○だと思っているかもしれないけれど、それは本当にそうなのかということが問われるのです。この○○には、わたしたちのありとあらゆる立場、役職、身分、性別、名前などが当てはまります。わたしはキリスト者だとか、社長だとか、役員だとか、司祭だとか、司教だとか、先生だとか、シスターだとか、自分の名前だとか、そんなものがすべて吹っ飛んでしまうのが荒野なのです。

今日の第1朗読では、創世記の人間の創造が描かれています。そこで、神さまは人間を土の塵で形作って、その鼻にいのちの息を吹き込まれたと書かれています。まったく寓意的な話であると思われるかもしれませんが、あながち作り話でもないのです。この地球のありとあらゆるものを構成する要素は、酸素、ケイ素、鉄、アルミニウム、リン、カルシウム、マグネシウム、カリウム、ナトリウム、水素などであり、それはさらに細かい素粒子、クオークによって作られています。その最小の構成要素のその時々の集合体のひとつが人間であり、わたしなのです。ですから、わたしがわたしだと思っているようなもの、意識というようなものは、わたしが誕生してから出来てきたものに過ぎません。わたしが誕生する前に世界はすでにあったのです。考えてみると、わたしが生まれたときに、わたしなどという意識はありません。わたし自身の始まりなどわたしにはわかりません。わたしは何も知らないのです。だれも「俺は、今生まれるんだ」などと意識して生まれてくるということはありえないのです。すでに、わたしより先なるものがあったということなのです。そして、わたしより先にあったものに、わたしという自意識がくっついてきたのです。わたしが意識したときにわたしが始まったのではなくて、わたしの意識より先にあるものがあるのです。しかしながら、人間は意識が生じた瞬間に、わたしの意識より先にあったものをわたしの意識の支配下にあるものとして捉えようとします。つまり、自分がそれを支配しているかのように思うのです。そして、それを錯覚して、わたしの意識の世界がすべてだと思い、それを自分の統制下におこうとするのです。これが、自分本位の世界、自己中心性、原罪の正体です。

それに対して創世記は、わたしを形作っているものは、わたしの中にあり、またわたしの外にもある土の泥であって、それをわたしはわたしであるといっているのにすぎないのだといいます。わたしの自意識の前には、わたしを超えたものがあるのです。いのちの息が、その土の塵の集合体に吹き込まれて、わたしがわかってもわからなくてもそのいのちがわたしを支えているのです。わたしたちがするべきことは、そのような泥にすぎないわたしを推し広げていくことではなく、その内なるいのちに己をまかせることなのです。しかし、そのいのちがなかなかわからなくて、そのいのちの中で迷い、善悪を決めて、区別したり、幸不幸を作り出したりしているのがわたしたちです。わたしたちはいのちに抱かれているのにも関わらず、そのいのちに抗い、暴れまわっているのです。

四旬節は、霊がわたしたちを荒野へといざなう恵みのときです。荒野では、わたしがわたしであると思い込んでいるものが解体されていきます。そうすると、今までわたしだと思い込んでいたわたし、わたしたちのありとあらゆる立場、役職、身分、性別、名前が解体されていきます。そして、そこにある根源的いのちと出会うこと、これが宗教です。わたしがわたしのことをわかって、イエスさまと出会うのではありません。自分が解体されることで、わたしたちはイエスさまと出会うのであり、またイエスさまと出会うことで自分が解体されるのだともいえるでしょう。そのときわたしは最も根源的なわたし自身に出会うことになるのです。この四旬節、わたしたちは意識的に荒野を作り出して、荒野を生き、わたしたちが霊の導きに従って歩めるように祈りましょう。

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