聖霊降臨の主日 勧めのことば
2026年05月24日 - サイト管理者聖霊降臨の主日 福音朗読 ヨハネ20章19~23節
<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗
わたしたちは50日間にわたって、イエスさまの復活を記念してきました。そして、今日、イエスさまの復活の頂点でもある聖霊降臨を祝います。イエスさまの復活は、わたしたちを存在の根底から生かしている大きないのちの姿を、わたしたち人類にイエス・キリストという出来事を通して示されたことであったといえるでしょう。そして、そのいのちの本来の姿をわたしたちに気づかせ、わたしたちがそのいのちを生きるようにとの呼びかけであるともいえるでしょう。その大きないのちの姿は、自らのいのちを他のものに与え、己のいのちを失うことによって、そのいのちの本質を生きるというものです。そのことをイエスさまは、先ず大自然のいのちの営みを通して教えられました。「野の花、空の鳥を見なさい」と。野の花も、空の鳥も、この世界からいのちを受けて生かされ、またこの世界に自らのいのちを与えながらいのちを全うしていきます。つまり、死と再生という大きな生命の循環を生きることで、この大いなるいのちを生きているのです。空の鳥は、この地上の花や木の実、虫たちからいのちをもらい、そのいのちを次の世代に繋いでそのいのちを全うし、あるいは天敵にそのいのちを奪われることで他のいのちとなっていきます。野の花も同じことでしょう。
仏教のお釈迦様の前世譚に月のウサギという物語があります。手塚治虫のブッダでは、昔、森にウサギ、クマ、キツネが住んでいたということになっています。ある日、帝釈天がみすぼらしい旅人の老人の姿で現れます。今にも倒れそうなおじいさんを見て、皆は食べ物を探そうということになります。動物たちはそれぞれ、クマは魚を、キツネは木の実などを老人にもってきました。しかし、ウサギは何も探すことができません。そこでウサギはおじいさんに「火を起こしてください」といいます。そして、「わたしには差し出せる食べ物がありません。どうかわたし自身を食べてください」といって、自ら火の中へ飛び込みました。帝釈天はその尊い慈悲と自己献身に心を打たれ、ウサギを永遠に伝えるためにその姿を月に映したという話です。本当に尊いものは、力や所有することではなく、自分を分かち合うことである、というのがブッダのテーマになっています。何もこれ以上説明する必要がないほど明らかな、いのちの本質の姿を描いています。これがいのちの本来の姿なのでしょう。このいのちの本来の姿をイエスさまは、ご自分の生涯、特に受肉、受難、死によってわたしたちに見せてくださいました。ウサギは夜空を照らす月となったように、イエスさまのあのような生きざま、死にざまが、復活としてあらわされたということではないでしょうか。そして、今日祝う聖霊降臨は、このいのちの働きが、わたしたちを生かし、その働きがわたしたちのうちにすでに働いていることを記念するのです。
わたしたちが生きているということは、わたしたちのうちにこのいのちが与えられ、その働きが及んでいることを意味しています。今日の第2朗読の中で、聖霊はわたしたちを生かす働きであると述べられています。聖霊は、洗礼を受けた人にだけ働いているのではありません。聖霊はすべての生きとし生けるものを生かし、わたしたちを夫々の場において生かしています。そして、聖霊は、わたしたちを夫々の場において、他のものを生かすための賜物として働いているのです。これこそが聖霊の賜物なのです。聖霊はわたしたちが生かされている夫々の場において、家族、地域、国、制度に留まらず、この世界中でこの大自然の一員として、宇宙の中におけるわたしとしての場へと遣わしているのです。夫々の役割や場は違っていますが、わたしたちは同じいのちを生きるものとして生かされています。皆夫々違っていて、ユニークな存在であって、夫々の場があります。どの動物も植物も分類することはできるとしても、ひとつとして同じものはありません。それがいのちの豊かさなのです。そして、わたしたちは夫々のおかれた場で、そのいのちをお互いに分かち合いながら生きているのです。それなのに、いつのまにか人間だけがこの豊かないのちを独占するようになっていきました。人や国を支配し、人間以外のいのちにも名前をつけ、それを支配し搾取してきたのです。このいのちは人間だけのものではありません。そして、わたしが“わたしのいのち”といっているいのちも決してわたしのものではないのです。そのことがわからなくなっている、これが人間の罪ということなのです。
イエスさまは、本来のいのちのありさまを語っただけではなく、ご自分を完全に与え尽くすことで、神のいのちそのものを現された出来事が、イエスさまの復活です。そして、聖霊降臨はわたしたちがみな同じいのちによって生かされており、しかもそれぞれの文化、言語、背景、個性をもちながら、それでも同じいのちによって繋がっていることをあきらかにした出来事です。今日の聖霊降臨は、そのいのちの多様性と、わたしたちが同じいのちによって生かされていることを祝います。わたしだけ、特別ないのちをいただいたのではありません。わたしはわたしであって、他と入れ替えることはできません。しかし、そのわたしとわたし以外のものも生かしているいのちは同じいのちなのです。そのいのちに優劣、差別、区別はありません。人間だけが自分を特別視し、他と優劣をつけ区別して優位に立とうとします。動植物はお互いを比べることはしません。
しかしながら、今生で、そのいのちの真実の姿を認識することができるのは人間だけなのです。ですから、わたしたちが心の目を開き、耳を傾ければ、わたしたちは生きとし生けるすべてのものから、いのちの真実を聞かせてもらうことができるのです。わたしたちはこのいのちの真実に目覚め、このいのちを生きていくようにと呼びかけられているのです。だから、わたしだけが救われていくような教えは、イエスさまの教えではありません。わたしひとりだけが救われていくということなど、あり得ないからです。そうではなくて、わたしひとりが救われることと、すべての生きとし生けるものが救われていくことがひとつとなるような出来事、これが聖霊降臨です。それがイエスさまの真実であり、そのイエスさまの真実に出会わせていただくことが、わたしが信仰をいただくということに他ならないです。
聖霊を生きるとは、特別な能力を持つことではありません。今日、自分の前にいる人を、自分と同じいのちを生きる存在として見ることです。自分の利益だけではなく、お互いに生かし合うことに開かれていくことです。そして、自分の思いに閉じこもるのではなく、イエスさまのいのちの真実へ開いていくことです。わたしたちは、自分だけのために生きるとき、かえっていのちを失っていきます。しかし、自分を超えて他を生かそうとするとき、不思議なことに、わたしたちはもっとも深く生かされていくのです。
