復活の主日 勧めのことば
2026年04月05日 - サイト管理者復活の主日 福音朗読 ヨハネ20章1~9節
<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗
今日、わたしたちはイエスさまの復活をお祝いします。しかし、今日読まれた福音の中に、イエスさまの復活が何であるかは何も書かれていません。イエスさまが十字架の上で亡くなり、その後、遺体を納めた墓が空であったということだけが書かれているだけです。多くの人は、イエスさまの復活をそのことば通り、「死んで生きかえる神」であるかのように考えています。よく、墓から包帯を解きながら出てくるイエスさまのご絵があり、そんなイメージをもっているのではないでしょうか。そんな話なら、世界中のいろんな神話のなかに死と再生というテーマで出てきます。また、わたしたちが日曜日毎に唱える、「ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられて死に、葬られ、陰府に下り、三日目の死者のうちから復活し、天に昇って、全能の父である神の右の座に着き…」という信条は、前半は歴史的史実をいっていますが、後半は教会の教義であり、イエスさまの復活自体が何であるかについて何も語ってはいません。これでは、イエスさまの復活が何であるかは分かりません。イエスさまの復活は、単に死者が生きかえったという話ではありません。イエスさまの歩まれた道、その生涯、そして、その最期の受難・死・復活という出来事を通して、それに関わった弟子たちの人生の中にイエスさまが入ってこられ、そして、今も関わり続けておられるということだといったらいいかもしれません。これが弟子たちの復活体験です。
わたしたちの人生は生老病死であり、生きることの中に大きな苦しみを抱えています。特に老病死は大きな苦しみです。イエスさまはそのようなわたしたちの中に、何があるのかをよく知っておらます。イエスさまは、わたしのこころの動きをすべてご存じなのです。わたしのこころの痛み、悲しみ、苦しみ、試練、失敗、そしてわたしの罪もすべて知っておられます。なぜなら、イエスさまご自身が人間となって、人間であることをすべて生き切られたからです。そのイエスさまは生きておられたとき「空の鳥、野の花をみなさい」と教えられました。つむぎもしないし、労苦もしない、でも神さまはその鳥を養っておられ、野の花を装わせておられる。それなのにあなたがたは何を思い煩うのかといわれました。イエスさまはわたしたちが、何かであるからとか、何かでないからではなく、そのままのわたしを愛しておられるのです。もう一度、いいましょう。イエスさまはわたしがわたしであるから、イエスさまはわたしを愛しておられるのです。人類はそのことを忘れ、分別とエゴイズム、罪でその魂の記憶と美しさを曇らせてしまいました。そしてこころを閉ざし、自分の中に閉じこもってしまったのです。
そのわたしが願っていることは、自分のことを認めてほしい、愛してほしい、わかってほしい、大事にしてほしい、自分を呼んでほしい、それがわたしたちが根本的に願っていることではないでしょうか。誰からも認められず、愛されず、大切にされず、理解されず、呼ばれることもない、これほどわたしたちにとって苦しいこがあるでしょうか。どれだけのお金があって、地位があって、名声があっても、決してわたしたちは満たされることはありません。それなのにわたしたちは、イエスさま以外のものでどれほど自分を満たそうとしたことでしょう。他の人と自分を比べ優れていると優越感に浸り、自分はダメだといって劣等感に沈み、過ぎゆくもので自分を満たし、自分の内にある空虚を満たそうと躍起になってきたことでしょう。わたしは自分のことを認めてほしい、愛してほしい、わかってほしい、大事にしてほしい、自分を呼んでほしい、わたしは自分が認められ大事にされることに飢え渇いているのです。イエスさまは、そのわたしたちの渇きを癒すために、わたしたちの願いに応えるために、わたしと同じ人間のひとりとなられ、わたしとひとつになって十字架に架かり、死ぬほどまで、わたしを愛し尽くしてくださったのです。こうして、わたしの願いとイエスさまの願いがひとつになるまでにいのちを与え尽くしてくださったのです。そして、それが今もわたしのなかで続いているのです。イエスさまは、わたしの人生とひとつになられたのです。これがイエスさまの復活の意味でしょう。
「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書のことばを、二人はまだ理解していなかったのである」といわれます。イエスさまは復活し、すでにわたしたちとひとつとなって、わたしを大いなる光で包んでくださっています。わたしの生も死もすべて呑み込まれています。だからもはやわたしの生も死もないのと同じです。わたしたちはただ生命体としては生と死を迎えます。しかしそれはわたしのいのちの一部で起こっていることに過ぎません。「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であられたあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです(ヨハネ17:17)」といわれる通り、わたしたちが復活されたイエスさまと出会うことが永遠のいのちなのです。永遠のいのちとは死後のいのちであるとか、どこかよそにあるいのちではありません。イエスさまを知らせていただいたこと、イエスさまが復活し、世の終わりまでわたしたちとともおられることを知らせていただいたこと、そのことが永遠のいのちなのです。まさに、今、わたしたちが生かされていることそのものが永遠のいのちなのです。
わたしたちがそのことに気づけないのは、わたしたちのエゴイズムやわたしたちの頑なさの結果であり、それこそわたしたちの罪であるといったらいいでしょう。しかしイエスさまは復活し、わたしたちの罪の闇を打ち破り、わたしを光で包んでくださいました。ある意味で、わたしたち人間の闇がそれほど深いともいえますし、イエスさまの光があまりにも強くてその光の中にあることにさえ気づけないのかもしれません。大切なことは、わたしが何であって、何でなくても、イエスさまはわたしを探し求め、わたしとともにおられ、わたしの愛に渇いておられるということです。十字架上で「渇く」といわれたように、イエスさまはわたしたちがイエスさまの愛に応えることに渇いておられるのです。イエスさまの愛に応えるということは、イエスさまに愛されたままになることに他なりません。わたしたちがどれだけイエスさまから離れようとも、遠く彷徨うとも、イエスさまの愛は永遠に変わることなく、わたしについてきて離れることはありません。これが永遠のいのちなのです。そして、このイエスさまの愛を受け入れることがわたしの復活体験であり、復活されたイエスさまと出会うことなのです。
