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待降節第1主日 勧めのことば

待降節第1主日 福音朗読 マルコ13章33~37節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

待降節になりました。今日の福音のテーマは、主の到来に向かって「目を覚ましている」といることがテーマになっています。待降節のテーマも、わたしたちが主を待つことのように思われています。今日の福音を読む限り、主がいつ来られるのかわからないので、わたしたちが細心の注意を払って、ふさわしく用意して、目を覚ましているというわたしたち人間の側の心構えが語られているように思います。そして、わたしが主の到来に対して、いつこられてもよいように目を覚まして、ふさわしい準備をすることで救われる、またわたしが一心に信じることで救われるかのように思ってしまっています。しかし果たして、わたしはイエスさまにふさわしい身になれるのか、またわたしが一心に信じるということができるのかということが問題になってきます。なぜならば、わたしが信じているその信仰が真実なものであると誰も証明してくれませんし、自分の力でイエスさまにふさわしい身になったかどうか確認することもできないからです。この問いの背景には、そもそもイエスさまの救いというものを、わたしたち人間が人間の視点で解釈しているのではないかということがあります。今日は、そのことを考えてみましょう。

わたしたちに“待つ”ということが成立するためには、未だ到着していないという過去の事実と、いつか将来に起こるであろう未来への予想というものがあります。それがどのようになっているかというと、過去に誰かが来たというわたしの経験があって、そのときたまたま準備ができていなくて怒られたとか、うまくいかなかったという記憶があって、その記憶に基づいて、今度はきちんとしようと未来の予想を立てる、あるいは、そのときうまく準備ができて、きちんとお迎えすることができたという経験があって、この次もきちんとお迎えしようと、“わたしが”考えているのではないかということです。つまり、わたしたちの意識が捉えることができる過去の記憶のデーターとそれに基づいた未来の予想で、この世界のすべてを、神さまのことさえ把握しようとしているのではないかということです。わたしのこころに思いが生じるというのは、過去の出来事に照らし合わせて、未来を判断しているのにすぎません。

わたしたちはこの世界に時間というものがあって、過去があって、現在があって、未来へと時間が流れていて、わたしはその時間の中で生きていると考えています。しかし、現代の物理学でわかってきていることは、人間は時間というものがあると思っているけれど、時間というものは存在しないということがいわれています。この世界には時間というものはなくて、時間は人間が世界を理解するために尺度、人間の申し合わせであって、この世界には永遠の今ということしかないということがいわれています。世界を時間の流れとして認識しているけれど、この世界には今ということが満ちているのだということなのです。ちょっと想像することは難しいかもしれませんが、よく考えれば、わたしが生きている今というとき、瞬間、その刹那は、わたしが生きたといったとき、もう過去になってしまい、その過去にわたしは生きてはいません。そして、わたしが生きようとする未来は絶えず未来であって、その未来にわたしが追いつくこともありません。しかし、わたしが生きているのは過ぎ去った過去でもなく、また来ていない未来でもなく、今、永遠の今であって、昨日でも、明日でもありません。わたしには今しかなくて、過去も未来もないし、それを生きることはできないのです。過去や未来は、ただ記憶と意識の世界が作り出している幻のようなものだのだといっていいかもしれません。イエスさまが永遠であるということは、イエスさまにはわたしたち人間のような時間はなく、常に今ということなのです。

わたしたちは、よく生きれば、将来よい人になっていき、よく信じれば、将来信仰は深まっていくというふうに考えています。だから、わたしたちがよい人間になって、ふさわしい準備ができれば、イエスさまが将来来てくださるというふうに、わたしが勝手に間違って捉えていくようになってしまいます。しかし、イエスさまは、わたしたちが目を覚ましていて、ふさわしい準備をした結果として来られるのではありません。それだけなら、わたしの都合で、イエスさまを来させようとしていることになってしまいます。また、今日のお話はいいお話だった、自分の生きる参考になったといいます。それは自分に都合よく聞いた、自分のこころに合わせて聞いたということにすぎないのです。また、わかりやすい話やわかりやすい言葉にするということもよくおこなわれています。わかりやすいということは、わたしの都合に合わせたものということなのです。イエスさまのことばをわたしの都合にあわせて聞いたところで、それは自分の都合を満たしたいだけ、自分の疑いを晴らし、欲を満たしたいだけなのです。だから、わたしたちは、聞けば聞くほど、信仰は深まっていくと思っているかもしれませんが、それは間違いです。聞けば聞くほど、わたしたちの疑いは深くなっていくのです。わたしがわかりたい、わたしの疑いを払拭したいという思いだけでイエスさまのことばを聞いているので、それは泥に金箔をはっているだけなのだということに気づかされるからです。

イエスさまが来られるのは、そのようなわたしの都合やわたしのまやかしのこころの及ばぬところです。イエスさまが来られたことを過去のこととして判断し、未来を予想するなら、それはわたしのこころの中で、わたしの意識が作り出したものになってしまいます。しかし、イエスさまが来られるというとき、わたしの意識が及ばぬところにイエスさまは来ておられるのです。そのことをわたしたちは、本質的には意識することはできないのです。「そのときがいつなのか、あなたがたにはわからないからである」といわれている通りです。イエスさまが来られるのは過ぎ去った過去のことでもなく、まだ来ていない未来のことでもないのです。その意味で、わたしたちが待つ必要はないのです。今、イエスさまは来られ、わたしたちは今救われつつあるのです。どんなに準備しようが、ふさわしく生きようが、準備ができず、ふさわしくなくても、それはわたしの都合でしかなく、そのようにしか生きられないわたしのところにイエスさまが、今来られるということなのです。わたしが待つことによって、準備することによってイエスさまの到来を引き起こすのではなく、すでにイエスさまは来ておられたのだという驚き、それがアドベント、「主が来られる」といわれる真の待降節の意味なのではないでしょうか。いつ来られるかわからないから絶えずわたしが準備をしますとか、クリスマス前にふさわしい準備をしましょうじゃないんです。それはいずれも自分の都合であって、わたしがよい人間になれば救われ、一生懸命信じれば信仰が深くなるなんていうのは、すべてわたしの計算であり、インチキです。しかし、イエスさまは、そのような自分の都合しか考えられないわたしのところに来られるのです。イエスさまが来られる、そのことだけが真実なのです。イエスさまは今来られ、わたしたちは今救われつつあるのです。

王であるキリスト 勧めのことば

王であるキリスト 福音朗読 マタイ25章31~46節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日は教会の中で、最後の審判の箇所として説明される場面が朗読されます。これは神の国のたとえ話であって、最後の審判の記述ではありません。先ずそのことを押さえておきましょう。そもそもこの箇所はマタイにしかありませんし、イエスさまが最後の審判について教えたと考えることはできません。これは終末思想の中にあったマタイの共同体で、主の再臨を前提に書かれた箇所だといったらいいでしょう。それを、後の教会が最後の審判に関する記述だと主張したのです。また、これが神の国についてのたとえ話であるとしても、神の国の何についてのたとえであるのかを慎重に見極める必要があると思います。

多くの場合、このたとえ話の「この最も小さなもののひとりにしてくれたのは…してくれなかったのは…」というフレーズが、多くのキリスト者にとって大きなプレッシャーになっていると感じるのはわたしだけでしょうか。自分は小さい人たちのために何もしていない、できないとか、ボランティア活動もしていない、だからせめてその後ろめたさから献金するとか何とか、様々な活動がこのような後ろめたさからおこなわれていること自体大きな問題だと思います。また、小さい人々に何かをするという発想自体、自分が上に立って何かをするという教会の上から目線であり、この箇所の解釈が与えている大きな影響というものを感じさせられます。なぜこのような発想になっていったのでしょうか。それは人間が、救いというものを求めていくからではないでしょうか。それでは、救いとは何なのでしょうか。そもそも、わたしたちが求めている救いなどというものが果たしてあるのかどうか、今一度、考えなおしてみる必要があるように思います。

今日の箇所では、人間の歴史の最後には、正しいものと正しくないものがわけられ、正しいものは永遠のいのちを受け、正しくないものは永遠の罰を受けることになっています。だから、あなたがたは永遠のいのちを受けることができるように、すなわち救いにあずかれるように、この小さな人のためによいおこないをしなさいというのが一般的な教えです。果たしてイエスさまがこんなに陳腐な教え、せこい救いというものを説かれたのでしょうか。確かに、イエスさまはその生涯のなかで、社会の底辺で見捨てられた人々、病人、女性、いわゆる“小さな人々”を最優先していかれました。それは旧約の律法が小さい人々を助けるように教えていたからではなく、ただイエスさまのこころが動き、体がそのように動いて、そうされたという以外の何ものでもありません。愛の掟でいわれているからとか、その人たちが可哀そうだからとか、自分が救われて永遠のいのちを受けるためだとか、救われるため、選ばれたものとなるためではないのです。ただ、イエスさまのこころがそう動いたのです。そのことが大切なのです。ある人たちは、イエスさまがあのような生き方、死に方ができたのは、自分は神で、復活することがわかっていたからだという愚かな人たちがいます。それこそ、最後の審判の教えに影響をうけた勧善懲悪の発想そのものです。イエスさまのなかには、1ミリも自分というものが目的になるようなものはありません。それに対して、わたしたちはどんなに素晴らしいことをしても、どれだけ貧しい人と連帯したとしても、そこには自分の救いを勘定に入れているわたしというものがいるのです。最後の審判の教えが、かえってそのような発想をわたしたちに刷り込ませてしまっているのです。

今日のたとえ話では、相手がイエスさまだとわかってやった人は、イエスさまからあなたは知らないといわれています。あくまでもイエスさまであることを知らないでやりなさいといわれます。しかし、「この最も小さなもののひとりにしなかったのは、わたしにしなかった」のだとか、「…ひとりにしたのは、わたしにしてくれたのだ」といわれてしまうと、わたしたちはかえって意識してしまいます。相手がイエスさまであることを知らないでするということが、果たして意識的に意図的にできるのかということになってしまいます。そもそも、わたしたちはイエスさまを意識する“わたし”というものを除いて、何かをするということなど出来ないのです。わたしたちは必ず、“わたし”がやっていると意識します。だから、わたしという存在は、自分の救いを勘定に入れないで何かをすることなど出来ないのです。その明らかな現実、つまりわたしを勘定に入れないでは何もできないという現実を受け入れない限り、わたしたちは何もできないということなのです。でなければ、所詮すべて綺麗ごとになってしまいます。自分というものを勘定に入れないで、何かをできた方というのはイエスさまだけです。それがイエスさまの生涯、そして十字架です。わたしたちがどんなに熱心にキリスト教を求めたとしても、自分の救いしか考えられないのです。しかし、イエスさまの姿から知らされてきた本当の救いとは、わたしが救われないものになることに他なりません。それなのにわたしたちは、自分が必ず救われた側に立って、自分が救われたものとして他の人を救っていこうとします。人の上に立って、話して、教えて、何かをして、救っていくという発想しかないのです。宗教者に多いお悩み相談です。自分が上に立って人を救っていきたい、導きたいというのがわたしたちの本性なのです。こうして、わたしたちは、結局は自分の救いという闇の中に沈んでいくしかない存在なのです。つまり、救いを望んでいながら、救いからもっとも遠くなっていくのです。

しかし、イエスさまは何と違っていたことでしょうか。イエスさまはもっとも下に行き、もっとも愚かなもの、呪われたもの、自らが地獄に落ちていって、人々を救おうとされます。それがイエスさまの受肉、その生涯、特に十字架であり、死なのです。信仰宣言で「十字架につけられて死に、葬られ、陰府に降り…」といわれることは、そのことなのです。しかし、わたしは右側に、選ばれたものになりたい、天国にいきたい、救われたいと思っているのです。イエスさまとは似ても似つかぬものであり、自分の救いしか考えられないものなのです。わたしの救いは、わたしの救いを放棄したところにしかないのにそのことに気づきもしないで、己の救いを求め、善行をし、慈悲の行をし、教えようとしている、これがキリスト教の限界なのです。イエスさまがわたしたちに教えてくださったことは、その正反対です。イエスさまは自分を放棄することによって、人間であるわたしとなってこの世界に来られました。自分の救いを捨てて、後回しにして、この人間の迷いの世界に来られたといったらいいでしょう。そして、イエスさまはご自分の生き様を通して、わたしはわたしの力ではどういうふうにしても救われることのない身であることを示されました。でも同時に、イエスさまによって必ず救われる身であることを示されました。これがイエスさまの復活です。わたしは今、決して救われることのない身であることに変わりはありません。もしわたしが何かよいことができるとしたら、それはわたしのなかのイエスさまがしておられるのに過ぎません。    

イエスさまが説かれた神の国、救いとは、人助けをして自分が救われていくことではなく、もろもろの救われがたいものとともに、自分も救われがたいものとなって、この生死の世界に留まり続けことなのです。そもそも救う側も救われる側も、助ける側も助けられる側もその区別がない世界、それをイエスさまは神の国として示されたのです。その神の国の証しとして、この世に救われがたいものとなってとどまり続ける使命を受けたのが教会、つまりわたしたちなのです。ですから、教会に信仰があるのでもない、聖なるものでもないのです。わたしのうちには救われがたいものしかないのです。その視座に立たない限り、教会はその本来の使命から逸脱し、己らは救われたものの集団だ、エリート集団だという幻想のうちに沈んでいきます。わたしたちは、今このとき、いかに多くのことをこの身に知らせていかなければならないことでしょうか。改めて気づきをいただけるように願いましょう。

年間第33主日 勧めのことば

年間第33主日 福音朗読 マタイ25章14~30節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗 

今日はよく知られたタラントンのたとえです。タラントンとはギリシャの貨幣の単位で、1タラントンは6000日分の日当にあたり、約20年分の賃金に相当します。このタラントンはタレントの語源にもなり、才能や技量を表す言葉になっていきます。つまり、その人が天からもらった力量を表す言葉にもなっていきます。今日のたとえは天の国、つまり神の国のたとえとなっていますが、何のたとえなのかを正確に理解する必要があると思います。

普通このたとえを読むと、神さまからいただいた力や能力を使うことを奨励しているとしか読めません。それが神の国の何のたとえなのかがわかりません。あたかも、神の国がわたしたちに正しい生き方を要求しているようにしか感じられません。たくさん資産をあずかって、それをうまく資産運用した人が評価され、それをしなかった人が責められているように思われます。頑張れば評価される、頑張ったものが報われる世界を目指している現代社会のように、才能を活かして頑張れといわれているようにしか読めないからです。政治家はいとも簡単に、人類は皆平等であると綺麗ごとをいいますが、人はみな同じように生まれついているわけではありません。人は人であることを除いて、生まれながらにして不平等なのです。頑張れる人はいいかも知れませんが、頑張れない人はどうしたらいいのでしょう。

