復活節第4主日 勧めのことば
2026年04月26日 - サイト管理者復活節第4主日 福音朗読 ヨハネ10章1~10節
<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗
今日はよき牧者の主日といわれ、羊飼いと羊のたとえを通して、知るということの意味が語られます。今日はこの知るということがどういうことかを考えてみたいと思います。
今日の社会の動きを見ていると、知るということは、単に情報を手に入れることだと捉えているように思われます。今、AI(人工知能)を使ってできることが飛躍的に広がっています。今日の福音のたとえにあてはめるのであれば、羊飼いが羊についてのあらゆる情報を把握し、それをもとに飼育するということになります。確かにAIは、羊のそれぞれの状況や健康状態など、あらゆる情報を把握することはできるでしょう。そして、羊飼いとして羊に対する最適な対応をプログラムし、羊を管理していくことも可能でしょう。実際、人間の食品となる動植物の分野では、そのような人工栽培、飼育がすでにおこなわれています。そうなると、人間の羊飼いなどいずれ必要なくなるのかもしれません。
今日の箇所で問題になっているのは、この“知る”ということの意味です。羊飼いは羊を知り、羊も羊飼いを知っているといわれるときの知るとは、一体どういうことなのかということです。この箇所を、司祭と信徒の関係にたとえる人がいますが、それは本質的に違うように思います。そもそも、自分は羊飼いで、信徒は羊だという発想自体、どこか上から目線を感じます。イエスさまがいわれたのは、そのように管理するものと管理されるものの関わりではなく、イエスさまとわたしたちの真実の関わりです。イエスさまがあなたがたを知っているといわれたとき、それは、わたしたち一人ひとりの情報を知っているという意味ではありません。もちろん、イエスさまはわたしのすべてをご存じです。しかし、わたしたちは情報ではありません。教会は毎年、教勢調査といって、教区内の教会の信徒の数、洗礼、初聖体、結婚、死亡数等をまとめローマに報告します。しかし、旧約聖書には、ダビデが人口調査をおこなったことで神さまの怒りを招いたという出来事が描かれています(歴代誌上21章)。カトリック教会はそのことを忘れてしまっているのでしょうか。イエスさまはわたしたちを100名の中のひとり、統計上のひとりとして知っておられるのではありません。イエスさまはわたしを、“いのち”として知っておられるのです。いのちには温かみがあります。イエスさまの知り方は、このいのちの温かみがある知り方なのです。
親が子どもを知っているというときそれは理屈や情報による知ではなく、肌と肌が触れ合うような、温かみのある知り方なのです。それは、子どもについての情報を知っているということではなく、同じいのちをともに生きているところから生まれてくる知り方です。イエスさまがわたしを知っておられるということ、またわたしがイエスさまを知っているというのも、このような知り方であるといえるでしょう。それは、聖書をたくさん知っているとか、カトリック教会の教えを詳しく知っているとかということではありません。イエスさまとわたしの知るという関係は、同じいのちが触れ合うような関係です。それをわたしたちは祈り、イエスさまとの交わり、イエスさまとの親しさというふうに呼んでいます。単にミサに参加することや、聖書を読むこと、決まった祈りを唱えることだけではありません。もちろん、それらが大切で助けになることは確かです。しかし、イエスさまとの関わりは生き生きとした、いのちの交わりです。同じいのちを生きているからこそ、相手が苦しんでいれば自分も苦しくなるし、相手が痛んでいれば自分も痛くなる。相手がうれしければ自分もうれしくなる。隣人を愛することが掟であるから、教会の教えであるから、相手を愛するのではないのです。イエスさまがそう教えられたから、という理由でさえありません。いのちが触れ合うとき、こころが自然に動き出すということなのです。今の教会を見ていると、弱い立場の人、貧しい人々と連帯しなければいけないからとスローガンを掲げていろいろやっていますが、どこか形だけのポーズように見えてしまうことがあります。
はちみつをまったく知らない人に、はちみつについてその成分や構成、色や形状を説明することはできるでしょう。しかし、はちみつは実際になめてみなければ、本当の意味ではわかりません。はちみつをなめたことのない人がはちみつについて説明するのと、はちみつをなめたことのある人が説明するのでは、何かが違ってきます。難しい成分や構成を詳しく知らなくても、はちみつを実際なめたことがある人が、一度もなめたことがなくていろいろな情報を知っている人が説明するのとで違ってくるのです。科学的な情報はないかもしれませんが、はちみつを知っていますから、その説明、証しには当然力があります。イエスさまについてたくさんの情報や神学的知識をもっていても、イエスさまを体験したことがなければ、イエスさまは人には伝わっていきません。イエスさまの情報を知りたいのであれば、現代ならAIに聞いたほうがよっぽど正確でしょう。イエスさまを体験するということは、わたしたち自身がはちみつをなめるということなのです。キリスト教がそのように広まってきました。
では、どうしたらはちみつをなめられるのかといわれると難しいのですが、それはあたかも海の中にいながら、海を体験するようなものだいえるかもしれません。海にいる小さな魚が歳をとった魚に、どうしたら海を見つけことができるのかと尋ねることと似ています。歳をとった魚は「海とは、今お前が泳いでいる水なんだよ」というと、小さい魚は「これが海?ただの水じゃないか」といって、小さい魚は海を探し続けるのです。イエスさまを体験するということは、今、自分が生きていることそのものが、すでにイエスさまの現実なのだということに気づくことであるといえるでしょう。わたしたちが探し求めているイエスさまは、今、ここで生きている「わたしのいのち」そのものなのです。ですから、わたしが頑張って海の中に入っていく必要はありません。たとえわたしが飛び込んでいく勇気もなく、入っていく気力さえないほど弱っているとしても、わたしたちはすでにイエスさまという大きな海に飲み込まれているのです。イエスさまという大きな海の中に、わたしたちはすでに受け入れられているのだということなのです。これは、わたしが何もしなくてもいいということではありません。出発点は常にわたしではなく、イエスさまなのです。できる人は頑張ってもいいでしょう。しかし、それが宗教そのものではありません。人間ができることですべてを推し量ろうとするのであれば、宗教もイエスさまも必要なくなってしまうでしょう。
真の宗教は、それこそわたしが入っていくのではなくて、イエスさまが入って来られること、あるいは、わたしはすでにイエスさまの中にある、大きないのちの中に受け入れられているということに気づくことに他なりません。この視点の転換を回心(心を回す)というのです。人間がやろうとすることはこころを改める改心であり、わたしたち側からの反省や内省にもとづいて軌道修正をします。しかし、イエスさまがしてくださるのはこころを回す回心であり、わたしがこころを改めるのではなく、イエスさまがわたしのあり方をひっくり返してくださるのです。その出来事がどのように起こるのか、わたしたちにはわかりません。イエスさまはいろいろな方法でわたしたちに働きかけて、そのことに気づかせようとしてくださいます。人の温かさや優しさを通して、またわたしの人生の困難を通して、いろいろな出来事を通してその真実に気づかせようとしてくださっています。わたしが自分で知ることができるようなものは、すべて過ぎ去っていきます。たとえすべてが過ぎ去っても、決して過ぎ去らないイエスさまがわたしを知っていてくださる、そのことに信頼することきりしか、わたしたちにはできないのではないでしょうか。その信頼を信仰というのです。
