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教会からのお知らせ

復活節第3主日 勧めのことば

2026年04月19日 - サイト管理者

復活節第3主日 福音朗読 ルカ24章13~35節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日はエマオへ向かう弟子たちに復活したイエスさまが現れたという物語です。これは、当時の初代教会の中で、復活されたイエスさまと出会う場は何処であるかということが問題にされています。当時の人々は、聖書のみことば、感謝の祭儀、分かち合いの中で、復活されたイエスさまと出会うことができると考えました。それが今日の聖書の物語の中で、イエスさまによる聖書の解き明かし、エマオでの会食、3人の分かち合いとして描かれています。これは、現代においても通用することで、わたしたちが聖書を読み、その解き明かしを聞くとき、感謝の祭儀を祝うとき、わたしたちが分かち合うとき、その中にイエスさまがおられます。この3つの場は、復活されたイエスさまと出会うことができる場として教会が大切にしてきたものです。しかし、この場があれば、自動的に復活されたイエスさまと出会えるのかというとそうではありません。イエスさまとの出会いは自動的ではないからです。ですから、聖書を一生懸命勉強して聖書の知識を身につけるとか神学をやるとか、欠かさずにミサをおこなうとかミサに与るとか、分かち合いすることで、自動的にイエスさまと出会い、こころが燃え上がり、信仰が深まるかというとそれは少し短絡的すぎます。それにこころが燃え上がるというのはあくまでも、わたしのこころの状態の問題であって、こころが燃え上がるということがイエスさまと出会っているという証拠にはなりません。

わたしたちは、とかくすると信仰をわたしのこころの問題として捉えがちです。しかし、わたしのこころはひとときもじっとしていません。あるときは燃え上がり、あるときは意気消沈し、あるときは何ともないというのがわたしたちのこころです。わたしのこころは絶えず疑いと信仰の間で揺れ動き、それが定まるということはなく、またその思いが持続することもありません。そのようなわたしのこころの中に、イエスさまとの出会いの証拠や確証などあるはずありません。それなのに、わたしたちはこのようなわたしのこころのどこかに、イエスさまとの出会いや救いの証拠、確証を見出そうと躍起になります。また、ある人たちは自分のこころを整えていくことで、イエスさまとの出会いが叶うと主張します。教会が大切にしてきた3つの場を実践し、自分がイエスさまとの出会いに相応しいものになることが大切で、そのようなわたしにイエスさまは当然会いに来てくださるのだと考えます。そのように考えるのは、もっともなことだと思います。しかし、そうではないのです。イエスさまとの出会いは、わたしのこころの問題ではありません。信仰もわたしのこころのもち方でもありません。会いに来てくださるのは、イエスさまなのです。わたしたちが何かができるわけではないのです。その訪れはいつも前触れなく突然で、わたしのこころの状況など関係ないのです。

今日の物語で、2人の弟子はイエスさまと出会うために相応しいこころの準備をしていたでしょうか。むしろ2人は、イエスさまの十字架に絶望してエルサレムから逃げていく途上だったのではないでしょうか。彼らは自分たちに追手が及ぶのを恐れて、イエスさまのことなどそっちのけで逃げ出してきたのではないでしょうか。彼らのこころはイエスさまを受け入れるような殊勝なものは、ひとかけらもなかったのです。さっさとエルサレムをあとにして、イエスさまを見限って、自分たちの新しい生活を探していたのです。結局は自分のことしか考えていない弟子たちであり、わたしたちもそうでしょう。その弟子たちに「イエスご自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた」とあります。しかし二人の目は遮られていて、イエスさまだとはわかりません。イエスさまが一緒に歩いてくださっていても、彼らはそのことがわからなかったのです。彼らの目は遮られていました。イエスさまは彼らを咎めるのではなく、弟子たちに近づき、旅の道連れとなって歩いておられたということなのです。

彼らの目が開かれて、イエスさまであることに気づいたとき、イエスさまは見えなくなってしまいました。その気づきのきっかけになったのが、上で述べられた3つの場でした。しかし、それはきっかけであって、イエスさまを指し示すものであるとしても、イエスさまそのものではありません。多くの人は、イエスさまと出会ったきっかけにしがみつきます。そして、そのきっかけがイエスさまであるかのように錯覚するのです。そして、イエスさまと出会ったという自分の体験をこころ中に握りしめようとします。確かに何かのきっかけでわたしのこころが動かされた、“こころが燃えた”かもしれません。しかし、わたしのこころの記憶はイエスさまではないのです。また、その体験がイエスさまでもありません。わたしたちはいつも勘違いしてしまいます。ちっぽけなわたしの体験やわたしのこころの中にイエスさまを繋ぎとめておくことなどできないのです。イエスさまだと気づいた瞬間、風のように通り過ぎてしまわれます。

わたしたちは、イエスさまであると気づかせていただくと、そのことをわたしのこころで握りしめ、またその気づきを絶対化していこうとしまいます。しかし、わたしのこころでイエスさまを握りしめようとしても、その体験は長続きしません。やがて、その体験は薄れていき、わたしたちは疑いの淵へと沈んでいきます。いっとき雲が晴れたように思いますが、しばらくすると今までと何も変わらないわたしを発見するのです。わたしがイエスさまのことを感じられたとか、わかったとか、納得したとかではないのです。それならどこまでいってもわたしのこころのもち方の問題で終わってしまいます。そうではなく、大切なことは、自分に拘り続け、自分のこころの中に信仰の確証を探し求めて、信仰と疑いの間をいったり来たりし、迷いの淵に沈んでいる、そのわたしとともにイエスさまは歩み続けておられたということなのです。主語はいつもイエスさまなのです。わたしではありません。イエスさまがしておられるのです。このような愚かなわたしとともに“イエスさまが”歩んでおられたのだ、そのことへの驚き、その感動、そのイエスさまの働きが真実、まことの信仰なのです。そして、その感動が、驚きがわたしを動かし、生かすのです。

イエスさまは、教会が大切にしてきた3つの出会いの場を通して、またそのようなもの関係なく、わたしたちの人生のすべての出来事を通して、また生きとし生けるすべてのものを通して、わたしが考えられるうることをはるかに超えた方法で、過去そうであったように、今、イエスさまはわたしに絶え間なく働きかけてくださっているのです。わたしがイエスさまを求める前に、イエスさまはすでにわたしとともにおられた、歩んでくださっているというその驚き、その感動がわたしたちを前進させるのです。今日はそのことを味わってみましょう。

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