今までの教会の教育の中でも、自分が自分でないものになることで救われるというような教え方がされてきました。よい子になって、立派なクリスチャンになって、聖人になることを目的としてきたような、そして、それがあたかも信仰生活、聖性のように言われてきました。だから、今のままの自分では駄目なんだ、罪を避けてもっといい子にならないといけないのだといわれてきたように思います。しかし、わたしたちは自分以外のものにはなれませんから、自分自身じゃないもののふりをするようになります。あるいは、ゆるしの秘跡と日常生活の間を行ったり来たりになり、絶えず罪に怯える生活が繰り返されます。こうして、わたしたちはわたしに対して嘘をつき、嘘に嘘を重ねることになります。でも、自分自身ではないもののふりをし続けること、これはストレスですから、わたしたちは心の中では自分を責め、自分を虐め、自分を否定するようになります。つまり自分で自分をおとしめ、卑下するようになるのです。そのように自分を虐めていると、その虐めは必ず他者に転化していきます。これが、外的、内的暴力となって現れてきます。自力で頑張って、聖人になることを目指す人はそれでいいかも知れませんが、そうできない人はどうしたらいいのでしょう。また、自分で頑張れる人は、そうでない人を責めがちです。これがあらゆるハラスメントと温床ともなっていきます。

ここでいうタラントンというのは、現在は才能とか技量を現わす言葉になっていますが、むしろそうではなく、唯一無二であるわたしという存在を意味していると捉えることができるのではないでしょうか。それで、ひとつの提案として、5タラントン、2タラントン、1タラントンというのを、五郎、二郎、一郎として読むということを勧めたいと思います。そうすると、五郎は五郎であることを生きた、二郎は二郎であることを生きた、一郎は一郎であるのに、五郎や二郎になろうとした、あるいは一郎であることを生きなかったというふうに読んでいくことができます。そうするとこのたとえ話の読み方も変わってきます。お互いに比べる必要がなくなるわけです。

仏教のことばで「人身受け難く、今すでに受く」というのがあります。わたしがわたしとして生まれてくるということは、この宇宙の歴史から見ればほぼ不可能なこと、奇跡に近いものがあります。わたしは、他の誰になるのでもなく、このわたしとして生まれさせていただきました。このわたしがこの世界に生まれてくるためには、様々な要素、縁がなければなりません。自分の両親はもとより、その祖先、またこの地域、この国、この自然界、空気も水も、空も太陽も、この地球も宇宙もその何かひとつでも欠けたとしたら、わたしが生まれてくることも、今あることはあり得ないのです。わたしは自分ひとりで生まれてきて、ひとりで大きくなって、この自分がいろんな状況をコントロールしてきたと思うかもしれません。しかし、わたしという存在は、わたしだけでは何もできない、この世に生まれることも、生きることも、また死ぬこともできないものなのです。その証拠に、わたしはわたしの力で、自分で息をすることも、心臓を動かすことも、血を全身に送ることも何もできないのです。

それなのに、わたしはわたし以外の世界を作り、わたしという殻を作ってわたし以外のものを拒否して、そのわたしの中に閉じこもっている、ひとりぼっちの世界に座り込んでいる、それが現実のわたしではないでしょうか。ひとりぼっちの世界に座り込んでいる、それがわたしであると思い込んでいる。わたしとわたし以外の世界を別に作り出し、その世界がわたしにとってどうであるかということしか関心がない、わたし以外は皆わたしにとって利用価値があるかどうかで世界を見ている、そのひとりぼっちのわたしがいる。このようにひとりぼっちの世界に座り込んでいること、これがわたしの迷いであり、そのようなわたしが救われたい、生きたいと願っているのではないでしょうか。そのようなわたしのところへ来て、わたしに働きかけて、わたしとともに歩み、わたしとともに救われていくことを願っておられる方がいる、それがイエスさまということなのではないでしょうか。その方が、わたしに真実のわたしであることを生きてほしいと願っておられる。そして、わたしの本当の願いは、何かが欲しいとか、○○さんのようになりたいということではなく、わたしは真実のわたしになりたいという願いなのです。それが今日の福音のテーマであると思います。

イエスさまが天地創造のまえから、このわたしを呼びだしてくださった、そしてわたしに働きかけ、わたしとともに歩んでおられる、そのことを改めてこころに留めたいと思います。

年間第32主日 勧めのことば 

年間第32主日 福音朗読 マタイ25章1~13節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の賢いおとめと愚かなおとめのたとえ話は、マタイ特有のものです。神の国のたとえ話ですが、どういう意味で、神の国のたとえなのかわかりにくいところがあります。むしろ、このたとえは、マタイ共同体が直面していた主の来臨の遅延という問題に答えるためのものです。正直、このたとえ話からイエスさまの福音的メッセージを聞きわけることは難しいと思います。それで、マタイ共同体ではどういう問題に直面していたのかをお話ししてみたいと思います。

当時のユダヤ世界に広がっていた考え方に、終末思想というものがありました。社会が政治的、経済的に不安定で人々が困窮に苦しむような時代に、その困窮から人々を救うために、神が歴史に介入して困難を取り除かれ、正しい人々は救われ、正しくない人は裁かれるという勧善懲悪の歴史観です。当時イスラエルはローマ帝国の支配下にあり、人々はこのローマ帝国の支配下から自分たちを解放し、苦しい生活を終わらせ、ダビド王のときのような豊かな国土に回復させることのできるリーダーシップのある王を、救い主、メシアの到来を待ち望むようになっていました。そのような状況の中で登場したのが、ナザレのイエスでした。人々はこのイエスという方に、力強いリーダーシップと指導力を期待していましたが、それは見事に裏切られました。イエスさま自身、ユダヤ人の期待するようなメシアではありませんでした。また、人々の期待するような力強い教えを説かれたわけでもありませんでした。

イエスさまのなさっていたことといえば、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の中のデクノボーのようなものだったのだと思います。「野原の松の林の陰の小さな萱ぶきの家にいて、東に病気の子どもがあれば、行って看病してやり、西に疲れた母あれば、行ってその稲の束を負い、南に死にそうな人があれば、行ってこわがらなくてもいいといい、北に喧嘩や訴訟があれば、つまらないからやめろといい、日照りのときは涙を流し、寒さの夏はおろおろ歩き、皆にデクノボーとよばれ、ほめられもせず、苦にもされず…」そして、そのようなイエスさまは、民衆から見捨てられて、十字架に掛けられてしまいました。後の教会が主張する贖罪論や身代わりの死などということを、イエスさま自身意識しておられなかったと思います。ただイエスさまは、何があってもどのようなものであっても、それでもわたしたちは今生かされているということを神の国として語られてのではないかと思います。「神の国は見える形では来ない。ここにある、あそこにあるといえるものでもない。実に、神の国はあなたがたに間にあるのだ(ルカ17:20)」と。人々はそのように生き、死んだイエスさまを、ユダヤ教でいうメシア、救い主として理想化するようになったのではないでしょうか。イエスさまが死んで復活された後も、弟子たちは「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか(使徒1:6)」と尋ねています。しかし、イエスさまが十字架にかかろうとも、イエスさまが死者の中から復活されようとも、人々の生活は何も変わりませんでした。何も解決されなかったのです。いつもと同じように日が昇り、人々の苦しみは続いていく。そのような状況の中で、イエスさまが国を建て直し、正しくないものを裁くために再臨されるという期待が広まっていったのでしょう。しかし、それらは、すべてユダヤ教の終末思想の影響を受けた初代教会の勘違いから起こってきたものでした。イエスさまはそのようなことを生前考えておられませんでしたし、実際にイエスさまの再臨はありませんでした。

しかも後代になると、イエスさまの再臨、最後の審判というのは教会の教えとなっていきました。その再臨、最後の審判への備えとして、賢いおとめと愚かなおとめの寓話を説明するようになりました。そして、その裁きをわけるものが油をもっていたかどうかということになり、その油を聖霊と解釈する説が一般的となっていきます。聖霊はキリスト者のみに与えられたものとし、そのようにして救われるものと救われないものをわけ隔てていきました。キリスト者にしても、罪によって聖霊を失わないように、細心の努力をするようになり、非常に内向きな生き方になっていきました。

賢治は日蓮宗に帰依していきますが、その中で常不軽菩薩の姿に注目していきます。常不軽菩薩というのは、自分の救いを一切省みることなく、ただ他者の真の幸福と救いを誓い、他者の救いのためであれば、最後のひとりが救われるまで自分の救いを後回しにする、そのような菩薩として描かれています。また、いかなる誤解や批判を受けたとしても、仏を敬い続ける菩薩だそうです。日本の仏教の中にすでにそのような伝統があるのです。自分たちは聖霊を与えられたものとして、どこまでも自分を救われたものとして捉えていくユダヤの終末思想と何と異なっていることでしょうか。イエスさまがそのような陳腐な終末思想を説かれたはずがありません。人々の救いのために、自分の救いを最後に後回しにし、自分の救いを放棄された姿、人々が救われるまでは自分も救いに入らない、それがイエスさまの十字架だからです。  

パウロはガラテアの教会の人々に次のようにいいます。「ああ、物分かりの悪いガラテアの人たち、だれがあなたがたを惑わせたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきりと示されたではないか(3:1)」それほどのイエスさまの愛を見せていただいたのにもかかわらず、わたしたちは、まだ自分の業、おきての実行、自分の信仰の強さの程度に頼ろうとし、自分が油を準備しているかしていないかに拘り続けているのです。わたしたちは、今日の聖書の箇所から何を問われているのでしょうか。賢いおとめに倣って、将来、いつ主が来られてもよいように準備しておくことの大切さを強調することでしょうか。それだけなら、わざわざこんなたとえ話をする必要もなかったでしょう。また、わたしたちが自力でふさわしい準備をすることなど出来ませし、その心の状態を常に保てる保証もありません。

わたしたちが生きているのは、今というこのときをおいてありません。わたしが救われるのも、イエスさまが来られるのも、今というこのときをおいて他にはありません。イエスさまが来られること、救いを、将来、未来のことと考えるので、わたしたちは救いを将来のこととして捉え、救われるであろうわたしになろうという浅ましい根性が出てくるのです。このたとえでいおうとしていることは、イエスさまの到来、救いの現在性であるといえばよいでしょう。イエスさまはこのままのわたしを救うといわれるのです。救われるにふさわしい理想的なわたし、油を準備しているわたしを救われるのはありません。油があろうとなかろうと関係なく、今のわたしを救われます。今のわたしを訪れてくださるのです。イエスさまが救われるは、今のままのわたし、闇の中に沈み、泥にまみれた、罪に沈んでいるわたしなのです。わたしは、ただイエスさまにあわれんでいただくことしかない罪人なのです。慈しまれるだけでは足りません。あわれんでもらうことしかできない、そういう存在のわたしなのです。

年間第31主日 勧めのことば

年間第31主日 福音朗読 マタイ23章1~12節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日は、イエスさまが律法学者とファリサイ人を痛烈に批判される箇所になります。もともとマルコ福音書にある短い律法学者への批判を、マタイは律法学者とファリサイ人批判として大幅に編集しました。ここまで徹底的に、律法学者とファリサイ人を批判しなければならなかったのは、当時のマタイ共同体の置かれていた状況が関係していました。マタイ福音書は、紀元70年のエルサレムの滅亡後、80年頃に書かれたといわれています。イエスさまが亡くなって、もう半世紀50年がたっています。それまでのキリスト者たちは、ナザレ派として緩やかに神殿や律法を大切にしながら、ナザレのイエスを救い主として信じるユダヤ教の中の一グループとして存続してこられました。しかし、エルサレムの神殿崩壊後、ユダヤ教は神殿宗教からモーセの律法を忠実に守るというファリサイ主義の姿勢を固めていった時代でもあったのです。その厳格さは、ユダヤ教の中にあったいろいろの宗教的なグループを許さず、律法を中心としたファリサイ主義のみとなっていきました。キリスト者たちは、もはやユダヤ教の中には留まることは許されず、ユダヤ教から独立して異邦人宣教へと向かっていかなければならなかった時代でもあったわけです。そのような状況の中で、マタイ共同体は自らのアイデンティティを再構築していかなければならなくなります。改めてキリスト者とは何かが問われていったのです。

初代教会において、イエスさまの福音の本質を純粋に体験したのは、おそらくパウロだったと思います。パウロは手紙の中で、「律法の実行によっては、だれ一人として義とされない(ガラテア2:16)」といって律法を無効化し、イエス・キリストの信仰によって、信じる者すべてに神の義が与えられると宣言しました(ロマ3:22)。続いて「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みによって無償で義とされる(同3:23~24)」とイエスによる無償の全人類の救いを宣べ、「わたしたちが義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです(同3:38)」と説明します。パウロは、ユダヤ教の律法というものを相対化し、イエス・キリストの贖いの業によって全人類が義とされる、つまり救われるということを宣言したのです。信仰というのも、イエス・キリストの贖いの業によって義とされることを信じることであって、わたしたちが義とされるためにイエス・キリストの贖いを信じることではないのです。信仰というのは、イエス・キリストによって義とされたことがわたしたちにさし向けられた結果であって、義とされるための原因ではないのです。しかし、そのパウロが60年頃にローマで、その後ペトロも殉教して、初代教会の2人の主要な指導者を失います。ペトロも律法を守ることに拘っていませんでした。70年にエルサレムが陥落して、その後80年頃にマタイ福音書が書かれていきます。マタイ福音書が書かれていったとき、パウロが体験したイエスさまの福音、神の国について宣べ伝えるよりも、ユダヤ教から独立していった教会としての制度や教義、倫理に関心事が移っていきます。こうして、イエスさまの福音、神の国を、新しい律法として再解釈がなされていくのです。

