キリストの聖体 勧めのことば
2026年06月07日 - サイト管理者キリストの聖体 福音朗読 ヨハネ6章51~58節
<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗
三位一体の主日の翌週である今日は、キリストの聖体をお祝いします。三位一体のお祝い日は、わたしたちを生かしている大いなるいのちの働きについて黙想しました。わたしたちの信じている神さまというのは、遠いどこか、雲の上の天国におられる神さまではなく、わたしたち生きとし生けるものを根底において支え、わたしたちをそのいのちで生かしておられる方であることを味わいました。ですから、神さまといってもどこかに他所におられる方ではなく、神さまがわたしを包み込んでおられる、と同時にわたしの内にも神さまがおられる。あたかも海の魚を大海が包み込んでいるかのような、またその魚を海が満たしているように、大きな神さまの中にわたしがいて、そしてわたしを神さまが満たしておられるといえばいいのかもしれません。そして、絶え間なくわたしを支え、いのちを与えておられる。それも、ご自分のいのちを与え、失うことによってわたしたちを生かしておられることを、イエスさまの生涯、特に受難、死、復活によって示してくださいました。そのことを聖体の祝日として祝います。
わたしたちのからだを構成する細胞は、一日に何億個もの細胞が死んで新しい細胞に生まれかわります。わたしたち個体は古い細胞が死ななければ、わたしたちのいのちを保つことはできません。つまり、死があってはじめて生があるというのが、いのちの本来の姿なのです。ですから、わたしたちが生きるということは、いつも死と一緒に生きているのです。この地球自体も、過去からの無数の生きものたちの死体が積み重なって出来ており、わたしたちはお墓の上に生活しているようなものです。化石燃料にしてもそうで、わたしたちは死者によって生かされているのです。このように、わたしたちは他のいのちによって生かされているのです。ですから、わたしたちは決して自分ひとりで生きているのではありません。わたしたちはいのちを分け合っていくことによってしか、生きていくことはできないのです。この地上において、すべての生きとし生けるものは自分以外の他のものからいのちをいただくことによってしか、そのいのちの営みを続けていくことはできないのです。
そのわたしたちが、そのいのちを保つための根本的な行為が食べるということです。食べなければ死んでしまいます。昔は、食べられなくなるとお迎えがくるといったものです。そして、わたしたちが食べるということは、必ず他の生きものからいのちをわけてもらうことなのです。しかし、知性をもった人類だけが、必要以上のいのちを狩り、搾取し、強奪し、乱獲するようになってしまいました。そして、その欲望はとどまるところを知りません。その欲望は、わたしとわたしの親しい周りの人以外のすべてのいのちに向けられていきます。それが人間に向けられていくとき、富の独占と搾取という形態を取り、貧困、飢餓、戦争にまで発展します。わたしは決してそういうことをしませんとは誰もいえなのです。わたしの中にある自己中心性というものが、ありとあらゆる問題を引き起こしているのだということに気づく必要があると思います。わたしがよい人間だから、キリスト者だから殺さないのではないのです。それはたまたまであって、わたしという人間は、状況が変われば百人千人でも殺す身となるのです。わたしたちは状況や立場が変われば、殺す身にもなり、また殺される身にもなるのです。
こうして、わたしたちは、イエスさまを2千年間食べ続けているのです。それなのに、わたしたちはまだ何もわかっていないのではないでしょうか。ここまで食べても、まだ食べ続けようとするのです。わたしは決して食べられる側にはまわろうとはしないで、食べつづける側に居続けようとするのです。どうして、これをおかしいと思わないのでしょうか。イエスさまを食べ続けて、ミサに与って、それをお恵みだという、こんな身勝手なことがあるでしょうか。わたしたちはどうして、「イエスさま、どうぞわたしをお食べください」といえないのでしょうか。わたしは何と惨めな人間なのでしょうか。
しかし、この惨めなわたしたちをイエスさまが解放してくださったのです。イエスさまはわたしたちを責めるのではなく、そのわたしたちにご自分のからだを裂いて、血を流して食べ物として与え、わたしにご自身を食べさせることによって、わたしたちのいのちとなり、わたしたちのうちにご自分のいのちを注いでくださいました。その真実に触れた人々が、おこなうようになったのがミサ、感謝の祭儀です。
聖体の祝日とは一体何でしょうか。イエスさまがわたしたちのための食べ物、飲み物となってくださったことを記念して感謝します。もちろんそうでしょうし、ミサはお恵みでしょう。しかし、同時にわたしたちは平気でイエスさまを食べ続けている、どこまでいっても自己中心な愚かな己に、思いを致すことを忘れていないでしょうか。でなければ、ミサは感謝の祭儀でなくなってしまいます。ご聖体をいただいて当然、いただくことがお恵み、説教がわからなくてもご聖体をいただけたらラッキーという、自分勝手な思いから、わたしたちは出ることはできないのです。今日、わたしたちは改めてわたしたちの愚かさ、闇の深さを思い起こしたいと思います。そして、それにもかかわらず、わたしたちのことを決して諦めることなく、わたしたちに自分を与え続け、養い続けようとされるイエスさまの思いを受け取りたいと思います。そのイエスさまの願いは、わたしたちにいのちの本来の姿を生きてくれよという願いそのものなのです。わたしたちを生かしているのはイエスさまのいのちで、わたしたちの中にそのいのちが流れています。だから、わたしたちはそのいのちに目覚めることができるのです。そして、そのいのちの目覚めを体験したマザーテレサは、「イエスさま、今日一日、どうぞわたしをお使いください」といったのです。
