年間第20主日 勧めのことば
2026年08月16日 - サイト管理者年間第20主日 福音朗読 マタイ15章21~28節
<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗
今日の箇所は、イエスさまがというより、初代教会が異邦人宣教をどのように捉えていたかということがわかる箇所です。この箇所は、すべての人の救いか、それとも一部の人の救いかという問いでもあります。ユダヤ教はユダヤ人だけの救いを説いてきました。それに対するアンチテーゼとして出てきたのがキリスト教です。しかし、キリスト教の中で、自分たちと意見が違う人々を異端として排除していくという動きが起こってきます。こうして、イエスさまによって始まった神の国の福音に垣根を作って、神の国を狭めていくようになります。それが、まさに今日の福音のなかで、イエスさまに「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」といわせてしまっていることなのです。この言葉は、イエスさまに由来するというよりマタイの教会の言葉であると思われます。初めに書かれたマルコ福音書にこの言葉はありません。ここに、本来すべての人の救いを説く宗教が、特定の人のための宗教になっていくプロセスを見るような気がします。これが、キリスト教のユダヤ教への先祖返りという問題なのです。どの宗教においても、このような問題が起こってきます。そして、どの宗教においても源泉へ立ち帰る改革がおこなわれてきました。そのような動きは、ときとしては分裂を引き起こしてしまうこともあります。これが人間としての宗教の限界なのでしょう。
わたしたちが救いというものを捉えるとき、先ずはわたしが救われて楽になること、わたしの願いが満たされることしか考えることができません。今日の福音でいえば、カナンの女は、救われ難いわたしたち人類の代表です。そして、この女性はイエスさまとの出会いを通して救われていきます。しかし、同時に「この女を追っ払ってください」という弟子たちの姿は、自分たちは救われた側にいると思い込んで、そこに安住しているわたしたちの代表でもあるのです。つまり、そのような救いに安住している弟子たちも救われ難いわたしたち人類でもあるのです。果たして救いとは何かということが、カナンの女にも弟子たちにも問われているのではないでしょうか。それは今、救いを必要としているのは、他の誰でもないわたし自身であるということに気づかされるということではないでしょうか。
このことは、わたしがわたしというものから解放されるということでもあるのです。わたしは救われた側にいて、あなたも救ってあげましょうというようなものではないのです。そういうふうに考えているあなたこそ、救われなければならないんですよということなのです。自分の救いや自分の幸福を第一に考えていた人たちの中から、本当に苦しんでいる人たちの救いを望むようなこころが生まれてくるはずがありません。大体、多くの宗教は人を救うとか助ける、奉仕することを教えます。しかし、人を救う、助けるという発想は、自分を人を助ける側に置いてしまいます。人を助けることが悪いのではありませんが、人を助けるということを、自分が上に立つこと、自分が救われた側に立つこととして考えてしまうと、そこには我欲が入り込んできます。人を助ける側になるということは、今日の弟子たちと同じです。自分が救われた立場にいて、上に立って、そこに安住して人を救おうとします。これはイエスさまのこころではありません。どこまでいっても救われた人と救われていない人の壁を作り出していくことに他なりません。自分は信仰があるとして、話をしたり、活動したりしている、そして、救われなければならない人の上に立っています。イエスさまの宣教とはそのようなものだったのでしょうか。
多くの宗教は同じ信念、教義を共有して満足し、そこに安住していきます。これはどこまでいっても閉じられた世界、自己満足の世界です。これが本当の救いとはいえません。わたしたちは、結局は自分が安心して満たされたいというところから自由ではありません。これが現実の世界か、来世かの違いだけで、自分の思いを優先していることに変わりはなく、これではどれだけ学んでも、どれだけ祈っても、単なる我欲に過ぎません。自分ひとりが救われて、そこに沈んでいく世界です。そんな救いはイエスさまの救いではありません。ですから、本当の救いは、わたしが思い込んでいる救いからわたしが解放されることなのです。しかし、わたしの救いから解放されるということなど、わたしの力ではあり得ないことなのです。だから、救われるというのは今のわたしの問題なのだということに気づかされること、これが大切なことであることがわかります。
今日の福音の箇所は、初代教会の回心の箇所であるともいわれています。イエスさまに「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」といわせていますが、実はイエスさまのことばを通して、初代教会の中にあったひとつの問題を問うているのかもしれません。イエスさまは、ユダヤ人異邦人、老若男女、身分貴賤の別なく、すべての人の救いのために働かれました。しかし、イエスさまが亡くなり、教会が福音宣教に出ていくとき、自分たちはイエスさまによって救われていて、そこに安住し、そこに人を呼び込むという動きが頭をもたげてきたのではないでしょうか。そして、救われたものと救われていないものを区別し、グループを作っていったのです。しかし、イエスさまは、ご自分を救われたものの立場に身を置かということはされませんでした。イエスさまの生涯、特に十字架はユダヤ人には決して課されることがない、もっとも不名誉な呪われたものの死でした。つまり、イエスさまはもっとも救われ難いものとしてその身を置き、呪われたもの、罪と悪を一身に受けて、救いから除外されたものとして死んでいかれたのです。
そのことに、初代教会は異邦人の宣教という局面において、わが身のあり方をイエスさまから問われていったのではないでしょうか。ああ~イエスさまはそうではなかったのだ、ということに気づかされ回心していった出来事、それが今日の箇所なのです。イエスさまの道は、自分をもっとも救われ難い身に我が身を置き、人々とともに陰府に下り、地獄にまで堕ちていくことによって、人類を救っていく道なのです。だから、自分は救われて、天国にいって幸せになりたいなんて思っているわたしの救いが打ち砕かれて、わたしの救いから解放されていくことこそが、わたしの救いなのです。今日、わたしたちもイエスさまのその真実のこころに触れさせていただく恵みを願いましょう。