イエスさまがいのちをかけて宣べ伝えようとされたのは、神の国の福音です。今日の第2朗読の中で、パウロが自分のいのちさえ喜んで与えたいと願ったのは、イエスさまの福音を宣べ伝えることでした。神の国は、すべての人のうちに働いている神の力、神の愛であって、何かわたしたちが信ずるべき教義や信条、教会のような制度でもなく、また将来や死後に到来する理想的な国土でもありません。神の国は、人間が従うべき新しい律法ではなく、また神さまの好意を得るのに相応しくなるために行わなければならない道徳でもなかったのです。むしろその反対で、神の国は、今現にわたしたち人間を生かし、わたしたちの中に働いている神の場であり、働きを指しているのです。しかし、わたしたちの中で神の国が働いている、イエスさまがともにいて、わたしたちを生かしてくださっているということをわたしたちが体験することは、非常に難しいことだといわざるを得ません。というか、わたしたちが生かされていること、そのいのちを体験することは、わたしたちが普段意識せずに吸っている空気を体験しろといわれているのと同じで、わたしたちに普通にはできないことでもあります。わたしたちがイエスさまによって救われていることを、何かによって確かめたり、証明したり、体験したりすることはできないからです。むしろそれより、新しい律法を守りなさいとか、こういうふうに生きなさいという方がわかりやすいのです。

しかしながら、わたしたちが生かされていること、救われていることを真に体験したならば、わたしたちはどのように生きなければならないか、誰かから教えられなくても自然にそのままわかってくるはずです。しかし、世代が変わり、パウロのようにイエスさまとの生き生きとした出会い、神の国、福音というものを体験することが難しくなっていったとき、イエスさまの福音をキリスト者の生き方とか、おきてとして話すことしかできなくなっていったのでしょう。わたしたちが信仰の継承を難しいと感じることと同じです。ですから、神の国の本来のあり方を、すべてのものは兄弟姉妹であって、わたしたちの間に上下、優劣等の差異がないのだと、旧約の律法を再解釈して話していったということだと思います。

なぜなら、わたしたちの中に、先生とか、父とか、教師といわれるような、上下関係、優劣を作り出さざるを得ないものがわたしの存在の根底に歴然としてあるからです。わたしたちは兄弟姉妹であって、そこに差異がないということをいわないと神の国の本来のあり方がわからないのです。もし、そのように生きていたら、兄弟姉妹だという必要もないし、兄弟姉妹なのだと意識することもありません。そのように意識されるということは、そうでない状況があるからなのです。わたしたちの世界は、教会も含めて、これほど上下、優劣の区別がひどいのはどうしてでしょうか。「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」というのが教会の常套句ですが、このようにいわないではいられないほど、わたしたちは愚かなのだということなのです。

現在少子高齢化ということが盛んにいわれます。日本のGDPが4位になるとニュースになっています。なぜ、子どもが少なくて、高齢者が多いことがいけないのでしょうか。GDPが4位になってはいけないのでしょうか。それは、子どもが多いことはよいことで、高齢者が多くなることは悪いと考えている、つまり歳を取ること、老いることを悪と考えているからでしょう。そして、やっぱり下より上がいいと思っている。キリスト者といえども、本音では上がいい、偉くなりたいと思っている、だから仕えるものになり、へりくだるものになりなさいというその程度なのです。根底にある問題は、あらゆる物事を二極にわけて、たとえば生まれることはよいこと、おめでたいこと、死ぬことは悪いこと、縁起が悪いというふうに考えていることにあります。そして、そのことに気づきもしないほど、わたしたちは愚かなのです。死ぬのも生きるのもわたしの中で起こっていることなのです。

しかし、このような愚かなわたしたちが、イエスさまによって生かされ救われているのだ、このことが神の国、神の国の福音なのです。愚かなのは他の誰でもない、このわたしです。イエスさまがいのちをかけて伝えようとされた神の国の真実に、わたしたちの心の目が開かれるよう祈りましょう。

年間第30主日 勧めのことば

年間第30主日 福音朗読 マタイ22章34~40節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日はキリスト教の中で2つの愛のおきてといわれる、神への愛と隣人愛についての箇所が朗読されます。その他にも黄金律という教えがあり、「人からしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい(マタイ7:12)」というものです。これらは、イエスさまが教えたことのようにいわれていますが、いずれも旧約聖書の教えです。神への愛は申命記6章にあり、隣人愛はレビ記19章18節にあります。また黄金律はイエスさま自身も「これこそ律法と預言者である(同7:12)」といわれ、当時のユダヤ教でも律法を要約したものとして考えられていました。日本でも「人にされたくないことは、人にしてはいけない」と教えられています。今日の箇所で2つの愛のおきてを、イエスさまは「律法と預言者は、この2つのおきてに基づいている」といわれています。マルコ福音書にも同様の箇所がありますが、この2つのおきてについてそれを重要視することは、「神の国から遠くない」といわれました。遠くないということは、近くもないということで、神の国の教えであるとはいわれませんでした。それがどうして、イエスさまの教えであるかのようにして教えられてきたのでしょうか。

おそらくマタイ福音書が書かれる時点―イエスさまが亡くなってから半世紀も経っているのですが―、イエスさまの伝えようとした福音を新しい律法として解釈し、福音内容をその律法遵守である置き換えがおこなわれてしまったといってもよいかと思います。事実マタイは、イエスさまを律法の完成者として描いていきます。マタイの共同体には、ユダヤ人が多くいたことも関係していると思われます。イエスさまの宣べ伝える神の国の福音を、先祖から慣れ親しんできたモーセの律法を大切にしながら、イエスさまを救い主として信じることのほうがわかりやすかったのでしょう。宗教として、これこれのおきてを守りなさいと教えるほうが、今まで聞いたこともないようなまったく新しい神の国の教えや神の愛を説くよりも、はるかにわかりやすく簡単だったのだと思います。つまり、イエスさまの説く理解しがたい壮大な神の愛よりも、わたしたち人間が神を愛する、隣人を愛することを説くほうが簡単だということです。簡単だというのは、実践しやすいという意味ではなくて、人間の頭にはわかりやすいという意味です。なぜなら、人間が主語ですから、人間の頭で、人間の範疇で考えられるということです。しかし、神の愛となると主語は神さまですから、雲をつかむようで、わたしたち人間にはどのようなものかわかりません。神さまというのは人間の理解を超えておられます。ですから、イエスさまはその神さまの愛を人間に説くときに、それを神の国、神の支配といい、すべてたとえで話されました。

たとえで話すということは、人間のことばでは説明できないので、たとえで話すということです。それを、現代では宗教学的には神話といいます。神話というと、科学的に証明できない作り話、夢物語だというふうにとらえられるかもしれません。しかし、そのように考えるようになったのは、科学が発達して、実証できるものがすべてであると考え、特に科学的、歴史的に証明できないものはすべて真実ではないと考える近代主義の風潮が広まった19世紀頃からです。しかし、20世紀になって、神話とは人間の理性的な言語で表現し得ない、根源的な真理を語る言語であるという発見がされていきます。それで、知性で表現できない真理をお伽話ふうにいうのです。お伽話ふうにいうのは、そのようにいわないといえない深い真理があるという意味であって、そのことは作り話だとか、嘘だとか、事実でないとか、科学的根拠がないとかそういうことを問題にしているのではないのです。人間の世界のことなら、理屈でいえばわかります。聖書はそのような種類の話ではないのです。わたしたちの根源的な真理について解き明かそうとする書物なのです。たとえ、いのちの真実についていくら理屈で説明されても、科学的にDNAがどうのといわれても、そこに本当の救いも喜びも感じられません。しかし、人間のことばを超えたことばで話されるとき、わたしたちはやっと心動かされ、人間の闇という迷いから目覚めることができるのです。

それは、わたしが主語にならない世界、わたしが絶えた世界であるといえばいいかも知れません。わたしが神を愛する、わたしが隣人を愛するではなくて、神さまがわたしを無条件で愛しておられる、イエスさまが伝えたかったことはそれだけではないでしょうか。わたしたちはよいことをすればするほど、よいことを考えれば考えるほど、わたしは正しいとおもってしまいます。しかし、わたしは正しいとおもったとたんに、それは邪見となってしまいます。人間の考えるものはすべて正見とはいえません。わたしたちのものの見方は、どんなに学問がある人の見方でも、どんなに誠実な正しい人のものの見方でも、どんなに心優しい人のものの見方でも、皆自分を中心にしてものを見ている限り、それは正しいものの見方であるとはいえません。ですから、どれだけ頑張って神さまを愛そうと、どれだけ誠実に隣人を愛そうとも、それは神さまの愛に及ぶことなどあり得ないのです。イエスさまの説かれたのは、人知の及ぶことのない神さまの愛でした。その愛は、「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分のいのちをささげるために来た」といわれる愛です。その愛を、イエスさまはご自身の生き様で示されました。わたしがどのように神さまを愛するとか、わたしがどのように隣人を愛するとか、自分にしてほしいと思うことを人にするといった、自分を中心にした愛とイエスさまの生きられた愛は同じものではないのです。人間中心の現代人には、そのことを理解するのが難しくなってしまっています。

確かに旧約聖書の中にも神さまの愛の啓示があるのでしょうが、人間が理解したことは律法と預言者を中心とした人間側が律法を守ることで神さまと隣人への愛を実行することでした。いずれにしても、人間の次元のことが問題にされ続けてきました。それが、神さまへの愛か隣人愛のどちらが大切かというような議論になったり、祈りか活動かという議論にもなったりしてきました。これが、長年教会が陥ってしまった、すべてを人間の業に還元するという人間中心主義です。神への愛も隣人への愛も、所詮は人間が主語になっており、その是非を議論すること自体意味がないとはいいませんが、それは宗教ではなく道徳の問題です。そこで根本的に欠如しているのは、神さまのわたしへの愛です。神の愛は、わたしを無条件で平等に救う、わたしをゆるす、わたしを守る、わたしを助ける神さま、イエスさまのわたしへの働きすべてを指しています。その働きが神の国であり、神の働きであり、聖霊の働き、イエスさまの働きなのです。その神さまの働きなしにして、人間の何かがあるはずがありません。前提そのものが異なっているのです。そのことをパウロは「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました(ロマ5:8)」とか、ヨハネは「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛してくださった(Ⅰヨハネ4:10)」というふうに表現しました。わたしたち人間が出発点にはなることではないのです。神の愛なしにはわたしたちは存在しえないのです。それがエフェソ書になると「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して…(1:4)」と深められていきます。愛は永遠ですから、愛する神も永遠、愛されるわたしたちも永遠であるということが暗にほのめかされていきます。愛は、愛するものと愛されるものがありますが、その本質は“いつ”です。愛の本質においては、愛し愛されるという区別さえもないということなのです。イエスさまは、このような大きないのちの世界、愛の世界をわたしたちに、神の国として示されたのです。そのようなものがわたしたちの頭でわかるはずがありません。だから、たとえで話され、神話という手法が使われていったのです。わたしが頭でわかり、納得してわたしが信じることが宗教ではないのです。わたしたちが触れることのできない神秘への感覚、それが宗教なのです。

年間第29主日 勧めのことば

年間第29主日 福音朗読 マタイ22章15~21節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の箇所は共観福音書のマタイ、マルコ、ルカに並行箇所のある朗読です。ファリサイ人とヘロデ派という2つのグループが出てきますが、この2つのグループは通常は行き来をしない人たちです。しかし、イエスさまを罠に陥れるという自分たちの利害のためであれば仲良くなるという、人間の醜い姿が描かれていきます。

ファリサイ人たちは、律法に徹底的に従う生き方を追求した人たちであり、ローマ皇帝を神として信奉するローマ帝国の支配は律法の遵守を妨げていると考えていました。ですから、皇帝に税金を納めることをよしとしませんでした。それに対するヘロデ派というのは、ローマ帝国による傀儡政権であるヘロデ王家を支持する人たちですから、当然皇帝に税金を納めることをよしとしていました。そのような主義主張が異なる2つのグループは、決して行動を共にすることはなかったのです。しかし、自分たちにとって都合の悪いイエスという人物を陥れるためであれば、協力し合ったという事実が描かれています。このようなことは、人間の世界にはいくらでも起こることなのです。初代教会でステファノの殉教の直後に起こった迫害においても、12使徒のグループだけは迫害を免れており、ディアスポラと呼ばれた国外居住のユダヤ人の弟子たちが迫害されています。日本26聖人の殉教のときも、フランシスコ会士は逮捕されていますが、イエズス会は迫害を免れています。

今日の物語で、イエスさまを罠にはめようとした人たちの挑発に対して、イエスさまは彼らの土俵には乗られませんでした。彼らは人間の欲と思惑の中に生きていましたが、イエスさまはその質問を逆手にとって、そのように生きている彼らの土俵自体を問われたのです。それが「これはだれの肖像と銘か」という問いです。通常貨幣には、その国の銘と肖像や国家権力を象徴するものが刻印されています。つまり、その貨幣はその国でだけ通用する価値観であったり、文化や思想をも表しているのです。それによって、その貨幣がその国のものであることを主張するわけです。その貨幣がその国のものであれば、当然その貨幣はその国に所属するものです。デナリオン銀貨には神である皇帝の銘が刻まれています。皇帝の銘が刻まれているのであれば、そのデナリオン銀貨は皇帝のものです。それでは、あなたがたは一体だれのものか、何者かということが問われているのです。ですから、今日のテーマはわたしたち人間、そしてこの世界、すべてのものは一体なんであるかという問いなのです。それが皇帝から来ているのであれば皇帝に返しなさい。もし、これが神から来ているのであれば神に返しなさいということです。わたしたちは、このわたしを、この世界を、この宇宙をどのように理解しているのかということが問われているのです。

一般的な聖書の世界観では、創造主が天地万物を創造していのちを与え、被造物の頂点として人間を創造し、他の被造物を人間の支配に委ねたと考えられてきました。モーセ5書はいくつかの伝承で構成されていますが、創世記の天地創造の記述は、紀元前4世紀に成立した比較的新しい祭司伝承と、もっとも古いといわれているヤーウェ伝承によって構成されています。特に人間を万物の頂点として考えるものは、祭司伝承によっています。しかし、創世記の中心的なメッセージは、神がすべてのいのちあるものの源であり、いのちそのものであるということを述べようとするものです。人間とこの世界、他の被造物との間に優劣をつけるという考え方は、聖書の中でも後代のものであるといえます。しかしながら、人類が万物の霊長であって、神に代わって他の被造物を支配し利用するという考え方は、ユダヤ教、キリスト教の中で主要な教えとして広まっていきました。この土地はわたしたちの先祖が神からもらった土地だというユダヤ教のシオニズムは、まさにそのような世界観に基づいているのです。そして、その発想がヨーロッパ世界に広がっていき、国家が築かれ、キリスト教的世界観に基づいた社会が作られていきます。その発想が大航海時代、植民地政策、産業革命を引き起こし、その世界観が現代世界の主要な価値観になっていきました。日本も明治以降、そのような世界観に飲まれていきます。現在のSDGsという発想も、よい点もありますが、所詮ヨーロッパ由来のものであり、この自然界を人間に都合よくコントロールしようとする人間中心主義の世界観から出てきたものです。

