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教会からのお知らせ

主の晩さんの夕べのミサ 勧めのことば

2026年04月02日 - サイト管理者

主の晩さんの夕べのミサ 福音朗読 ヨハネ13章1~15節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

小学生のとき、お寺の日曜学校で聞いた話です。ある国に慈悲深い王子がいて、ある日、森で飢えて動けない母虎と子虎に会いました。王子は母虎に自分の体を食べさせて、母虎が子虎たちにお乳をやれるようにと決心します。しかし、王子が目の前に体を差し出しても食べる元気もありません。そこで王子は自分の血を母虎になめさせようとして、崖の上から飛び降ります。やっとその血をなめた母虎は気力を取り戻して、王子の体を食べて子虎にお乳をやることができました。そして、この王子は生まれ変わって釈迦となって悟りをひらくという話です。それが法隆寺の宝物の玉虫厨子の側面に描かれている「捨身飼虎(しゃしんしこ)」というお釈迦さまの前世譚の物語です。小学生のわたしは、そのまことの真実を語るその話に心動かされないではいられませんでした。現代であれば、そんなことをすれば、血の味を覚えた虎がまた人を襲うのではないかとか、いろいろな反論があると思いますが、これこそがまことの真実を明らかにするための話であったのです。

今日、わたしたちが祝うイエスさまの最後の晩さんの聖体の制定は、この話そのものです。これ以上、何かを説明する必要があるでしょうか。虎を養うために崖から身を投げるという行為は、イエスさまの十字架そのものであるといえるでしょう。宇宙開微以来、すべての生物は食物連鎖によっていのちを繋いできました。その食物連鎖は「弱肉強食」という姿をとっているように捉え、その食物連鎖の頂点にいるのが人間であるかのように考えられていました。弱肉強食は強者が弱者を食べるということです。それでは、誰がそのように考えてきたかというと、それがユダヤ教であり、キリスト教なのです。今のほとんどの世界の価値観は何によって形作られたかというと、それはキリスト教なのです。キリスト教徒が世界中の多くの民族を植民地化し、キリスト教を広めてきました。ですから当然、キリスト教が根底にもっている世界観、食物連鎖=弱肉強食という価値観を広めてしまい、人間の世界も当然「弱肉強食」の競争社会となり、食うか食われるかの世界になってしまっているのです。自分が他の誰かの何かを奪って生きていかない限り、生きていけないと錯覚しているのが現代社会なのです。しかし、これらは人間の思い込みで、その仮想現実に支配されているのがわたしたち現代人なのです。強くならないと相手から攻撃される、だから強くならないといけない、これが現代の国家なのです。ですからこれらが競争、貧困、飢餓、戦争等という姿をとって現れてくるのは、ある意味では当たり前なのです。

仏教では王子のいのちも、虎のいのちも、草木のいのちに区別をつけません。だからいのちに、上等も下等もありません。王子はそのことがわかっていて、常日頃、自分はほかのいのちによって養ってもらっている、だから飢えで死にそうな虎の親子と出会って、この度は自分の身を捨てて、虎を養おうとされるということなのです。この価値観は日本人には当たり前で、わたしたちは食事のとき「いただきます」といっていただくいのちへの感謝をあらわし、食後には「ごちそうさまでした」といっていただいたいのちに感謝をあらわします。わたしたちは皆、他のいのちによってわたしが養われていること、生かされていることを知っているのです。そのことがわからないで、いのちを奪って食べて当たり前だと思っていたユダヤ人たちに対して、イエスさまはいのち本来の姿を示されたのです。ですから主の晩餐とはいのちへの感謝を知らないユダヤ人やキリスト教徒のための儀式なのです。しかしこれほど「弱肉強食」の価値観がキリスト教の伝播とともに広がり、人間が食物連鎖の頂点にいるのが当たり前だと錯覚している愚かな現代人にとって、感謝の祭儀はいのちの尊さを指し示す秘跡となっているのです。

最後の晩餐は、この弱肉強食の世界を出離したところにいのちの真理があることを描いています。しかしながら人間である限り、もはやこの弱肉強食の世界から出離することはできなくなっており、わたしたち現代人はこの間違った価値観、錯覚、幻想に支配されているのです。ですからイエスさまは人間となり人間の食糧となって、わたしたちに食べられる弱いものとなって、人間の愚かさに気づかせ、わたしたちはひとり残らずほかのいのちによって生かされているという真実に目覚めてくれよとのお呼びかけなのです。それが、今日祝う主の晩さんの意味です。そこまでしなければ、ユダヤ人にはわからなかったということでしょう。これが聖金曜日の主の受難です。そして生きとし生けるものを生かすために、つまりわたしたち人間を最後のひとりまで残らず救い取るために、イエスさまはその業を永遠に続けられる愛の働きとなって、わたしたちのために永遠に働き続けておられること、これが主の復活の意味なのです。この愛の働きは決して終わることがありません。イエスさまの「捨身飼虎」の行が決して終わることがない、永遠の修行なのです。

イエスさまご自身が迷いの衆生の身となって、つまりイエスさまはわたしとなってともに迷い、わたしたち衆生にその身を分かち合いながら、ひとり残らず衆生が皆救われるときまで、その行を続けられておられる、これこそが聖なる過越しの3日間の意味なのです。ですから、聖なる過越しの3日間は夫々別のことを祝っているのではなく、イエスさまの愛の働きを3つの側面から記念しているなのです。それがイエスさまの受難、死、復活です。ひとつ目はわたしたちとなってわたしたちの身をご自身の身で養うということ、ふたつ目はそのためにご自身の身を投げ出すということ、3つ目はそのイエスさまの業は永遠に続くということです。イエスさまはこの3つの出来事を通して、わたしたちにいのちの真実を明らかにしてくださったのです。

こうしてイエスさまはいのちの本来の姿を示されました。わたしは通常はほかのいのちによって生かされていることを忘れてしまいます。そして自分のいのちを保つことばかりに躍起となっています。しかし、わたしたちが他のいのちによって生かされていることに気づいたら、そこに感謝が生まれ、今度はわたしたちのいのちを他のいのちを養うものに使うということになっていきます。これをわたしたち使命といいます。文字通り、いのちを使うと書くのです。植物、動物は非常に短い生命のスパンでそれを生きて、いのちを与え分ち合っています。親は子孫にいのちを受け渡したら死ぬのです。そして親は子の中にいのちとなって生き続けます。人間だけが寿命が延びて、その機会を失い、生きることに執着していきます。しかし、イエスさまが示されたいのちの真実は、生きるということは死ぬことだ、そして死ぬということは他を生かすことだということ、このいのちの本来の姿に立ち返れといわれるのです。そのことを忘れている人間は餓鬼畜生にも劣るということなのです。イエスさまの教えは、難しい教えではないのです。いのちの教えというか、いのちの本来の姿に立ち戻ることです。これが最後の晩餐、ミサなのです。

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