年間第12主日 勧めのことば
2026年06月21日 - サイト管理者年間第12主日 福音朗読 マタイ10章26~33節
<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗
今日の福音は一見すると理解するのが難しい箇所です。「恐れるな」ということばが3度繰り返されます。マタイ福音書の書かれた時代の教会の状況を見ると、ローマ帝国によるエルサレムの都の陥落、神殿の破壊という出来事を体験します。また、ユダヤ教の一派のナザレ派としてやってきたキリスト教ですが、ここに至ってユダヤ教から追放されるという困難を体験します。今までユダヤ教の庇護のもとにあったキリスト教ですが、ローマ帝国の中へ、福音宣教に打って出なければならなくなっていきます。このようなマタイの共同体は、非常に不安定な状況に置かれており、人々の動揺が伝わってくるような箇所でもあります。そのような状況と、イエスさまが12人の弟子たちを福音宣教へと遣わすときのことばとが重なってきます。それで、イエスさまは「恐れるな」といわれているのです。
「2羽の雀が1アサリオンで売られているではないか。だが、その1羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛まで、1本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりはるかにまさっている」といわれます。そして、先週の福音からの続きとして読んでいくと、あなたがたは神さまから憐れまれ、慈しまれている、だから恐れることなく大胆にそのことを宣べ伝えるようにいわれます。そして、この個所はイザヤの預言の個所とも響き合っています。バビロン捕囚にあるユダヤ人たちに、希望を捨てないように呼びかけている箇所です。
「イスラエルよ、あなたを造られた主は、今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。わたしは主、あなたの神、イスラエルの聖なる神、あなたの救い主…わたしの目にあなたは価高く、貴い。わたしはあなたを愛し、あなたの身代わりとして人を与え、国々をあなたの魂の代わりとする。恐れるな、わたしはあなたとともにいる(イザヤ43;1~5)」
マタイ福音書の一貫したテーマは、冒頭に出てくるインマヌエル「神はわれらとともにおられる」(1:23)、そして最後に出てくる、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいる」(28:20)です。つまり、イエスさまはどのような状況においても、わたしたちとともにおられるということが強いメッセージとなっているのです。イエスさまの時代もいつの時代も、わたしたち人間は皆、様々な状況を抱えています。病気、天災、災害、老い、死から始まって、人間関係や社会や家庭生活の中で起こる様々な出来事など、わたしたちを不安にさせることに事欠きません。そのような状況の中で、自分たちの力でなんとかできることはごく限られており、わたしたちは無力でなすすべをもちません。そのような状況の中で、わたしたちを不安と恐れから解放してくれるものは何でしょうか。医療や制度や家族の支えは大切です。しかし、それらによってもなお解決できない多くの苦しみがあります。そして、もっとも苦しい現実として、苦しんでいる人に誰も代わってあげることができないということです。わたしの苦しみ、痛みはわたしだけのものであって、誰もそれを本当の意味で理解することはできないということです。
ヨハネの手紙に次のような箇所があります。「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。わたしたちが愛するのは、神がまずわたしを愛してくださったからです(Ⅰヨハネ4:18,19)」。どのように困難な時でも、自分を抱きしめ、愛してくれる誰がいれば、たとえ問題は解決しなくても、わたしたちは少し安心していられます。わたしたちが何かを恐れるのは、自分がひとりぼっちだと感じ、世界からも人からも見捨てられ、自分は罰せられていると感じるからではないでしょうか。わたしたち皆は弱いので、不安になったり、心配になったりする。事がうまくいかないとき、失敗としか思えないことが現実として起こってくる。この世界からすべて否定されたように感じる。自分の力ではどうすることも出来ない現実が起こってくる。そのようなことを全て分かったうえで、イエスさまはわたしたちのところへ来られます。イエスさまは、わたしたちを裁くためではなく、わたしとともにいるために来られたのでした。確かに、苦しみがすぐに取り去られるとは限りません。しかし、苦しみの中にわたしを一人で置き去りにされることはありません。一見、何にもしてくださっていないように感じるかもしれません。唯、わたしの横で手を取ってともに泣いてくださっているだけかもしれません。しかし、それでも、イエスさまはわたしとともにいたいと望まれました。しかも、わたしが望んだのではなくて、イエスさまがわたしとともにいたいと望まれたのです。今日の福音はその真実が前提にあるのではないでしょうか。だから、恐れることはないといわれるのです。なぜなら、イエスさまはわたしたちのいのちの主でおられるのですから。
わたしたちキリスト者に、イエスさまのこの慈しみの働きを宣べ伝えるように招かれているように思います。決して大きなことをすることではありません。わたしの身近にいる人たちの支えになること、ともにいること。また、わたしたちも誰かに支えてもらうこと、ともにいてもらうこと。そのようなお互い様の世界をイエスさまは望んでおられたのではないでしょうか。わたしたちがイエスさまと出会い、知らせていただいたのはそのためではないでしょうか。今日の福音の「恐れるな」という言葉は、単なる励ましではありません。「わたしはあなたとともにいる」という神さまの約束に支えられた言葉なのです。イエスさまがまずわたしとともにいてくださる、だからわたしたちもともにいることができるのです。