しかし、イエスさまの思いは、このものの銘はだれのものか、これは誰のものかという人間中心主義の発想ではありません。そもそも、あなたがた生きとし生けるもののいのちの根源は何かということを、イエスさまは問われたのではないでしょうか。あなたがたは、このコインの銘をたずねている、つまり誰の所有物であるかをたずねているが、この宇宙にユダヤ人のもの、ローマ皇帝のもの、人間のもの、わたしのものといえるものがあるのかということを聞いておられるのです。そして、わたしのものだと主張しているあなたは一体何者かを問うておられるのです。

わたしたちは、自分の思い通りになるものをわたしのものであると思い込んで生きています。そして、わたしのものと思うものの範囲を広げていくことを人類の進歩、成長と教育されてきました。そこまでいかなくても、わたしたちはこういうことができる、こういうものをもっている、こういう資格をもっているということがわたしの価値を決めるかのように考えています。ですから、小さいときから、何かができたということを褒められ、優劣、競争の中で、人よりできること、より優れていることを求められ続けてきました。しかし、わたしたちが呼吸をしたり、心臓が動いたり、血液が流れたりというもっとも基本的なこと、生きているということを、わたしは自分の力では何もできないのです。そして、わたしは空気、水、光、食べ物、飲み物等それらなくしては、生きられない存在なのです。わたしは、わたしだけではわたしになれない、わたしになることさえできない存在なのです。それなのに、わたしをわたしでないものと区別して、区別したものをわたしのものであると勘違いして、その範囲を広げようとしているのがわたしなのです。わたしは、元々わたしだけでは生きられない、この世界、宇宙そのものの中に根を張って存在しているのがわたしです。この世界、この宇宙なしにはわたしは存在することができないのです。その世界を、その宇宙をわたしのものであると主張し続けているわたしがいるのです。もともと、わたしとわたしが区別しているものとは別のものではありません。わたしが区別しているだけであって、わけることができないひとつのいのちである、それが「神のものは、神に返しなさい」といわれたことなのです。

そのことをわたしたち日本人は、わたしたちが生きているのではなくて、「いかされている」とか「いかしていただいてる」といっていました。わたしが自分で生きていると主張する現代の世界観ではなく、イエスさまは、わたしたちは生かされているのだと仰っているのです。日本では、わたしが働きますとはいわないで、「働かせていただきます」とか「働かさせていただきます」といいます。それは、俺が自分の力で働いて稼いで、その金で食べているんだというのではなく、わたしが働けるのも、食べられるのも、すべて大自然の力や人々の助けのおかげさまと感じているということなのではないでしょうか。だから、わたしが食べるとはいわないで、「食べさせていただきます」、すなわち「いただきます」といっていのちをいただく、食事をするのです。食べさせていただけるのも、太陽、雨、空気、大地、それを育てる人、運ぶ人、商う人などいろいろなものや人の手を借りて、わたしのもとにいのちが届けられているということを知っているので、俺が自分の力で稼いで、その金で食っているとはいわないのです。そこには、これは誰のものだ、わたしのものだ、俺のものだという発想がありません。すべていただいたものなのです。これは、古来日本人が生きてきたことなのです。イエスさまは「皇帝は皇帝に、神のものは神に」ということで、創世記に描かれている本来のいのちの世界を示されたということができるのではないでしょうか。

年間第28主日 勧めのことば

年間第28主日 福音朗読 マタイ22章1~14節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の福音では、神の国が遍くすべての人に及ぶ救い、善人悪人を超えた救いであることが語られています。新約の時代になって、婚礼に招かれているのは、あらかじめ用意ができているふさわしい人たちだけではなくなりました。そのことが、町の大通りにいって見かけたものは、善人も悪人も皆、婚宴の食事に招くこととして示されています。イエスさまの説く救いは、善人悪人という区別を超えたものであることがはっきりといわれているのです。しかし、ここで問題にされていることは、婚礼の礼服を着ていないものがいたということです。この婚礼の礼服についてはいくつかの解釈があり、一般的には神の国に入るためにふさわしい行いのことであると聖書学者たちは説明しています。善人悪人を問わないといっていながら、神の国に入るためのふさわしい行いが改めて問われるのはどうしてでしょうか。善人悪人を問わないといいつつ、また行いのふさわしさを問うというのであれば、自己矛盾に陥ってしまわないでしょうか。今日はこの問題を考えていきましょう。

今日の福音書の結びのことばは「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」となっています。これをみると、誰もが無条件に救われるわけではないと主張しているとしか読めません。これでは、すべての人の救いを説くという福音の教えにすでに矛盾があるわけです。実は、無条件の救いを理解することは非常に難しく、教会の中では、救いのために必要な条件として2つの考え方がいわれるようになっていきました。ひとつはパウロに代表される「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みによって無償で義とされるのです…人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰による(ロマ3:24~)」と述べて、救いに必要なのは行いではなく、(わたしの)信仰だと主張しました。その一方で、ヤコブは「行いの伴わない信仰は役に立たない(ヤコブ2:20)」として信仰に基づいた行いの重要性を説きました。この信仰か行いかという論争がなぜ起こったのかというと、信仰のみといえば、行いはどうでもよく、信仰者としてふさわしくない行動を取る人が現れるかもしれない。また、行いも必要だといえば信仰の必要性よりも、もっぱら行いに目を向けるファリサイ主義に陥る危険性がある。このことは教会の中で、行いか信仰かというカトリックとプロテスタントの長年の議論ともなっていったわけです。しかし、ここで指摘しなければならないのは、信仰か行いかという議論自体が、人間の次元での議論になっているということです。善人も悪人も救われる、つまり救いは人間の信じるという行為や人間の行いに関係ないといっておきながら、今日の福音では、婚礼のための礼服は神の国に入るためにふさわしい行いであると解釈されていることです。これは、人間の善悪を問わないといっておきながら、結局は人間の行いをふさわしいふさわしくないと区別して、招かれた人の中に、ふさわしいふさわしくないという善悪の基準を作り出していること、神の招きと選びの線引きをするという根本的な矛盾を作り出しているということです。

結局は、人間の救いを、善人悪人を問わない一切平等の救いであるといいながら、ふさわしいふさわしくないという区別を作り出し、人間としてよいものとなって救われていくのだという振り出しに戻っているということです。人間は何が善で悪であるかわからないのにも関わらず、自分はよい人でありたい、どこかでよい人になって救われていく、悪いことをすれば救われないというふうに、わたしの善悪に捉われている姿が繰り返し現れてきています。わたしたちは宗教を聞けば、善悪がはっきりすると考えていますが、むしろ宗教を求めれば求めるほど、善人でいきたいとおもっていても、自分の身を自分で決められない我が身が知らされるのではないでしょうか。もし、今、わたしが善人の顔ができているとしても、それはたまたまであって、状況が変われば何をしでかすかわからないのがわたしの身です。わたしたちは、他の人たちが救われなくても自分は救われると思っています。しかし、これは本当の自分の姿を知らないだけであって、わたしたちがイエスさまとの関わりを深めていけばいくほど、世界中の人が救われても、わたしは救われないということが見えてくるのです。もし、その自覚がないのであれば、わたしの信仰生活はほとんど進んでいないということになります。わたしたちは、わたしはまともだと思っている、わたしは婚宴に招かれて、ふさわしい礼服を身に着けていると思っている、これこそがわたしたちの迷いなのです。

わたしたちがどれだけ熱心に信じても、わたしたちがどれだけ善行を重ねたとしても、それは人間の業でしかないのです。わたしの信仰も、わたしの行いもそれは所詮人間が作り出したものであって、それは人間の私利私欲にまみれたものでしかありません。それを信仰か行いかといって議論していることこそが、愚かな人間の迷いに他ならないのです。人間の迷いとはわたしの心の問題に留まっていることです。  

わたしたちは、わたしの信仰によって、わたしの行いによって救われるのではありません。教会は、「律法の実行によってではなく、キリストへの信仰によって義とされる(ガラテア2:16)」と教えてきました。つまりイエスさまを信じるというわたしの行為が、救いの条件であると教えてきたのです。しかし、「キリストへの信仰によって義とされる」という訳は、信じる主体としてのわたしを主語として訳すのではなく、救う主体であるキリストを主語として「キリストの信仰によって義とされる」と訳されるべきであるということが、近年の聖書学でいわれています。わたしたちは、「キリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みによって無償で義とされる」のであって、わたしがイエスさまを信じるというわたしの行いによって義とされるのではないのです。「キリストの信仰による」救いというのは、イエスさまがわたしを必ず救うと誓われたその願い、その誠実によって、わたしたちは救われるという意味なのです。わたしが救われるのは、救われるためのふさわしい行いや、救われるためのふさわしく信じるというわたしの行いによるのではないのです。救われるためのふさわしい行いも、救われるためのふさわしいわたしの信仰も、わたしが基準になっているだけで、イエスさまの救いの根拠にはならないのです。

パウロが「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みによって無償で義とされる」といったことを、初代教会でさえも理解することが難しかったというのが現実だと思います。結局、パウロの手紙のほぼ30年後に書かれたマタイ福音書においては、人間が救われるための条件として、救われるためにふさわしい行いという概念を導入してくるのです。そして信仰も、神さまがわたしを救うと仰っている、神さまのわたしへの信仰ではなく、わたしの神さまへの信仰と読み替えられていくようになっていきます。それほど、イエスさまの語られた神の国の福音、遍くすべてのものが救われるということは人々には理解しがたく、受け入れることが困難であったということです。ですから、ファイリサイ人で律法の遵守や信仰生活に人一倍熱心であったパウロが、もはや律法を守るという人間の行いによって、自分の信仰心によって義とされるのではなく、イエスさまの信仰、イエスさまがすべての人を救うと誓われたイエスさまの誠実によって義とされるのだと宣言するときの力強さは有無をいわせない力があります。パウロの「キリストへの信仰」と訳されてきたピステスという言葉は、「キリストの誠実」、「キリストの真実」と訳すべき言葉です。それを教会は2千年の間、「キリストへの信仰」と訳し続け、救いのために必要な人間の信じる行為、また人間の行いを強調し続け、イエスさまの救いの真実を覆い隠してきたということは謙虚に認めなければならないと思います。救いを、人間の手から、教会の手から、イエスさまにお返ししなければならないのです。イエスさまの真実-善人悪人を超えた遍く救い-に、今日、わたしたちを真に気づかせてくださるよう恵みを願いましょう。

年間第26主日 勧めのことば

年間第27主日 福音朗読 マタイ21章33~43節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日はぶどう園に息子を送る主人のたとえ話です。このたとえ話は、明らかに救いの歴史における御父のこの世界への御子の派遣と御子の受難の物語です。わたしたちは何度も、このような話を聞いていますから、そのことを当たり前のように聞いています。しかし、現実はわたしたちが考えているより、もっと深いものです。ぶどう園の主人は、すでに自分の僕をぶどう園に何度も送っていますが、いずれも散々な目にあっています。中には殺されたものもでるぐらいです。そこに、自分の最愛の息子を送ろうというのです。まさに旧約の歴史、その頂点である御子の受肉、御子の派遣の出来事であるといえるでしょう。

あるとき、教会学校でこのぶどう園の話をしていたら、ある子どもが、「そのお父さんはずるい。危険な目にあうのがわっていて、自分が行かないで息子をいかせるなんて」といいました。確かに嫌なことは自分でしないで、他の人にさせるとかいうようなことは巷には溢れています。お父さんは保身に走り、息子を犠牲にしたというふうに捉えられても仕方ありません。それも、息子が殺された後、ぶどう園にいって僕たちを皆殺しにするぐらいなら、最初から自分がいけばいいのにと考えるのも当たり前の反応だと思います。ここで、いくらお父さんは自分の子がとても大切だから、あえてぶどう園に送ったのだとか、そこから贖罪論を説明しても、現代人が理解するのはかなり無理があると思います。しかし、聖書が書かれた時代、父と子の関わりというものにたとえて、神さまの本質が何であるかを述べようとしました。しかも、わざわざたとえで話すということは、ぶどう園の主人の思いというものは、わたしたち人間には決してはかり知ることができないものであることを知らせるためだったのではないでしょうか。

わたしたちの存在はそれぞれが置かれている状況や場面によって、あり方が変わってきます。つまり、わたしたちは他者との関わりによって、自分の存在のあり方が決まってくる関係存在であるといえます。今日の福音の中では、主人と僕、僕と労働者、主人と畑の労働者、父と子という関わりが出てきます。僕は主人がいてはじめて僕という立場があり、主人も僕がいて主人という役割が成り立ちます。この主人と僕の関わりは、主従関係といえます。主人と畑の労働者、僕と労働者もいずれも主従関係でしょう。しかし、父と子の関わりというのは主従関係ではありません。親子関係なのですが、この親子関係というものは、人間の関わりの中でもっとも根本的な関係であるといえます。わたしたちは親子関係を理解するときに、すでに親となる存在があって、あるときにその存在が親になると考えます。つまり、親は子の存在より先行していると考えるのです。確かに、生物学的にいえば、親となる個体は子の存在より先行しています。親は子より長く生きているという意味において、先輩であるといえるでしょう。しかし、純粋に親子という関係を見ていくと、親は子どもがいなければ親になることはできません。子どもも親がいない子どもというものはいません。その意味では子どもが3歳であれば、親も3歳しか親としては生きていないのです。ですから、親子関係というものの中に本来、上下、主従関係というものはありません。親は子どもによって親にならせていただいているのであり、子どもも親によっていかさせていただているのです。親子の本来の関わりは、お互いに相手があってはじめて、自分がいさせていただく関わりであって、親と子とはある意味で一体であるといえるでしょう。そのことをイエスさまは「わたしと父とひとつである(ヨハネ10:30)」といわれました。だから、本来的には子どものいのちは親のいのち、親のいのちは子どものいのちであり、子どもの喜びは親の喜び、親の喜びは子どもの喜び、子どもの痛みは親の痛み、親の痛みは子どもの痛みなのです。

