四旬節第3主日 勧めのことば
2026年03月08日 - サイト管理者四旬節第3主日 福音朗読 ヨハネ4章5~42節
<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗
今日はイエスさまとサマリアの女の出会いの物語です。聖書朗読は5節からですが、3~4節に「(イエスは)ユダヤを去り、再びガリラヤに行かれた。しかし、サマリアを通らねばならなかった」ということばがあります。普通、ユダヤ人がガリラヤに行く場合、エルサレムからサマリアを通ってガリラヤに行けば直線距離で近いのですが、わざわざヨルダン川を渡って北上するという遠回りのコースを使っていました。その理由は今日の箇所の中に、「ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである」と書かれています。サマリア人とユダヤ人の間には数百年に及ぶ怨恨があって、お互いに憎しみ合う関係でした。ですから、ユダヤ人のイエスさまがガリラヤに行くとき、サマリアを通るということはあり得なかったわけです。それなのに、イエスさまは「サマリアを通らねばならなかった」と書かれています。どうしてでしょうか。それは、イエスさまが渇いておられたからです。今日の話を表面的に読むと、旅の途中のイエスさまは喉が渇いて、サマリア人の女に水を所望されたぐらいにしか読めません。そこで、たまたまサマリア人の女性と出会って、この女性を信仰に導かれたというのが話の筋書きです。しかし、そのように読むと、イエスさまの渇きというものはある種のきっかけで、偶然出会った女性を信仰に導かれたというような表面的な話になってしまいます。
しかし、このイエスさまの渇きというのは、単なる身体的な渇きではなく、このサマリアの女への唯一無比ともいえるイエスさまの魂の渇きなのです。このサマリアの女が特別という意味ではなく、このサマリアの女は人類の代表で、イエスさまは人類であるこのわたしに飢え渇いておられるのだといえるでしょう。イエスさまの魂の渇きは確かに普遍的であり、すべての人に対するものなのですが、このサマリアの女と出会わなければならなかったということは、イエスさまの渇きはわたしひとりのためなのだということを意味しています。イエスさまは全人類の救い主ですから救いはすべての人に等しく及びますが、その愛は決して抽象的な教義のようなものではなく、わたしたち一人ひとりへの愛の渇きであるということなのです。教会では、イエスさまはわたしたち全人類を愛しておられるといういい方をしていますが、イエスさまは全人類の中のひとりであるわたしを愛しておられるのではないのです。それだけなら、どこまでいっても、イエスさまの愛は他人事で、わたしとイエスさまの関わりは漠然としたままです。
イエスさまが全人類を愛しておられるということは、このわたしひとりを愛しておられ、わたしとの出会い、わたしの愛に飢え渇いておられるということなのです。イエスさまは、わたしたち一人ひとりの名を呼んで、「あなたに渇いている」といわれているのです。100人の中のひとりではないのです。教会の祈りはすべて「わたしたち」になっていて、わたしたちは教会共同体として救いに呼ばれているというのは確かにそうなのですが、イエスさまの愛は本質的にはわたしひとりのためであるということなのです。歎異抄の中に「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり」ということばがありますが、これは決して、神仏の救いをわたしひとりが独占しようという独善的なものではなくて、この「わたし」というものの実体は、結局は自分のことしか考えられない、自分のことで精一杯で、人のこと、まして共同体のことなど考えることもできないような、自分だけが救われればいいと思っているような「わたし」であるという意味なのです。わたしが元気なときは、いくらでもそういう綺麗事をいうこともできるでしょう。しかし、いざ自分のいのちが取るか取られるかというとき、わたしたちはさあどうぞとはいえないのが正直なところでしょう。結局はわたしが一番なのです。そのようなどうしようもない、度し難い、絶対に救われないわたしをどのようにすれば、真の救いへと導き、目覚めさせることができるのかというイエスさまの願い、それがイエスさまの魂の渇きなのです。だから、このわたしが愛されているというなら、それは人類の最後のひとりであるわたしが愛されていることなのです。ですから全人類が愛されているとは、そのようなイエスさまのこのわたしへの渇きなのだということなのです。
わたしひとりというのは、全人類のひとり、社会の中に生きているひとり、共同体の中のひとりという意味ではないのです。その他大勢の中のひとりではないのです。まさに、イエスさまの前に立っている、宇宙の中で絶対のひとりであるわたしのことなのです。わたしは、この広い宇宙の中で一人ぼっちなのです。それが、あのサマリア人の女だったのです。だからイエスさまは、その女性と会わなければならないといわれるのです。このサマリア人は、この世界のすべてから見捨てられたものでした。わたしたちも徹底的に自分を見つめていくと、わたしたちは一人ぼっちです。そのわたしにイエスさまは出会わなければならないといわれ、わたしとの出会いに飢え渇いておられた、わたしを愛することに渇き、わたしの愛に渇いておられるのです。こんなイエスさまの渇きに気づかされたなら、わたしたちはもう他のものは何もいらなくなります。なぜなら、その人は、自分の中にある内なる泉を見つけ、その泉はこんこんと永遠のいのちに至る水を湧き出でさせるからです。その泉がイエスさまなのです。その泉が、今わたしの中で湧き出でているのです。わたしが何かをしてもしなくても、その泉はわたしの中でただ湧き出でて、その水は周りにひとりでに広がっていくのです。わたしたちは、この内なる泉はどこかに探しにいかなくてもいいのです。わたしの中にこの泉は湧き出でて、おのずから周りに広がっていくのです。
わたしが神学校に入ったとき、自分の救いだけを考えていてはいけないといわれました。わたしは正直何のことをいっているのかわかりませんでした。わたしは自分だけの救いなど考えもしませんでした。ただイエスさまと出会ったことを分かち合いたいと思っただけでした。そんなことをいわなければならない当時の教会がおかしかったのであり、祈りもイエスさまとの個人的は関わりもいらないといわれました。教会ではその後遺症が今でも続いており、教会の中で間違った共同体、仲間意識を作り出してしまっています。共同体をつくるということは、共同体に入る人と入らない人をつくることであり、仲間をつくるということは仲間外れをつくることです。イエスさまはそうした内と外という境界線を破壊されたのではなかったでしょうか。今日、改めてイエスさまへ、内なる源泉へと目を向けてみたいと思います。
