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教会からのお知らせ

四旬節第2主日 勧めのことば

2026年03月01日 - サイト管理者

四旬節第2主日 福音朗読 マタイ17章1~19節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の聖書の箇所は、イエスさまがガリラヤでの宣教活動に終止符を打って、ユダヤ教の本山のエルサレムに向かう旅の途上での出来事、主の変容といわれる箇所です。そこでイエスさまの栄光が現されると同時に、弟子たちの不信仰ということもあらわにされていく箇所です。山の上で、弟子たちは「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という呼びかけを耳にします。これはイエスさまが洗礼を受けられたときに、イエスさまが内的に聞かれたことばでもあります。

長い教会の歴史の中で、イエスさまはいつから神の子であるかということが議論されてきました。ある人たちは、洗礼のときからだとか、変容のときからだとか、死と復活を通して神の子になられたのだとかいうような議論がなされてきました。もちろんわたしたちは、イエスさまが生まれながらにして、神の子であることを知っています。このことはよく考えればあたりまえで、人間の場合でも同じです。人間は生まれたときにはじめて、誰かの子となるのではありません。子であるということは、難しいいい方でいうと関係概念であって、親があってはじめて子ということばが生まれてきます。その反対も然りです。わたしたち人間で親にならない人たちというのはありますが、わたしたちは必ず誰かの子です。子であるということは必ず親がいるということになります。子になるのは生まれたときでも、はじめてお父さん、お母さんの名前を呼んだときでもありません。まして、わたしが子であると意識したときでもありません。わたしたちは皆、生まれながらにして子として生まれてくるのです。ということは、わたしたちは誰もが子である、つまり生まれたもの、生かされているものであるということなのです。その事実に、あるときにはっと気づく、お母さんに自分の名前を呼ばれたときに、子どもがお母さんの名前を呼んだとき、また根源的ないのちに呼ばれていることを意識したときに、自分が子であったことに気づくのです。

それでは、その気づきはどのように与えられてくるのでしょうか。わたしたちは自分の力で、子であることに気づくことはできません。先ず、お母さんが絶えずわたしを呼び続けているという事実が先にあって、わたしはその呼びかけを聞き応えようとすることによって、その気づきが起こるのです。わたしたちの親子という関係は、イエスさまを通してわたしたちが根源的ないのちに呼ばれていることに気づくための予行練習のようなものです。この地上の親子関係がすべてではないのです。つまり、わたしたちが子であるということは、単に人間としての両親がいるということだけではなく、あなたがたにはあなたがたを生み出し、いのちを与えて支え続けている真の親がいる、その真の親に気づいて自分をまかせなさいといわれているのです。人間の両親は、たまたまその子を預かっただけにすぎないのです。それなのに、子を自分の所有物のように勘違いしている親が何と多いことか、それが現代社会の問題であるのです。

ですから、わたしたち人類は皆、生まれながらにしてイエス・キリストにおいて神の子なのです。洗礼によって神の子になるのではありません。絶えまなく大いなるいのちによって生み出され生かされ、はからわれていることが、わたしたちが神の子であるということに他なりません。わたしが努力して、頑張って子の身分を獲得したのではないのです。子であるということは、すでに永遠において与えられていることなのだということです。イエスさまが神の子であるということの意味は、神さまである方が人間となることで、人間の本質を人間に教えてくださった、人間の真実、人間のいのちの根源、人間の歩むべき道をしめしてくださったということなのです。ですから、イエスさまは「道、真理、いのち」と呼ばれています。イエスさまは人間になって、生まれるものとなって、人間の苦しみ、悩み、迷い、罪となって、わたしの人生となってくださったのだということなのです。

ですから、今日の変容の箇所で「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」といわれるのは、イエスさまを通して、わたしたちに神さまが呼びかけている、その呼びかけがわたしに届いているということなのです。わたしたちは、その呼びかけが届いていることを確認したから、そのことを信じたから、わたしたちは神の子になるのではありません。神さまの呼びかけが届いていること自体が真実、信仰なのです。その真実にふれたものはイエスさまの真実とひとつになります。だから、もはやわたしが信じるのではなく、キリストがわたしのなかで信じるのだといえるでしょう。どうしたら信じられるか、どうしたら呼びかけに応えられるかではなく、何処までもイエスさまから逃げようとする、この逃げるわたしを追いかけてきて決して離さないというイエスさまの真実だけがあり、わたしたちはそのことを知らされる、神の子であることに気づかされるということなのです。わたしがどこへ行こうとも、どこに隠れようとも、イエスさまはついて来られます。

パウロはそのことを「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです(ガラ2:20)」といいました。この気づきがないなら、洗礼を受けようと、ミサに何回参加しようと、何度聖体を頂こうとも、わたしたちはイエスさまがわからないままです。何と無駄な時間を過ごしていることでしょうか。わたしたちは、頑張って努力して神の子になるのではありません。まして、洗礼を受けた人だけが神の子になるのでもありません。わたしたちは神の子であることに気づかされたから、洗礼を受けたのです。そこを勘違いしてはならないのです。

実に、今日の第2朗読でいわれているとおりです。「神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださったのは、わたしたちの行いによるのではなく、御自身の計画と恵みによるのです。この恵みは、永遠の昔にキリスト・イエスにおいてわたしたちのために与えられ、今や、わたしたちの救い主キリスト・イエスの出現によって明らかにされたものです(Ⅱテモテ1:9,10)」。イエスさまによって明らかにされた真実、生かされているという真実がわたしたちの先にあるのです。わたしたちはそのことに気づかせていただくことが信仰なのです。そして、その真実のことばは、今わたしたちに届いているのです。その真実のことばを、わたしたちが聞くことを信仰というのです。そしてその輪が広がっていくことを教会、福音宣教というのです。

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