ですから、このひとつという意味は、親しいとか、固く結ばれているという外的な一致を説明するだけではなく、パウロのキリストの体のたとえでいわれるような存在論的な一致を意味しています。そのような意味でいえば、わたしたちも神の子らとして、神のいのちをいただいて同じ神のいのちを生きているものとして神さまとひとつです。また、そのいのちをともにいかされているものとして、わたしたちはこの世界とひとつであるといえます。このようないのちそのものの根源的なあり方を、今日のたとえ話では父と子として示されているのだといえばいいでしょう。わたしはこの世界なしにはあり得ない、またこの世界もわたしなしにはあり得ない。同様にわたしは神さまなしにはあり得ない、神さまもわたしなしにはあり得ない。なぜなら、本来わたしたちはひとつ、“いつ”だからです。ですから、父親が子どもをぶどう園に送るのは、それは自分がいくことと同じなのです。そこで子どもがひどい仕打ちを受けることは、自分の身にそれを受けることなのです。このような存在論的な深みまで入っていかないと、今日の箇所を真に理解することはできません。しかし、近年親子の強弱関係の面がクローズアップされ、虐待とかさまざまな関わりの歪みが社会問題として表れてきています。ですから、神さまの本質を親子、父と子の関係から説明するという教会の手法自体が、現代では破綻しているといっていいのかも知れません。わたしたちは、神さまにについて語るのに、もっと他のことばを探さなければならないのかもしれません。

わたしたちとこの世界、この社会、他者との関わりを見てみると、どこまでいっても自分を中心にして、自分を上位におき、自分以外のものを下位において、それらを支配し、所有し、コントロールする対象としてしか見ていません。それが今日の福音の中で、いのちを搾取し、強奪し、殺略していくぶどう園の労働者の姿として描かれています。これは、まさに人間の姿が描かれているのです。仏教では六道ということがいわれています。地獄、餓鬼、畜生、人間、羅刹、天は、人間が生まれ変わる6つの存在様式として説明されています。そうではなく、六道というのは、わたしが生きている姿そのものを教えているのです。天というのは快楽が満たされる世界、羅刹は憎しみと戦いの世界、畜生は弱肉強食の世界、餓鬼は終わることがない貪欲の世界、地獄はひとりぼっちの世界です。それは、どこかにあるのではなくて、自分のいのちにだけ執着して生きているわたしたち人間の中にある現実なのです。そのようなわたしたちにまことのいのちが現わされた出来事、それがイエス・キリストなのです。ですから、親子関係というものが破綻している現代において、そのことを聖書のたとえ話として語るのではなく、イエスさまにおいて現実に起こった真実そのものを伝えていくことの方が適当なのではないかと思います。

イエスさまこそがまことのいのちであり、そのまことのいのちは、自分から出ていくこと、自己超越していくことで、いのちとなっていくということです。そのことを救いといっているのです。ただ、いのちはわたしという輪郭を取ることによってしか、まことのいのちになることができません。けれども、わたしがわたしという輪郭の中に留まることに拘るのであれば、まことのいのちを生きることはできないのです。いのちは、自分という枠を自ら壊していくことによってしか、まことのいのちになることはできないのです。これが生きとし生けるもののいのち本来の自然な姿、まことの姿なのです。親子という関係性でいのちを理解していくのではなく、いのちそのもののもっている本来のあり方をイエスさまの生き様として捉えていくことの方が現代人にはわかりやすいと思います。この自分を超えていくという動きは、人間の努力によるとか、子を送るお父さんの意志であるというより、すべてのいのち本来のもっている願いであると捉えることができると思います。だから、イエスさまは「野の花を、空の鳥をみなさい」といわれました。それをいのちのダイナミズム、願いであると捉えていく、人間の努力とか意志とかによるというより、そのいのち本来の願い、働きであり、それは自然なもので、それにこそ目覚めよというのがイエスさまからの呼びかけであり、信仰であるといえるのではないでしょうか。

年間第26主日 勧めのことば

年間第26主日 福音朗読 マタイ21章28~32節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日は2人の息子のたとえが語られます。ここ数週間、共観福音書に並行箇所のないマタイ固有の箇所が朗読されています。今日のたとえは、畑にいくといっていかなかった弟と、いかないといっていった兄の話です。このようなたとえ話が読まれると、さて自分はどっちだろうという話になりがちです。そして、いつでも考え直す機会が与えられているという教訓話になってしまいます。これなら、わざわざたとえで話すまでもないことです。このような読み方や説教が間違いとはいいませんが、ある意味で視点がずれているといえると思います。なぜ、そのような読み方になるのかというと、自分が救われるかどうかばかりを気にしているからだといえます。宗教において、救いは重要関心事ですが、イエスさまがわたしたちに問うておられるのはわたしがどうしたら救われるかではないのです。「徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう」といわれていますが、それでは畑へいかなかった弟は神の国に入れないのかというと、そういうことではありません。

今日の福音が問題にしているのは、誰が神の国に入れるか入れないかということではありません。わたしたちは、イエスさまが望んでおられるように、畑にいって働くことで救われると思っています。つまり、イエスさまの望みを聞いて、最初はそれが嫌かも知れないけれど、自分の心で考え直して、わたしが自分で決断して畑にいって働けば救われると考えているのです。これは一見正しいことのように思えますが、これだけなら自分の心をどういうふうにするのかだけの話です。つまり、わたしが自分の心を変えることが救いにかかっていると考えているということなのです。イエスさまの話を聞いて、自分の心を整えて、イエスさまによって救ってもらえるわたしを作り上げようとしているわけです。わたしたちは、イエスさまにちゃんと救ってもらえる、理想のわたしになっていくことで救われると思っているのです。なぜそうなるのかというと、今、イエスさまによって救われていることをわたしは知らないからなのです。よく、今日のお話はよかったとか、自分の心をみて今のままではだめだから、自分の心をこしらえて救われていこうとする、これは未来の自分を作り上げようとしているだけなのです。わたしが自分の心を整えて、こしらえても、どこまでいってもわたしの心はぐらぐらです。わたしたちは、まことの心にならないと救われないとどっかで教え込まれているのかもしれません。しかし、まことの心などわたしの中にあるはずがありません。

今日のテーマは、神の国は、今のわたしに対して呼びかけとなっているということなのです。このたとえ話を表面的に読むと、徴税人や娼婦たちは神の国に入れるが、祭司長や民の長老は神の国には入れない、だから心を改めましょうというふうに読んでしまいます。そんなことは何処にも書かれていません。神の国はすべての人に対して平等に開かれており、平等な呼びかけとなっているということなのです。わたしたちは、誰が入れて誰が入れないとか、誰が救われて誰が救われないとか、ものごとを二項対立で理解しがちです。これが根本的に間違っていることなのです。イエスさまがあなたは神の国に入れるが、あなたは入れないといわれる方でしょうか。そうではなく、イエスさまの呼びかけは、今、直ちに来たれという呼びかけなのです。そのことだけがいわれているのです。イエスさまの呼びかけは、他の誰でもない、今のわたしに届いているのです。何年か後によくなるだろうわたしに届いているのでも、救われ難いとわたしが思っている他の誰かに届いているのでもありません。わたしが生きている今というとき、この刹那のときに、わたしに届いているのです。イエスさまは、わたしの心を整えてから来なさいといわれません。今のわたしに、まことの心などあるはずがありません。しかし、今、直ちにそのまま来たれ、わたしはあなたを救うというのがイエスさまのお呼びかけなのです。ですから、まことの心はわたしの心ではなく、今のわたしを呼んでおられるイエスさまの心なのです。

子どものころお盆になると、お寺で地獄極楽の掛け軸が掛けられて、みんなでそれを見に行きました。極楽の方の掛け軸は子どもたちに人気はなくて、みんな地獄の方に集まっています。どうしてでしょうか。嘘をついた人は舌をぬかれ、いのちを傷つけたものは針の山を登らされる。地獄の絵というのはみんな、それなりに身に覚えがあるのです。極楽の絵は、すべてのものが平等に救われていく世界ですから、誰も身に覚えがないので人気がないのです。そのようなわたしが、地獄にいかないように自分の心をどうこうすることなど、たかが知れています。悪を避けてよい人になりなさいなどというのは、自分の心を少しましなものにしようとする心でしかありません。わたしたちが自分の心をこしらえて救われていくことではないのです。そうではなく、地獄いきのその浅ましいわたしに、直ちにそのまま来たれというのがイエスさまであり、神の国の呼びかけなのです。わたしが心で決めて、畑にいったかいかなかったというような問題ではないのです。それは結果であって、どちらが救われて救われないとか、どちらがよくてよくないという話ではありません。そんなことに一切関係なく、そのままのわたしをイエスさまは今、呼んでおられる、そしてその呼びかけがわたしに届いているということなのです。これは、呼びかけがわたしに届いていることを信じることでさえないのです。イエスさまの呼びかけがわたしの心に届いて、わたしの心を動かしているイエスさまのまことが、イエスさまよりいただく信仰なのです。わたしが信じる心を作るのではないのです。わたしが信じたこと、わたしが納得したこと、わたしが積み上げてきた祈りとか善行によって救われていくのではないのです。そんなものは、何かがあればすぐにあえなく崩れ去ってしまいます。わたしの思いはすべて疑心でしかありません。そこに救いはないのです。わたしを救うといって、わたしを呼ばれていることだけが真実であり、そこにまことの信仰の根拠、救いがあるのです。

年間第25主日 勧めのことば

年間第25主日 福音朗読 マタイ20章1~16節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日はぶどう園の労働者のたとえです。ここでは、神さまの絶対平等性について語られています。今日の福音を読むと、朝早くから働いても、夕方5時から働いても同じ報酬を支払うぶどう園の主人の姿が描かれています。これこそ、イエスさまの救いの絶対平等性を現しているといえます。そのイエスさまの救いのあり様が、神の国であるといったらいいと思います。宗教は、この絶対平等性を説くのが本来の姿です。しかし、ことはそれほど単純ではありません。

なぜなら、宗教というものは、本質的に差別を生み出す危険を抱えているからです。というのは、どの宗教もそうですが、宗教は救いということを説いていきます。あなたは救われたんですよということで、その人に特別な意識をもたせ、その人を幸せにしようとしていきます。それ自体悪いことではありませんが、これは一歩間違うと麻薬になってしまいます。あなたは救われたといった瞬間に、救われたものと救われていないものの区別を作り出してしまうからです。わたしたちは、救われるということは特別なことで、救われたわたしは特別なものだと無意識に考えているからです。このことが、宗教についての根本的な間違い、錯覚を生み出していくのです。わたしたちは、イエスさまはすべての人の救い主であることは、頭で分かっています。しかし、そのことを正しく理解しているかどうかはわかりません。第1朗読の中でも「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたがたの道とは異なると主はいわれる。わたしの思いはあなたたちの思いを、高く超えている」といわれています。

わたしたちは、救いというものを、やはり善悪優劣の世界の延長でしか考えることができないからです。そもそも、わたしたちは何が善で悪であるかわかっていません。しかし、わたしたちは自分で善悪の線を引いて、自分は善人の方に入ってそれで安心して、それで救われると思っているのです。そして、自分の都合の悪いあの人、自分の憎たらしい敵であるあの人は悪であると決めつけ、救われることなど願っていないのです。わたしの考えている救いは、わたしの好きな人、都合のいい人だけを善として集まった世界を作り出し、それを天国と呼んでいるのにすぎないのです。宗教が救われる側と救われない側の線引きをした瞬間、宗教は根本的に自己矛盾を抱えてしまうのです。イエスさまを信じれば救われると教えられてきましたが、それでは、信じるものは救われるが、信じないものは救われないという差別を作り出しているのに過ぎません。

また、もうひとつの問題は、わたしが信じるという行為が、救いの結果ではあるかどうかということです。そもそも、信じるという人間の行為そのものが不安定なものです。わたしたちはなぜ信じようとするのかというと、それは疑っているからなのです。明らかに確実なものであれば、わたしたちはそれを信じる必要はありません。目の前にあるものを信じるとはいいません。イエスさまを信じるということは、わたしはイエスさまのことを疑っているということなのです。不確かだから信じようとするのです。いろいろな本を読んだり、いろいろの修行や瞑想をおこなったり、いろいろな話を聞いたりして、わたしの心を落ち着かせようとします。イエスさまがこういった、ああいったと解釈し、偉い学者の先生がこういっている、教会がこう教えているといって信じ込もうとします。それで、落ち着けば信じた気になりますが、その心はころころ変わっていきます。決して確実なものにはなりません。わたしの心が安定しているときはいいですが、不安定なときは信仰もぐらぐらになってしまいます。これはわたしが心を取り作っていることであり、実はわたしが信仰と呼んでいるものの正体です。このような信仰が、わたしを救うはずがありません。救いという境界線を人間が引くと、わたしが信じるか信じないかが必要になってしまうのです。信仰とは、果たしてそのようなものなのでしょうか。

今日の福音でイエスさまがいわれたことは、救いというものは、人間がどれだけやったかという数の問題でも、やったやらなったという人間の行為の結果でもありませんよということなのです。もっとはっきりいえば、信じた信じなかったということが救いの結果でさえありませんということです。そもそも、イエスさまには救う救わないという区別はなく、救うということしかありません。だから、人間が信じたか信じなかったかということも関係ないということなのです。イエスさまが救うと仰っているのに、宗教が救う救わないという区別をすること自体、根本的に間違っていますよということなのです。イエスさまが宣べ伝えられた神の国は、場所とか死後の世界のことではなく、わたしたちの救われた救われないという境界をなくす働きであるということなのです。そのような境界を作り出しているのはイエスさまではなく、人間なのです。ですから、救われた側と救われない側の区別を作り出している人間の迷いから、人間を解放することがイエスさまの救い、神の国の働きなのです。それがぶどう園の主人のすべての人に1デナリオンを払うという姿に、現されているのです。「後のものが先になり、先のものが後になる」といわれていることも、人間の目で見たときに後先に見えるかもしれないけれど、それは救われる救われないの区別ではないのです。

わたしたちは、信仰や救いをわたしの心の問題として捉えがちです。しかし、信仰も救いもわたしの心の問題ではないのです。わたしの心の中で信仰が深くなったり、わたしが救われたと心で感じることではないのです。わたしたちは信仰というと、“わたしたちがイエスさまを信じること”のように思ってしまいますが、わたしたちがイエスさまを信じるのではなく、イエスさまがわたしたちを信じておられることをいうのです。イエスさまは、わたしを救うということについて何も疑いがないのです。わたしの心がどのような状況であろうと、イエスさまはわたしを救うということに何の疑いももたれないのです。それが、朝早くから働いても、午後5時から働いても等しく1デナリオンを支払うということで述べられていることなのです。イエスさまは、「自分のものを自分のしたいようにしてはいけないのか」といわれます。わたしが誰を救おうとわたしの勝手だといわれるのです。

