四旬節第5主日 勧めのことば
2026年03月22日 - サイト管理者四旬節第5主日 福音朗読 ヨハネ11章3~45節
<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗
今日はラザロの復活といわれる箇所です。ここでは、人間、誰もが避けることができない生死の問題を取り上げています。この世界の生物の中で、人間だけが宗教をもち、古今東西の宗教が等しく取り上げてきた根本的な問題は生死です。カトリック教会では永遠のいのちということで、それは死後始まる終わることのないいのちとし、地上のいのちと別のものと考えられています。それで永遠のいのちというと、死ななくなるような不老不死のいのちを想像しているのかもしれません。しかし、イエスさまが取り上げられたのは、死ななくなるいのちのことではなくて、人間の生死そのものを取り上げられたのです。ラザロは病気で亡くなり、イエスさまによって復活させらせられました。しかし、これはいわゆる蘇生のことです。その後、ラザロを死なない体、不老不死にされたのでもありません。その後、ラザロもいつか死ぬわけです。ですから、永遠のいのちは生命体として歳を取ることも、病むことも、死ぬこともないいのちのことでもなく、またマルタがいうような「終わりの日の復活のときに復活する」いのちを指しているのでもないのです。永遠のいのちを死後のいのちであると考えたり、もはや死ぬことも終わることもないいのちであると考えたりすることは、あまりにも人間的な発想ではないでしょうか。それは天国のために宝を積みなさい的な神さまと駆け引きをする人間的な捉え方であって、永遠のいのち、救いをそのように考えること自体イエスさまの思いから離れています。イエスさまを信じ永遠のいのちを得るということは、自分が死ななくなることでも、死んで天国で永遠のいのちがご褒美のように与えられることでもありません。宗教は人が死ななくなる、病気をしなくなる、歳をとらなくなるものではありません。もし、そのようなことを説く宗教があれば、それは似非宗教だといえるでしょう。イエスさまはわたしたちを、生命体として死ななくされるわけではないのです。また、死後のいのちについて何かを教えられたわけでもありません。
2019年から始まったコロナ禍のとき、15世紀の蓮如上人の疫癘(えきれい)の御文というのがよく取り上げられました。「当時このごろ、ことのほかに疫癘とてひと死去す。これはさらに疫癘によりて初めて死すにはあらず。生まれはじめしよりして定まれる定業なり。さのみふかくおどろくまじきことなり。しかれども、いまの時分にあたりて死去するときは、さもありぬべきようにみなひとおもえり。これまことに道理ぞかし云々」とあります。最近、疫病がはやって、疫病で人が死ぬといっているが、人が死ぬのは疫病で死ぬのではない。死ぬのは人が生まれたからであって、改めて驚くようなことではないといっています。それなのに、近頃は人が死ぬということを疫病のせいだと取沙汰しているのはおかしなことだといっているのです。わたしたちも、自分が元気なときは、自分は決して死なないように思って生活しています。しかし、ひとたび癌であると宣告されたら、死んだらどうしようといって騒ぎ始めます。人間、生まれたということは必ず死ぬということなのです。人は癌で死ぬのではあません。もし死にたくないのであれば生まれなければいいのです。生まれることと死ぬことを反対のこととして捉えていますが、生まれるということと死ぬことは別のことではないのです。ひとつの現実の表と裏のようなものなのです。わたしたちは、この生死から一歩も出ることができないというのが人間の定められた業なのです。
わたしたちは生と死というものの本来の姿を、さまざまな出来事に出会うときに強烈に見せつかられます。わたしたちは、平生は自分のいのちを自分で管理できるように思っています。けれども、それは人間の願望であり幻想にすぎません。実際は容赦ない過酷な現実が起こってくるわけですが、それは何の祟りでも罰でもありません。死とか病気とかいうのは、人が生きるにあたって当たり前のことが起こっているだけなのです。それがわたしたちのいのちのあるがままの姿なのです。生まれてくることも死ぬことも、わたしの力を超えており自然にそうなのです。生死だけではなく、わたしの人生の一瞬一瞬も自然のまま、ありのままであって、わたしの力でないものによって営まれているのではないでしょうか。わたしがわたしのいのちをつかんでいるように見えますが、それはわたしの手のうちにあるのではないのです。その当たり前のことが分からず、生死の中で右往左往しているのがこのわたしなのです。わたしのいのちはもっと大きないのちのはからいの中にあって、人生の万事はわたしの自由にはならないのです。しかもその大きないのちのはからいの中でしか物事は何ひとつ起こらないわけですから、そこには本来大きな安心と自由があるはずです。わたしがどのような生き方をしようと、どれほど酷いみじめな死に方をしようとも、すべて大きないのちのはからいの中にあるのです。イエスさまは畳の上で死ねないような死に方をしてくださいました。日本的にいえばよっぽど業が深いということになります。わたしの生も死も、イエスさまのみ手の中にあるのです。そのことをイエスさまは「わたしは復活であり、いのちである。わたしを信じるものは、死んでも生きる。生きていてわたしを信じるものはだれも、決して死ぬことがない」といわれたのです。
わたしはすべて大きないのちのみ手の中にあるのですから、自分でくよくよすることなど何もないのです。自分の責任だといって自分を責める必要もない。そうかといって自分の手柄だといってうぬぼれることもない。大きないのちにまかせると、虚栄心も卑下するこころもなくなります。反省したり、うぬぼれたりする必要がないわけです。反省したり、うぬぼれたりしても構いませんが、そのようなことによってこの世界はなにもよくならないのです。世界の根底には、人間の力を超えた力が働いています。その力、働きによってわたしはわたしなのです。その大いなるいのちの働きなしには、わたしは生きることも死ぬこともできない、その大きないのちに自分をまかせることしかできないのを知る、それが真の信仰なのです。死んで天国に行くとか、死後に清めがあるとか、死後の問題を引き合いに出して、それをこの地上の自分の力で何とかしようと思っているならただの愚かものでしかありません。
京都女子大の創立者の九条武子の歌に「いだかれてありとも知らずおろかにもわれ反抗す大いなるみ手に」というのがあります。永遠のいのちとは、この大いなるいのちのわたしへのはからいと働きを知ること、そのものなのです。「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです(ヨハネ17:17)」といわれているとおりです。永遠のいのちは死後のいのちであるとか、わたしの生き方でどうこうなるものではありません。イエスさまの神の国とは、この大いなるいのちの働きのことなのです。それなのに、わたしたちはこの地上の人間の些末な考え方に囚われているのです。そのわたしたちにイエスさまはいわれるのです。「ほどいってやって、いかせなさい」と。つまり、わたしたち人間を生死の囚われから解放しなさい、そして、大いなるいのちにまかせなさいといわれているのです。この真実を知ること、これこそが真の信仰なのです。
