受難の主日 勧めのことば
2026年03月29日 - サイト管理者受難の主日 福音朗読 マタイ21章1~11節
<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗
今日はイエスさまのエルサレム入城が記念されます。イエスさまがどうして、エルサレムへ行こうとされたのかを考えてみたいと思います。イエスさまはガリラヤでの宣教活動に終止符を打って、エルサレムに向かわれました。エルサレムへの入城はイエスさまの凱旋のように描かれていますが、事実はそうではありません。イエスさまの旅は、挫折の連続でした。ガリラヤでの宣教活動がうまくいっていると思われた時期もありましたが、それは最初の頃だけです。人々は貧しさに喘ぎ、日々の生活は困窮を極めていました。その人々の苦しみを見て、イエスさまは人々に寄り添い、飢えた民衆にはパンを与え、病に苦しむ人々を癒していかれました。しかし、イエスさまの神の国の福音は、人々に伝わるということはなかったのです。人々がイエスさまに求めたのは、その日一日の食べ物と病からの癒し、苦しみからの解放でした。苦しむ人々にどんなに崇高な神の愛を説いても、神の国の福音を告げ知らせても、そんなものは単なる理想、綺麗ごとでしかなかったのです。では、どのようにすればこの人々が救われ安寧がもたらされるのでしょうか。イエスさまは人々に寄り添いながら、必死に祈り考えられたのだと思います。それこそ、宇宙開闢以来の神さまの悲願であったと思います。この人類の苦しみの歴史にイエスさまはずっと向き合ってこられたのです。
ユダヤ教の厳格な律法を守ることで救われる人は、それでいいかも知れません。難しい律法の解釈や研究のできる人はそれでいいでしょう。しかし民衆のほとんどは、難しくて厳格な律法など守ることができない人たちでした。それでは、律法や掟を守ることができない人たちは、どのようにしたらいいのでしょうか。救いを求めて群がる人々に、イエスさまは自分の出来るすべてのことをしていかれたのだと思います。しかしイエスさまが感じられたことは、やってもやっても決して終わることがない無力感であったのではないでしょうか。どこまでやっても、全人類の最後の一人まで残らず救われるには終わりがない、何もできないことをおそらく痛感されたのではないでしょうか。イエスさまご自身、自分が救い主として、人々を救う側にいて、人々を救っていくというご自身のあり方そのものがわからなくなられたのではないでしょうか。これこそ、イエスさまの最大の試練、挫折だったのではないでしょうか。そこで、イエスさまが選ばれた道は、エルサレムへ向かうということであったように思います。イエスさまは救い主として、自分が救う側ではなく、救い主としての身分を捨てて、救われなければならない人間の身にご自身を置かれたということではないかと思います。イエスさまは救う側ではなく、救われない側に、救われ難きわたしたちと同じものとして、ご自身の身を置くという大きな決断、転換がなされた出来事、それがエルサレムに向かうこと、エルサレムの入城ということだったように思われます。
今日の詠唱にあるように「キリストは人間の姿であらわれ、死にいたるまで、しかも十字架の死にいたるまで、自分を低くして、従うものとなった」、つまり、イエスさまはわたしたち人間と同じものとなられた、イエスさまはわたしになられたのです。人間として病み、老い、苦しむ、死ぬものとなられたのです。しかも人間としてもっとも惨めで酷い、呪われた最低の十字架という死に方をされたのです。わたしの人生の綺麗な部分だけではなく、わたしのどす黒い闇、罪、すべてと一致されたのです。イエスさまは決して偉大な救い主としてわたしたちを救ってくださる方ではなく、わたしとなって生き、悩み、苦しみ、老い、病み、死ぬものとなられ、この世界の最後の一人が救われるときまで、わたしとなって歩み続けられる、これこそがわたしたちのイエスさまなのです。
イエスさまの中で救いというものの意味が根底からひっくり返ったといってもいいかもしれません。栄光のキリストではなくて、十字架へと歩むキリストとなられたのです。こうして、イエスさまはわたしたちとともに歩み、苦しみ続け、決して休むことなく働き続ける愛の働きとなろうとされたのです。これが、エルサレムに向かおうとされたこと、エルサレム入城の意味であり、十字架に向かっていこうとされたイエスさまの思いではないでしょうか。このイエスさまの願いが成就され永遠のものとなった、これがイエスさまの復活であるといえばいいのではないかと思います。そして、このイエスさまの願いがわたしたちに届けられること、それが救いといわれるのではないでしょうか。