このイエスさまのわたしを救うという願いがすべての人に成就した出来事が、主の復活なのです。ですから、わたしたちが救われる証拠はわたしの心の中を探したところで見つかりません。わたしの心は疑いと迷いだらけです。救いの証拠は、わたしはあなたを救うといって復活して、わたしとともにおられる方以外にありません。救いは、わたしが自分の心で算段して、信じることではないのです。ただ、「わたしはあなたを救う」といわれたイエスさまに聞く以外にないのです。わたしたちが、どんなに自分で考えても、友達同士相談しても、信仰や救いが湧くはずがありません。「わたしはあなたを救う」というイエスさまに出会って、その声を聞く以外に方法はないのです。信仰というのは、「わたしはあなたを救う」といわれるイエスさまをお迎えすることなのです。お迎えするのはわたしの心かもしれませんが、来られるのはわたしを救うといって、わたしを信じておられるイエスさまです。そして、わたしたちが今というときに、イエスさまによって、わたしの身に信仰の出来事、救いの出来事が引き起こされていくのです。それが信仰であり、救いなのです。信仰と救いはわたしの身に起こりますが、わたしの業や働きによるものではありません。

年間第24主日 勧めのことば

年間第24主日 福音朗読 マタイ18章21~35節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の箇所はゆるしということがテーマになっています。王の家来と家来の仲間の借金の額を際立たせることで、神のゆるしと人間同士のゆるしを説明しようとするものです。主の祈りの「わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします」の解説のようでもあり、神さまがわたしをゆるしてくださったのだから、わたしたちも兄弟をゆるしましょうとか、兄弟の罪をゆるしますから、わたしの罪をゆるしくださいといった教訓話として説明されてしまいます。しかし、今日の箇所の中心は別のところにあるように思います。それは本当にゆるされ、救われなければならないのは誰かという問いだと思います。

今日の聖書の箇所は、「兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回ゆるすべきでしょうか。7回までですか」という弟子の問いに対してイエスさまが語られたたとえ話となっています。ここで弟子たちの取り上げた問題は、わたしがどこまで兄弟をゆるすかということです。つまり、自分はゆるす側であって、ゆるされなければならない側であるとか考えていないということなのです。実は、このことがそもそも大きな問題だといわなければならないと思います。王の家来が負っていた借金は1万タラントンといわれています。1タラントンが6000万円位といわれていますから、それの1万倍ということになります。普通、一個人ができる借金の額ではありません。自分の持ち物、自分、妻、子で返せるような金額ではありません。しかし、この家来は厚かましく「どうか待ってください。きっと全部お返しします」というのです。これは、ただの一時しのぎの言い逃れか、あるいは、借金をしているという意識がなかったのではないか疑うような言葉です。それに対して、この家来が仲間に対して貸していたのは100デナリオンです。1日の日給が1デナリオンですから、まあ、100~200万円程度です。これならば、人間が返すことのできる金額です。問題なのは、王の家来がどのようにしても返すことができない借金をしているのに、そのような借金をしているという意識がほとんどなかったということではないでしょうか。そして、その借金を自分はゆるされたということに気づいていなかったということだと思います。

わたしたち人間はいろいろないのちによって生かされています。そもそもいのちの代価等あり得ないものなのですが、スーパーにいけばありとあらゆる食材が売られています。小さな鳥であれば少しの飲み水と少しの餌で生きていきます。獰猛な狼であっても、最低限必要ないのちを狩って生きていきます。しかし、食物連鎖の頂点に君臨する人間はありとあらゆるいのちを狩って生きています。人間は、その食物連鎖の頂点に君臨する王のような存在です。王とは、この地球の中で、すべてを自分の意のままにすることができる存在です。所有欲と名誉欲と支配欲を一手に納めているのが王なのです。そして、自分の思いを通すためであれば、すべての自然界を支配し、またすべての人間界をも支配しようとしますし、手段を選びません。わたしたちが生きていくということは、大なり小なり、ありとあらゆるいのちに負っており、それらのいのちなしにはわたしたちは生きられない存在なのです。それなのにわたしたち人間は、自分たちが万物の霊長であるとして、ありとあらゆるいのちを狩り、搾取し、強奪しているのです。そのためであれば、他の人間をも容赦なく搾取し、殺略してきたのです。わたしが生きるということは、他の多くのいのちの犠牲のうえになり立っているのです。しかし、普段はそのようなことを考えもせず、スーパーで楽しく買い物をしています。しかし、このいのちの糧がわたしのところに届くために、どれだけ多くの人の手をかりて、どれだけ多くのいのちが奪われ、どれだけ多くの犠牲、あるときにはいのちさえも奪われてきたかについて思いが至らないのです。

日本では食事のときに、おいのちをいただきますと感謝して「いただきます」といい、おいのちをごちそうさまでしたといって謝恩を表してきました。今日の福音に出てくる王の家来は、そのように自分がいのちによって生かされ、守られ、養われていることに気づかず生きている、わたしたち人類の代表のようです。ここに出てくる王さまとは、すべてのいのちの源であり永遠のいのちである神さまであるといえるでしょう。わたしたちは生かされている、恵まれている、そして養われていることが当たり前となっており、そのことに気づきません。そのことに気づかずに、ありとあらゆるいのちを当然のこととして奪って生きてきました。人間を万物の霊長であると教えてきたのはキリスト教です。そして、キリスト教は長い間、洗礼を受けている人間にしか人権を認めてきませんでした。根底にある問題は、生きとし生けるいのちへの感覚の欠如です。そして、いのちの感覚の欠如を助長してきたのです。その自覚のなさが、近代の世界におけるありとあらゆる差別、搾取、戦争を引き起こしてきたのです。

このように見ていくと、実はわたしたち人間こそが、この地球上でもっともあわれで、残虐で、救われ難いものに他ならないのです。まさに今日の福音の王の家来とは、わたしたちのことなのです。それなのに、自分は何度まで兄弟の罪をゆるさなければなりませんかと問うているのです。わたしが兄弟をゆるす前に、ゆるされなければならないのはわたしなのです。他の誰よりもゆるされ、救われなければならないのは、このわたしなのです。このわたしは、宇宙の初めから救われようがないものなのです。わたしは悪い人間ですというのは、単なる道徳的反省に過ぎません。また、聖人ぶって、わたしは罪人だというかもしれませんが、わたしが罪人だなんてことは決して自分ではわからないのです。罪人の自覚がないというのが罪人の本性なのです。わたしはどうせ罪人ですからとかいいますが、そんなこといわなくても、わたしはもとより罪人なのです。わたしたちは、イエスさまの光に照らされて、初めてわたしが罪人であることがわかってくるのです。どんなに一生懸命糾明しても、それは所詮道徳的な反省であって、反省する自分などたかが知れています。罪人であるということは、自分でわかることでもないし、自分でいうことでもないのです。家来は、口先では王さまにゆるしを乞い、感謝するかもしれませんが、兄弟のことは何も考えられない、つまり地獄行きの身には何も変わりがないのです。それがわたしの身だということなのです。そのわたしたちを救うというのがイエスさまの願いです。そのイエスさまの願いに会わない限り、兄弟をゆるしましょうというのも、単なるスローガンで終わってしまうのです。その人は、自分はゆるされる必要があると思っていないからです。わたしたちは、イエスさまのわたしを救うという願いに出会わせていただくときに、決して救われない自分の存在に目覚めさせていただくことができるのです。兄弟をゆるさなければなどと思っている間は、実はわたしたちは何もわかっていないのです。そのような愚かな身が知らされること、これが今日の福音のテーマではないでしょうか。

年間第23主日 勧めのことば

年間第23主日 福音朗読 マタイ18章15~20節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の福音は、マタイが教会をどのように考えたかということがテーマになっています。冒頭の15節だけが、ルカに並行箇所を見ることができますが、それ以外は共観福音書の中に並行箇所は一切ありません。そのことから、この箇所は、明らかにマタイの教会が置かれていた状況が前提になっていると思われます。マタイ福音書は、紀元70年のエルサレム滅亡後に書かれています。その後、ユダヤ教はファイリサイ派が中心になっていき、律法は厳格化され、多元主義を排除していきます。そこで、当然、ナザレのイエスをメシアと信奉するグループは排除されていきました。そもそも四福音書の中で、教会という言葉が使われているのはマタイだけです。イエスさまが、いのちをかけて宣べ伝えようとされたのは神の国であって、教会を創立するという意図があったとは考えられていません。イエスさまの死後、イエスさまをメシアとして信じるユダヤ教の一派が、ユダヤ教から独立して、自分たちのアイデンティティを“教会”という言葉で呼んだということなのです。そのような状況のなかで、神の国とまったく異なった概念である教会という言葉が使われるようになったということなのです。しかし、教会は神の国ではありません。神の国はわたしたちの救いの現実であるとすれば、教会は神の国を求めるわたしたち人間の集まり、グループです。ですから、教会の中に神の国の働きがあるとはいえますが、教会と神の国を同一視することはできません。

このグループはユダヤ教へのノスタルジーを感じながらも、異邦人世界へ宣教へと出ていこうとしている共同体です。グループの主要メンバーは国外居住のユダヤ人でしたが、ナザレのイエスをメシアとして信奉しながらも、自分たちの先祖から受け継いできたモーセの律法に対して不要論を説く人と律法遵守派とに分かれていました。マタイの教会ではグループ間の争いが前提にあったと思われます。そのようなことが問題となるのは、おそらくどの宗教においても避けて通ることができないものなのでしょう。しかし、そもそも、そのような問題がでてくる最大の原因は、イエスさまとの出会いの体験から離れてしまっている、また体験の不在ということがあるように思われます。今日はそのことをお話ししたいと思います。

イエスさまが宣べ伝えられた神の国の福音は、全人類のためのものでした。ですから、ユダヤ人が先祖から受け継いできたモーセの律法が相対化されていくのは、ある意味で必然的な流れとなります。特に異邦人への宣教へと開かれていくためには、どうしても通らなければならないプロセスでした。しかし、数百年間受け継いできた律法の伝統を変えていくということは、そう簡単なことではありません。このような状況におかれると、人間は2つの極端な動きをしがちです。ひとつは、わたしたちはすでにイエスさまによって救われているので何をしてもよい、特にイエスさまは罪人を救われるのだから、罪を犯せば犯すほど恵みが与えられるという考え方です。ですから、当然モーセの律法は不用となります。もう一方は、イエスさまはモーセの律法をなくすためではなくて、完成するために来られた、だからわたしたちは律法を遵守しなければならない、遵守すればするほど救われるという考え方です。これはまっとうな考え方に見えますし、マタイもこの考え方に従っているように思われます。イエスさまの言葉として「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである(5:17)」といわれています。この考え方はもっともだと思われますが、この箇所はマタイだけに見られる箇所であり、イエスさまに由来する言葉だとは考えられません。イエスさまの主旨からいえば異なっているといわざるを得ません。

最初の考え方が間違いであることは、すぐにわかります。しかし、2番目の考え方もまたイエスさまの思いとは異なったものなのです。なぜかといえば、これらは、方向こそ反対ですが、どちらも同じ考えだからです。つまり、どちらも人間が何かをすることで救われるとか、恵みを得られると説いているからです。イエスさまは、わたしたちが何かをすれば救われるとか、恵みを受けられるとはいわれませんでした。イエスさまは、わたしたちが何かをしたから救うとか、恵みを与えるのではなく、救うこと、恵みを与えること、またゆるすことはイエスさまの本質です。最初から、ただあなたを救いたい、それだけなのです。そのためにイエスさまは十字架にかかられたのです。そのままのわたしを救うためなのです。よくいわれるのは、イエスさまを信じれば救われますといわれますがこれも間違いです。イエスさまがわたしを救われるのは、わたしがイエスさまを信じたという結果ではありません。わたしたちはイエスさまが救ってくださることを信じるだけなのです。イエスさまはわたしの救いのために、わたしの信仰さえも必要とされないのです。だから、わたしたちが何かをすればするほど救われるという考え方は間違いなのです。しかし、わたしたちはそこまでイエスさまが思っておられることに、なかなか気づけません。その気づけないわたしであることを見越して、人間のことばとなって、わたしを救うと名乗り、「わたしはあなたを救う」と呼びかけておられるのです。その呼びかけが「イエス」という名乗りなのです。わたしたちがそのことに気づかされたなら、ありがたくて、悪いことなどしたいとは思わなくなるでしょう。でも、それなのに、善いことができなかったり、悪いことをしてしまうわたしたちなのです。わたしが自分でわたしを救うことができるのであれば、イエスさまはわたしを救おうとは思われません。そのようなわたしをどうすることもできないから、イエスさまはわたしを救おうとされるのです。そのイエスさまの働きがわたしたちに振り向けられたものが信仰なのです。そして、その救いの真実が神の国と呼ばれているのです。

ですから、そのイエスさまとの出会い、その真実、神の国が体験されているとき、それを証し、生きる場として教会共同体の存在があるのだといえます。教会そのものにゆるしたり、解いたり結んだりする力があるのではなく、教会はただイエスさまの救いのしるしとして奉仕し合うだけなのです。教会はあくまでも、イエスさまの救いの働きがあらわれる場であって、その教会にゆるす側とゆるされる側、解く側と解かれる側、救う側と救われれる側の区別があるのではないのです。それを、わたしたちはいつも勘違いしてしまいます。そもそも、教会がつまりわたしたちの生き方が、イエスさまの生き方に由来するゆるし合い、支え合い、助け合い、愛し合いでなければ意味がないということなのです。そのときにこそ、聖体の秘跡、ゆるしの秘跡が教会の中で本当の効力をもつ秘跡となります。教会の生き方はともにゆるし合うこと、ともに支え合うこと、ともに愛し合うことを生きるのであって、教会が人をゆるしたり、解いたりするという権威をもっているなどと勘違いしてはならないのです。それこそ、イエスさまが一番嫌ったファイリサイ主義、律法主義に他なりません。そのことを勘違いしているのが、今の教会かもしれません。教会の誰が人をゆるしたり、解いたりできるというのでしょうか。教皇さまや司祭ができるとでもいうのでしょうか。そのような教会で行われる秘跡であれば、それは単なる儀式に堕落し、何の力ももたないものになってしまいます。聖体の秘跡、ゆるしの秘跡などの秘跡は、そこで行われる儀式のことを指しているのではありません。教会であるわたしたちが、ゆるし、相互扶助、信頼関係、相互愛を生きていること、それがまことの秘跡であり、そのとき諸秘跡は真実の秘跡となり、教会共同体そのものが真実の秘跡となって、この世界に対して証しとなっていくことができるのです。今日、わたしたちは各々の思い違いを正し、小さなものとなって歩めるようその恵みを願いましょう。

