年間第22主日 勧めのことば
2026年08月30日 - サイト管理者年間第22主日 福音朗読 マタイ16章21~27節
<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗
今日は、イエスさまの受難予告とそれに反応する弟子たちの姿が描かれていきます。イエスさまは、自分はエルサレムで、苦しみを受けて殺されることになっているといわれました。イエスさまがおっしゃったことは、普通の感覚であればば、誰もがイエスさまをお諫めすることでしょう。どうぞ、いってらっしゃいとはなりません。それなのにペトロは厳しく怒られてしまいます。「サタン引き下がれ」と。ペトロは、何のことかわからなくなってしまいます。しかし、ここで問題になっているのは、いのちをどのようにとらえていくかという問題です。
弟子たちは、イエスさまがエルサレムにいかれるなら、そこで新しい王として大きな力を発揮されると思っていたのでしょう。そもそも王というものは、すべてを自分の思う通りにできる存在です。わたしたちは、そこまでいかなくても、自分の思いが据え通ることが人間としての幸せであり、自分のいのちが輝くことだと考えているのではないでしょうか。それがこの地上で極まった姿が王であるわけです。それが「全世界を手に入れる」といわれることです。しかし、イエスさまはそのようなあり方に問題提起をしていかれました。
イエスさまは、本当に自分のいのちを救いたいと思うのであれば、わたしたちがいのちと思っている有限ないのちに執着することをやめなければならない、そのいのちを失わなければならないといわれるのです。本当のいのち、永遠のいのちは、“神さまご自身”であって、わたしたちのいのちを長らえさせるとか、不変なものにするということではないということです。いのちとは本来、無限、永遠である神ご自身であって、わたしたちがいのちだと思っている個々の有限のいのちは、本当のいのちがわたしという個の枠の中に、一定期間留まっているものにすぎないということなのです。ですから、永遠のいのちとか神のいのちを離れて、わたしたちのいのちというものがあるのではないのです。わたしたちのいのちは、神のいのちに参与することによって、本来のいのちになるのです。
しかし、わたしたちが生きているいのちは、ご飯を食べたり、働いたりして過ごす一生のことで、死ねば、お墓に入ってしまうものと考えてしまいます。わたしたちのいのちはもちろん尊いものですが、わたしたちが一番大事だと思っている個のいのちを生かしている根本的な大きないのち、神のいのちがあることを知らせるのが宗教の本来の役割だといったらいいでしょう。ですから、宗教は、生きたい生きたいと願っているわたしの個のいのちを永らえさせること、不滅にすることではありません。つまり、個人の野心や欲望につながっているようないのちを拡大させることではないのです。
しかしながら、わたしたちが生きているいのちは、自らのうちに自分を超えていくという性質をもっています。多くの植物や動物は、自分のいのちを伝えるという使命が終われば、自分のいのちを終わらせていきます。それがもっとも苦手というか、難しい生命体が人類なのです。おそらく、人間はいのちを物質のように理解しているのではないでしょうか。だから、いのちという現象を恒久的な状態に閉じ込めようとしてきました。それが不老不死を願ったり、永遠のいのちを求めたりすることと繋がっていきます。しかし、いのちという現象は、動きであり、生きよう生きようとして、今のいのち以上になっていこうとします。すべてのいのちには成長というプロセスがあり、それがある点に達したとき自らを壊して、他のいのちに変容していこうとします。動物の脱皮もそうですし、芋虫がさなぎになって、蝶に変態していくのもそうです。そのもっとも根本的なものが、自分の死を通して、次世代にいのちを受け渡そうとすることです。つまり、いのちそのものの中に、自らが個体を壊して、個体の外へ溢れ出ていくという性質があるのです。このように、自分を超えていく動きが、いのちそのものの中にあるのではないでしょうか。それをイエスさまは「自分のいのちを救いたいと思うものは、それを失うが、わたしのためにいのちを失うものは、それを得る」と的確にいわれました。また別の箇所では、「友のために自分のいのちを捨てること、これ以上に大きな愛はない(ヨハネ15:13)」といわれました。しかし、人間は、他の動植物が自然なこととして生きていることができません。わたしの個のいのちだけがすべてだと思って、それに執着しているからです。それだけなら、わたしは本当のいのちを知らないし、半分しか生きていないということになります。
ただ、このようないのちのあり様を認識できるのは、おそらく人間だけです。人間だけがわたしという輪郭を意識するがゆえに、わたしの中に閉じ込められた、あるいは生きているいのちというものを認識することができるのです。動植物は、わたしという輪郭をはっきりもっていません。しかし、人間であれば、どんなに個性が強くない人でもわたしという輪郭はもっていて、わたしのいのちが終わることを意識して、死を恐れます。常日頃は、当たり前のように生きているので、いのちというものを意識しません。海の魚が海を意識していないのと同じです。しかし、わたしのいのちというものを意識するとき、そのわたしという個の
いのちがなくなったら大変だ、死なないようにあれこれ頑張ろうとします。
いのちが本当のいのちになるということは、個となったいのちのあり方が破られる必要があるのです。それがいのち本来のあり方です。わたしの中で意識しているいのちは、蝶の世界を知らない芋虫のようだといったらいいかもしれません。芋虫は、自分の生きているいのちがすべてだと思っています。空に高く舞い上がるいのちが、自分の中にあることを想像することすらできません。しかし、芋虫はときがくれば、自らで自分の内に入ってさなぎを作り、自分に死んだようになって、そしてさなぎを破って蝶となり、空高く舞い上がります。わたしたちは、わたしのいのちの殻を破って脱出していくこと、わたしのものと思って自分で握りしめているいのちを、大きないのちのうちに解放していくところにいのち本来の動きがあるのです。そのことをイエスさまは、「わたしについて来たいものは、自分を捨てて…」といわれました。それがいのちの本来のあり様であり、大きないのちを生きるためには、個のいのちを否定するのではなく、個という枠の中に閉じ込められたいのちを、大きないのちの中に解放していくことなのです
イエスさまはご自分の生き方、死に方で、わたしたち人類に本来のいのちのあり様を単的に示されました。わたしたちが生きるということは、自分という殻の外に出て、大きないのちの中に自分を解放することなのです。そのとき、わたしたちははじめて、生きたといえるのだと思います。芋虫がおのずから蝶になっていくように、わたしたちもいのちのあり様を本来知っているはずです。しかし、利己心によってそれが見えなくなってしまっているのでしょう。そのいのちのあり様をわたしたちに知らせ、目覚めさせてくださるのがイエスさまであり、そのイエスさまをわたしたちは信じるのです。そのあり様は、大いなるいのちとしてわたしたちの中にすでに与えられており、わたしたちはその動きに自らを与え、解放していくように働いています。その大いなるいのちの働きが、イエスさまご自身であり、イエスさまご自身がわたしたちの中で生き、働いておられるのです。わたしたちはこのイエスさまの内なる働きに、自らを与えていくように召されています。これが自らの十字架を背負ってイエスさまに従うことなのです。
