年間第18主日 勧めのことば
2026年08月02日 - サイト管理者年間第18主日 福音朗読 マタイ14:13-21
<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗
今日の福音はイエスのパンの増やしの奇跡です。この箇所を読むときに、わたしたちは5つのパンと2匹の魚がどのように人々の飢えを満たすことができたのであろうかとか、どのようにパンが増えたのだろうかということを考えてしまします。しかし、今日の福音の伝えようとしていることは、人間的に見れば、5千人の飢えを満たすことなど不可能と思われる5つのパンと2匹の魚を、弟子たちがイエスさまに差し出し、イエスさまが手に取り、それを皆にお与えになると、それはすべての人を満たしたということです。
イエスさまが人々の飢えを満たすためには、先ずイエスご自身の存在が必要なことは明らかですが、福音ではもうひとつ大切なことがいわれています。それは5つのパンと2匹の魚です。イエスさまは、弟子たちは「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」といわれます。弟子たちは困り果てて、「ここには5つのパンと2匹の魚しかありません」といい、自分たちがもっているものが何の役にも立たないといいます。しかし、イエスさまは「それをここにもってきなさい」といわれました。それで、弟子たちは5つのパンと2匹の魚をもってきて、それをイエスさまに渡し、イエスさまが手に取って、天を仰いでそれを御父に捧げ、裂いて弟子たちにお与えになります。そして弟子たちが人々にそれを配りました。そうするとすべての人々が満たされました。この出来事をどのように理解するかはいろいろな考え方があります。しかし福音書がわたしたちに伝えたいことは別のところにあります。
ここで大切なことは、弟子たちがイエスさまのところに5つのパンと魚をもっていったということです。つまり、それがどんなにつまらないものであっても、何の役にも立たないように思えるものであっても、それをイエスさまのところへもっていくということです。たとえどんなにつまらなくて、人間的に見れば決して華々しくもなく、価値もなく、かえって恥ずかしくて隠したいと思えるようなものであったとしても、イエスは「それをわたしにところへもってきなさい」といわれるのです。そして、それがイエスさまの手に取られ、御父にお捧げになるとき、それは変えられ、人々を生かすものへと変えられるということなのです。
ミサの中で奉納行列があります。そのときに共同体を代表して、パンとブドウ酒が主の祭壇に運ばれます。このパンとブドウ酒は単なるお供え物ではなく、わたしたちの生活、人生、わたしたち自身をあらわしているのです。「神よ、あなたは万物の造り主、ここに供えるパンはあなたからいただいたもの、大地の恵み、労働の実り、いのちの糧となるものです」。この供え物は、わたしたちの日々の生活の実り、またわたしたちが抱えている日々の生活の糧、それは労苦や、問題、苦しみや悲しみ、わたしの病です。また自分ではどうすることもできない過去に受けた傷や心の闇、そしてわたしたちの罪、わたしたちの人生をあらわしているのです。そして、イエスはわたしたちにいわれるのです。「それをわたしのところへもってきなさい」と。聖堂の入り口で、聖水で自分を清めて、日々の生活の労苦、問題、罪をおいて入ってくるのではなく、それらすべてわたしのところへもってきなさいとイエスさまはいわれるのです。それをイエスさまが受け取り、イエスさまの手によって御父に捧げられるとき、それは光へと、恵みの源へと変えられるのです。これは奉納の意味であり、ミサの意味でもあるのです。わたしたちの人生、生活とミサは別々のものではありません。イエスさまの大きないのちの働きの中に、わたしたちの人生があるのです。
わたしの人生を横において、わたしの人生を素晴らしいものにしてミサに参加するのではないのです。わたしたちの人生そのものをイエスさまの手にお委ねし、わたしたちの人生をミサの奉献をとおして、キリストの現存のしるしとしていただくのです。そのためには、わたしたちが自分の人生をイエスさまにお渡ししなければならないのです。そのとき、つまらないと思えるわたしの人生が、価値がない、否定してしまいたいようなわたしの人生が、イエスさまの手に取り上げられるとき、たとえ問題は解決されることなく、痛みは取り去られないかもしれませんが、わたしの人生はイエスさまのうちに光へと、恵みの源へと変容されるのです。イエスさまは神さまです。こんなに小さな石ころからでも、いのちを導き出すことがお出来になるのです。まさに蓮の花が、高原の清い水から咲くのではなく、じめじめとした泥の中から咲くようなものです。
今日の福音の箇所がわたしたちに教えることは、イエスがパンを増やされたという単純な話ではありません。イエスさまの手に渡されるのであれば、それがどんなにつまらないものであったとしても、それが人間的に見れば効果をもたらすように見えないものであったとしても、それが罪であったとしても、それはイエスさまが自らの手に取り、御父に捧げられるとき、それは神の現存のしるしとなり、キリストの救いの業に結ばれ、恵みの源となるのです。これがミサとわたしたちの関係なのです。ミサに参加できてよかったというだけではなく、ミサの中でイエスさまとわたしの関係があらわされているのです。大切なことは、イエスが御父にお捧げになることができるように、わたしたちがそれをイエスさまの手にお委ねすることです。よい悪い、大きい小さいは関係ありません。ただ、自分自身をイエスさまの手にお委ねすることです。イエスはわたしたち一人ひとりにいわれているのです。「それをわたしのところへもってきなさい」と。