年間第21主日 勧めのことば

年間第21主日 福音朗読 マタイ16章13~20節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の福音は、イエスさまがフィリポ・カイサリア地方にいらっしゃったときの出来事です。17節以下の部分は、他の共観福音書に並行箇所はなく、マタイによる加筆であると考えられています。カトリック教会はこれをもって教皇の首位権、ゆるしの秘跡の根拠としていますが、そのことについて今日は触れません。今日の福音は、イエスさまとは誰かという大きなテーマになっています。弟子たちは、もう何年間もイエスさまとともにいました。それなのに、イエスさまは誰かとあらためて問うということはどういうことでしょうか。ともにいたのであれば、イエスさまとすでに出会っており、誰であるかわかっていたはずです。確かに弟子たちはイエスさまと一緒にいましたが、しかし本当にイエスさまと出会っていたのかということが問われているように思います。マタイ福音書の大きなテーマは、「わたしたちとともにおられる神」インマヌエルであり、イエスさまがわたしたちとともにおられるということが一貫して示されていきます。それでは、イエスさまはわたしたちとともにおられるのかもしれませんが、果たして、わたしたちはイエスさまと出会っているのかということが問われているということになります。

今、イエスさまはすでにわたしたちとともにおられます。イエスさまがわたしとともにおられないということはありえません。どんなときにもともにおられます。「世の終わりまでいつもあなたがたとともにいる(マタイ28:20)」、これがイエスさまのお約束だからです。それでは、イエスさまが一緒におられるのであれば、わたしたちはイエスさまと出会っているかというと、一概にそうとはいえません。わたしたちがイエスさまと出会うということは、わたしたちがともにおられるイエスさまに気づかされるということなのです。イエスさまがわたしとともにおられるからといって、わたしがイエスさまと出会っているかどうかは別問題です。イエスさまと出会ことは、イエスさまと全人格的に出会うということ、真実のイエスさまの働きに気づくこと、本当の意味でわたしとともにおられるイエスさまに気づくということだといえます。そして、それがわたしたちの回心でもあるのです。

今日の福音の中で、イエスさまは弟子たちに「人々はわたしのことを何といっているか」と問われました。これは、イエスさまについての情報を聞かれたということでしょう。それで弟子たちは、洗礼者ヨハネだとか、エリヤだとか、他の預言者だとか答えます。そのような弟子たちに、「それでは、あなたがたはわたしを何者だというのか」と問われます。それは、イエスさまが誰であるかを問うておられますが、実は「あなたがたはこのわたしと、真実のわたしと出会っているか」と問われたのです。弟子たちは、イエスさまの一定期間一緒にいましたから、それなりにイエスさまのことをわかっていたはずです。それでは、わたしたちはある時間を、また同じ空間を共有していれば、その人のことがわかるかといえば、必ずしもそうではありません。どんなに長く一緒にいても、心が通い合わないことがあることを、わたしたちは人間関係の中で嫌というほど体験しています。いわゆる、出会っているように見えても、本当は出会っていない、わかっているようで、何もわかっていないことがあるということなのです。また、そもそも、一緒にいるということさえも気づいていないということもありえます。

法然上人の歌に「月影のいたらぬ里はなけれども ながむる人の心にぞすむ」というのがあります。わたしたちは、イエスさまを自分の外に外に探し求めようとします。確かにイエスさまは、聖体の秘跡の中に、教会の聖櫃のうちに、教会の集まりの中におられます。いわゆる、イエスさまはわたしの外におられるのだと思い、探し求めます。しかし、同時にというか、イエスさまはもっと本来的なあり方で、わたしたちの心のうちにおられるのですよということではないでしょうか。月を外に眺めると、その月の光がすべての人のうちに注がれていることは一般論としてはわかるのです。しかし、それが自分のこととなると意外に気がつかなかったり、わからなかったりするものなのです。わたしたちがどんなに自分のことをつまらない人間だと思っても、自分がどんなに罪深くどす黒い心を抱えていたとしても、実は、イエスさまはそのわたしを煌々(こうこう)と照らし、心の隅々まで照らす光として、わたしの心のうちにおられるということです。ですから、他所にイエスさまを探しに行く必要などないのです。ただ、愛と憎しみに翻弄されているわたしたちは、よもやわたしのことなどイエスさまは思っておられるはずがないという妄想が、わたしたちとイエスさまとの出会いを妨げてしまっているのではないでしょうか。ですから、どんなにイエスさまが近くにおられても、わたしたちの眼がさえぎられてしまっていて、イエスさまを見えなくさせてしまっているのではないでしょうか。

わたしたちは自分の心を浄め整えて、イエスさまを探し求め、見ようとし、近づこうと思っていますが、実は、イエスさまはわたしが求める遥かに先立って、わたしを探し、見いだし、わたしを救い取っておられ、そのわたしを決して捨てないと仰っているのです。イエスさまはわたしが探す先に、わたしを探しだして見つけ出し、わたしが見ようとしている先に、わたしを見つめて見守り、わたしが救いを求めようとする先に、わたしを救い取っておられることに、わたしたちは気づかされるのです。ですから、わたしたちはイエスさまがどこにおられるのか、どのようにすれば救われるのか、自分の至らなさを悲しむ必要などないのです。そのような要らぬ算段をするのではなくて、わたしたちはすでにイエスさまによって見いだされ、救われていることを喜ぶのです。このような真実のイエスさまに出会うことを回心というのです。こうして、真実のイエスさまがわたしに知らされてくるのです。但し、どんなにイエスさまのことを聞いてありがたいと思って感動しても、しばらくすればすっかり冷めてしまって、何の感動も起こらないわたしに逆戻りしてしまいます。しかし、わたしがイエスさまのことを忘れてしまったとしても、イエスさまは決してわたしのことをお忘れになることはありません。

それなら、わたしたちはイエスさまのことを忘れないようにしっかりと心を固めて、イエスさまに従おうとするのが、普通にわたしたちが考えることでしょう。しかし、そのようなわたしですが、イエスさまに出会いながらも、現実には、なおも愛と憎しみ、疑いと不信の業火に振り回され、相変わらずイエスさまから逃げ続けているわたしがいるのです。このように逃げ続けるわたしたちを、それでも探し求めて、「わたしはあなたとともにいる」と呼び続けてくださるイエスさまであるということなのです。このようなイエスさまから、わたしたちは見守られ、救い取られているのです。この真実のイエスさまと出会うことが、「あなたはメシア。生ける神の子です」とイエスさまに申し上げることなのです。イエスさまはわたしたちの意見を聞いておられるのではありません。イエスさまから逃げ続け、背き続け、自分に都合のいいイエスさまだけを探し求めようとしているわたしたちに、それでも「わたしはあなたとともにいる」と呼び続けてくださっていることに気づいてくれ、目覚めてくれと呼びかけておられるのです。ですからその信仰告白はペトロをしていわせたものではなく、どのようであっても救ってくださるイエスさまのお働きが言葉として生まれ出てきたものなのです。それを「このことをあなたに現わしたのは人間ではない」と述べられ、神さまの働きであることが示されていくのです。わたしたちはこのような真実のイエスさまと出会うように呼ばれているのです。

年間第20主日 勧めのことば

年間第20主日 福音朗読 マタイ15章21~28節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の箇所は、イエスさまがというより、初代教会が異邦人宣教をどのように捉えていたかということがわかる箇所です。この箇所は、すべての人の救いか、それとも一部の人の救いかという問いでもあります。ユダヤ教はユダヤ人だけの救いを説いてきました。それに対するアンチテーゼとして出てきたのがキリスト教です。しかし、キリスト教の中で、自分たちと意見が違う人々を異端として排除していくという動きが起こってしまいます。こうして、イエスさまによって始まった神の国の福音に垣根を作って、神の国を狭めていくことをやっていくようになります。それが、まさに今日の福音のなかで、イエスさまに「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」といわせてしまっていることなのです。この言葉は、イエスさまに由来するのではなく、マタイの教会の創作であるといわれています。初めに書かれたマルコ福音書にはこの言葉はありません。ここに、本来すべての人の救いを説く宗教が、特定の人のための宗教になっていくプロセスを見るような気がします。これが、キリスト教のユダヤ教への先祖返りという問題なのです。どの宗教においても、このような問題が起こってきます。そして、どの宗教においても源泉へ立ち帰る改革がおこなわれてきました。そのような動きは、ときとしては分裂を引き起こしてしまうこともありますが、これが人間としての宗教の限界なのでしょう。

わたしたちが救いというものを考えるとき、先ずはわたしが救われて楽になること、わたしの意が満たされて幸福になることとしてしか捉えることができません。今日の福音でいえば、カナンの女は、どのようにしても救われることがないわたしたち人類の代表です。そして、この女性はイエスさまとの出会いを通して救われていきます。しかし、同時に「この女を追っ払ってください」という弟子たちの姿も、自分たちは救われた側にいると思い込んで、そこに安住しているわたしたちの代表でもあるのです。つまり、救われたいと思っているわたしたちの救いが、果たして何を意味しているのかだれにもわからないということなのです。ここで、カナンの女も弟子たちにも何が問われていたのでしょうか。それは今、救いを必要としているのは、他の誰でもないわたしであるということに気づかされるということではないでしょうか。つまり、救われるのは今であって、わたしの状態に一切関係なく、今のわたしを救いへと招いておられ、救われるわたしは今のわたししかない、そしてどうしても自力では救われないわたしがいるということに気づかされるということだといえるでしょう。

このことは、わたしがわたしというものから解放されるということでもあるのです。わたしは救われたから、あなたも救ってあげましょうというようなものではないのです。そういうふうに考えているあなたこそ、救われなければならないんですよということなのです。自分の救いや自分の幸福を第一に考えていた人たちの中から、本当に苦しんでいる人たちの救いを望むような心が生まれてくるはずがありません。大体、多くの宗教が人を救うとか助けることを教えます。しかし、人を救う、助けるという発想は、自分は救われていて、自分が人を助ける立場になりたいという我欲からでています。人を助けるということは、結局は自分を満たしたいという我欲であって、これは一種の名誉欲でしかありません。人を助ける立場に立つということは、今日の弟子たちの立場と同じです。自分が救われた立場に、上に立って、そこに安住して、人を救おうとします。これはイエスさまの心ではなく、どこまでいっても救われた人と救われていない人の壁を立てていくことに他なりません。自分は信仰があるという顔をして、話をしたり、活動したりしている、そしてそこに上下関係をつくっていきます。本当の宣教は、自分を救われた立場に置くことではなく、自分を救われない立場に置くこと、他の人々の救いを優先すること、自分が最後のものになるということなのです。宣教するということは、自分は救われないものになるということなのです。

多くの宗教は同じ信念、教義を共有して満足して、そこに安住していきます。これはどこまでいっても閉じられた世界、自己満足の世界に過ぎません。これが本当の救いといえるでしょうか。人を助けることで、自分も救われていく、これは単なる自己満足です。わたしたちは、結局は自分が安心して満たされたいというところから自由ではありません。これが現実の世界か、来世かの違いだけで、自分を最優先していることに変わりはなく、これではどれだけ学んでも、どれだけ祈っても、単なる我欲に過ぎません。自分ひとりが救われて、そこに沈んでいく世界です。そんな救いはイエスさまの救いではありません。ですから、本当の救いは、わたしの救いからわたしが解放されることなのです。しかし、わたしの救いから解放されるということなど、わたしの力ではあり得ないことなのです。だから、救われるのは、今のわたしの問題なのだということに気づかされることが、これが大切なことであることがわかります。

今日の福音の箇所は、初代教会の回心の箇所であるともいわれています。イエスさまに「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」といわせていますが、実はそのように考えていたのはイエスさまではなく、初代教会だったのでしょう。イエスさまが活動しておられたときには、ユダヤ人異邦人、老若男女、身分貴賤の別なく、すべての人の救いのために働かれました。しかし、イエスさまが亡くなり、教会が福音宣教に出ていくときに、自分たちだけの救いに閉じこもる誘惑にさらされたのでしょう。自分たちだけイエスさまによって救われて、そこに安住するという傾きが頭をもたげてきたのではないでしょうか。救われたものと救われていないものを区別し、グループを作っていくことです。しかし、イエスさまはご自分を救われたものの立場に身を置かれたことはありませんでした。イエスさまの生涯、特に十字架はユダヤ人には決して課されることがない、もっとも不名誉な呪われたものの死でした。つまり、イエスさまはもっとも救われ難いものとしてその身を置き、異邦人として、呪われたもの、罪と悪に染まって、救いから除外されたものとして死んでいかれたのです。そのことに、初代教会は異邦人の宣教という局面において、わが身のあり方をイエスさまから問われ、ああ~イエスさまはそうではなかったのだ、ということに気づかされ回心していった出来事、それが今日の箇所なのです。イエスさまの道は、自分をもっとも救われ難い身に我が身を置き、人々とともに地獄に堕ちていくことによって、人類を救っていく道なのです。だから、自分は救われて、天国にいって幸せになりたいなんて思っているわたしが解放されていくことこそが、本当の意味でのわたしの救いなのです。今日、わたしたちもイエスさまのそのお心に触れさせていただく恵みを願いましょう。

年間第19主日 勧めのことば

年間第19主日 福音朗読 マタイ14章22~33節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の福音は、イエスさまの湖上歩行という奇跡物語が報告されています。しかし、実際にイエスさまが湖上を歩かれたかどうかということは問題ではありません。つまり、どうでもいいことだということです。今日のテーマは、信仰はだれのものかということです。

状況としては、舟で向こう岸にいこうとしていた弟子たちは、嵐に巻き込まれこぎ悩んでいます。そうすると明け方に、イエスさまが湖上を歩いて弟子たちに近づいて来られます。まあ、映画のようなシーンです。弟子たちに、「安心しなさい。わたした。恐れることはない」と声をかけられます。それでも、弟子たちはイエスさまだと信じることはできません。それで、ペトロが「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」といいます。イエスさまは「来なさい」といわれ、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスさまの方へ進みます。この状況をみると、ペトロが舟を降りて、水上を歩いて、イエスさまの方に進むという出来事は、イエスさまがおこしておられるということがわかります。ペトロの信仰が強いので、そうできたという話ではありません。「来なさい」といわれたイエスさまが、ペトロにさせておられる出来事です。ここではっきりとしなければならないのは、ペトロを舟から降りて水上を歩かせているのは、ペトロの信仰心の強さではないということです。ペトロは、ただイエスさまであれば、自分を水の上を歩かせることができるということを信じたのであって、実際にペトロを水の上を歩かせているのは、ペトロの信仰心ではなくてイエスさまなのだということです。ここで、多くの人は信仰について、間違った理解をしてしまいます。ペトロの強い信仰心が、水の上を歩かせたのだと考えてしまいます。しかし、これがペトロの信仰心でないことは直ぐに暴露されます。

「しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけた」と書いてあります。つまり、ここでペトロは、水の上を歩かせておられるイエスさまではなく、水の上を歩いている自分を見たのだということです。水の上を歩いている自分という現実などあるはずがありません。それで沈みかけて、「主よ、助けてください」と叫びます。そうすると、イエスさまは手を伸ばして捕まえ「信仰の薄いものよ、なぜ疑ったのか」といわれます。これは、ペトロの信仰の弱さを指摘されたのではありません。ペトロが信仰をあたかも自分のものであるかのように勘違いしていることを指摘されたのです。

ここでは、信仰とは何かということが問題にされているのです。わたしたちがイエスさまを信じていても、正確にいうと信じているつもりになっても、わたしたちの中で疑念が晴れないのはどうしてでしょうかという問題です。もし、信仰がわたしのものであれば、わたしはその信仰をコントロールして完全なものに出来るはずです。わたしたちはイエスさまを信じますというときに、あるときは心から信じられて疑念の心がなくなり、晴れわたったような堅固とした心になれたと思えるときもあります。しかし、そのような心は長続きしません。イエスさまを信じて救われたような気持ちになるときもありますが、何かことが起これば、信仰があるのかないのかわからないようになり、すべてが吹っ飛んでしまいます。そうすると、信仰があるのかないのかわからないような気がしてきます。わたしたちは何をもって信仰があるとか、ないとかいっているのでしょうか。それは、おそらく自分の心をみて、信仰があるとかないとかいっているのではないでしょうか。しかし、わたしたちがどれだけ自分の心を眺めても、そこには信仰のかけらさえない、それがわたしなのです。わたしたちは自分の心をみて、信仰があるとかないとかいっていますが、わたしの心は変わりどうしです。わたしたちは、わたしの心で疑いなく信じることも、疑いのない心になることも、疑いのない心を持続させることもできないのです。そもそも疑いのない心とは何でしょうか。それは、ただ自分の思い込みではないでしょうか。わたしたちは、わたしの心が自分の思い通りになると思っていますが、わたしの心は決してわたしの思い通りになりません。だから、苦しんでいるのです。わたしの心が思い通りにならないということは、わたしの心はわたしのものではないからです。わたしたちは、わたしの心の中に信仰の証拠、証をつかみたいと思っています。また、わたしは自分の心を整えること、自分の信仰を強くすることで救われると考えています。多くの宗教がそうですが、精神修養をして、自分の心を整えて、自分の心を浄めて、そこに救いの証拠をつかみ、救われていこうとします。しかし、そのようなことによってわたしたちが救われるということはないというのが今日の福音です。

考えてみてください。ペトロが自分の信仰で、自分の信念で湖の上を歩いたんでしょうか。そうではありません。大体、わたしたちは救われるということを、自分が楽になること、自分の思いが満たされること、自分の計画が実現することだと考えています。天国に行きたいということなど、まさしくそうでしょう。わたしが思っているような天国や永遠のいのち、救いが本当にあるかどうかだれもわからないのです。確かなことは、イエスさまの「来なさい」という声が聞こえたということです。イエスさまは、ペトロに心が整ってから来なさいといわれたでしょうか。嵐のような状況のなかで、ただ「来なさい」といわれたのです。こうしたら信仰は深くなるとか、準備しますからちょっと待ってくださいではないのです。そんなのに関係なく、「直ちに来たれ」というイエスさまのご命令、わたしの心とか、才能とか、信心に一切関係なしに「来なさい」といわれるのです。今のままのわたしでは、どうしても救われようがないものです。準備して、明日、明後日、1か月後ではなく、今、そのままで来なさい、そのイエスさまのことばが聞こえていること、聞こえてくること、これがまことの信仰です。ですから、信仰はイエスさまのお言葉、ご命令であって、わたしの心とか、わたしの何かではないのです。どうしても救われることのないわたしが救われる、ペトロの力なんかではどうにもならないことがイエスさまによってなっていく、イエスさまの方からすでに手が差し伸べられていたこと、これこそがまことの信仰の意味なのです。信仰とは、来なさいといわれるイエスさまのことばがわたしに届いていることに他なりません。信仰は、イエスさまからペトロに振り向けられたイエスさまの真実、イエスさまの信仰なのです。ペトロが疑っていた心、信仰薄い心を頑張って強くしましょう、というようなわたしたち人間の次元の話ではありません。

主の変容 勧めのことば

主の変容 福音朗読 マタイ17章1~9節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日は主の変容のお祝い日です。3人の弟子の前に、栄光に輝くイエスさまが現れます。多くの聖書の注解では、受難予告をうけた弟子たちが、失望してしまわないように、弟子たちを勇気づけるための出来事であったとされています。全体的な構成は、主の受難予告の前にペトロの信仰告白があり、その後、主の変容の出来事、続いて弟子たちの不信仰の問題が取り上げられています。最初の受難予告の後には、弟子たちの不信仰、2回、3回目の受難予告の直後には、弟子たちの主導権争いが描かれています。つまり、ここではイエスさまとは誰か、弟子たち、人間とは一体何かということが問題になっているのです。

まず、弟子たちに対して「あなたがたはわたしを誰だというのか」という、イエスさまの問いがあります。これはわたしたちにも問われていることであるといえます。わたしたちはイエスさまに対して、それぞれ自分勝手な都合のいいイメージをもっています。それに対してイエスさまは、自分はエルサレムで人々の手に渡されて、殺されるという事実を示していかれます。しかし、弟子たちは自分勝手な、自分たちに都合のいいイメージをイエスさまに対してもっていますから、それを受け入れることができません。その自分中心な弟子たちに対して、イエスさまは、変容の山で栄光に輝くご自身と、エルサレムで自分のいのちを与え尽くしていく身とが同じであることを示されました。しかし、それに対して出てきた弟子たちの反応は、いずれも無理解と自分たちの都合の優先でした。これは弟子たちの問題だけでなく、わたしたち人間、もっといえばイエスさまが救いの目当てとされる人間、なぜわたしたちが救われなければならないかという問題にまで広がっていきます。

ペトロはイエスさまに「あなたは、神の子、メシアです」と立派に信仰告白しながらも、「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をするもの、神のことを思わず、人間のことを思っている」と厳しく叱られてしまいます。これもペトロのことだけではなく、わたしたちひとり一人のことなのだと考えなければならないと思います。わたしたちは、教会の教えとして、イエスさまが三位一体の第二の位格で、神の子であり、救い主であることを知り信じています。そして、日曜日ごとにも信仰告白しています。しかし、どうも神さまのことを知っていることと、人間が思っていることとは同じではないようです。イエスさまが「あなたは人間のことを思っている」といわれたことはどういうことでしょうか。わたしたちは、自己本位ではいけない、人の立場に立って考えましょうとか、共感が大切だというふうに聞かされます。ペトロもイエスさまの身の上を心配して、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と、いさめているのだと思います。一見すると、ペトロはイエスさまの立場に立っているようにも見えますが、しかしそうではないとイエスさまはいわれます。人間は、どこまでいっても自分本位にしか物事を考えられないのです。どういうことでしょう。

わたしという存在は、わたしでないもの、あなたや彼らでないものがわたしです。わたしはわたしで、わたしはあなたではないのです。そして、わたしのいるところは“ここ”ですが、あなたのいるところは“そこ”であって、相手のいるところは決して“ここ”にはなりません。わたしは、いつもわたしのいるところから離れることはできず、決して相手のいるところが“ここ”になることはありません。どこまでいっても、自分本位で、自分勝手なのがわたしなのです。これは善い悪いの問題ではなく、これが人間の本性なのだということです。イエスさまは、あなたがたは自分本位をやめて、他人本位になりなさいといわれたのではないのです。わたしたちはどうしても、他人本位になることはできません。あなたがたは、他人本位になっているつもりになっているが、どうやっても他人本位になることはできないということを、きちんと自覚しなさいといわれたのです。自分は他人本位にやっているとか、他者のためにやっているという無自覚や善意、奢りが、人々を傷つけているということを知りなさいといわれたのです。あなたは自分本位にしか生きられないことを、もっときちんと自覚しなさいといわれたのです。これがわたしたち人間の抱えている本性であり、問題なのです。それに対して、唯一わたしとあなたの区別をなくされた方がいます。それが、救い主といわれたイエスさまです。イエスさまが人間になられたということは、イエスさまがわたしになられたということなのです。もし、わたしが他人本位になるというならば、わたしが死ぬか、あるいはこの世からいなくなるという以外に方法がありません。

わたしたちは、神さまが先にあって、その後、神さまがお創りになった人類が堕落して救いが必要になったと考えます。教義上は、確かにそうかもしれません。神さまが先にあって、後から登場したわたしたち人類に救いが必要になったと考えます。しかし、現実はそうではないと思います。救われなければならない人類がいた、だから神さまは人類を救うという願いを起こされたのです。そして、人間を救うということが神さまの本質です。となると、人間を救わないではおれないという願いを、わたしたち人類が引き起こしたのだというふうにもいえるわけです。つまり、わたしたち人間の苦しみ、痛み、悲惨の中に、イエスさまの願いが含まれているということなのです。神さまの存在と救いを必要とするわたしたち人類をわけることはできない、絶対矛盾的相即関係にあるということだと思います。もし、神さまが人類を救われないのであれば、神さま自身が自己矛盾に陥ってしまいます。なぜなら、神さまは人類を救うことによって神さまであるからです。また、人類がいるということは、神さまが必ずいるということになります。なぜなら、神さまなしに人類というものはあり得ないからです。このように、神さまとわたしは決して、お互いに相手なしに存在することができない存在なのです。そのことがはっきりと示された出来事が、神がわたしとなるという、イエスさまの受肉の神秘です。決して救われないわたしに、神さまがわたしになられたという出来事が、イエスさまの受肉の神秘であり、そのイエスさまの真実の姿が現された出来事が主の変容であるわけです。

主の受肉と主の変容という出来事を通して、わたしはわたしであって、あなたではない、決して他人になることができない自分本位であるわたしたち人間に、神さまはわたしになられたということが示されました。さらに、その変容の出来事によって、実はわたしたちは神さま、この世界とひとつであって、一体なのだという真実の世界、本来の世界、真理が明らかにされたのだということができるでしょう。イエスさまのうちにおいて、わたしたちは神と、また全人類と、全宇宙はひとつであるということが示されたのです。それに対して、わたしたちは自分の都合、自分のレンズで再構成した世界が本物だと思い込んでいる、これこそが人間のことを思っているということであり、これが不信仰ということなのです。

8月の主日ミサの予定

■高野教会の今後の主日ミサの予定

8月 6日(日) ミサ担当の神父様の夏季休暇のため、ミサがありません。

8月13日(日)第2日曜日のため、ミサがありません。

8月20日(日)ミサ10:30

8月27日(日)ミサ10:30

■洛北ブロックの教会と河原町教会のミサの予定

河原町教会 (前土曜日)18:30 (日曜日)7:00、10:30

衣笠教会  (日曜日)9:00 第1日曜日なし

小山教会  (日曜日)9:00 第4日曜日なし

西陣教会  (日曜日)9:00 第3,5日曜日なし

北白川教会 (日曜日)10:30

京都教区のホームページで、ミサの時間を確認できます。

https://kyoto.catholic.jp/hp/addres/Address_Table.htm

年間第17主日 勧めのことば

年間第17主日 福音朗読 マタイ13章44~46節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日のたとえ話は、イエスさまのたとえ話というものを理解していくための大切な視点が描かれています。多くの聖書の釈義や説教では、畑に隠された宝、高価な真珠は神の国であり、わたしたちがすべてにおいてそれを捜し求めなければならないというふうに説明されます。確かに神の国がわたしたちの間に到来しており、すべてにおいてそれを探し求めなさいという主張からすると、そのように解釈されるのが普通でしょう。また、マタイの教会の置かれていた状況から考えると、すべてのものを売り払ってでもそれを手に入れたいと願う、それが神の国なのだと説明するのが当然かもしれません。そして、その喜びということが強調されるのでしょう。しかし、普通ならそんなに素晴らしいものであれば、どんなことをしてでも手に入れるということは、理屈にかなっており、そのことに誰も反対する人はいないでしょう。でもよく考えると、誰もが納得できる話をなぜわざわざ、イエスさまはたとえ話で話す必要があったのでしょうか。人々に神の国の素晴らしさを説明するために、わざわざ、このようなたとえが用いられたのでしょうか。そのままいえばわかるのではないでしょうか。

わたしたちは、このたとえ話の中で、畑を買う、また真珠を探し求めて買うというときの主語を、わたしたちだと思い込んでいるのでないでしょうか。神の国のたとえは、いつも神さまの働き、その神秘をわたしたちには解き明かすために用いられてきました。それであれば、その主語はわたしたちではなく、イエスさま、神さまではないでしょうか。あらためてイエスさまを主語にして、このたとえを読み直してみたいと思います。そうすると、宝を探す人、商人はイエスさま、そして、宝が隠されている畑、高価な真珠は、わたしたち人間のことになります。事実、イエスさまはわたしたちのために、自分の持っているものをすべて売り払って、わたしたちを買い取ってくださいました。これがイエスさまの十字架の意味です。パウロは、「あなたがたは、代価を払って買い取られた(Ⅰコリ6:20)」「神の畑(同3:9)」なのです、といっています。わたしたちは、イエスさまからみたら、高価な真珠、宝が隠されている畑なのです。先々週の種まきのたとえで、種がまかれている畑、その畑がどのような畑であっても、その土地には種がまかれているということがいわれました。その畑が荒れ地で、茨の地で、ごつごつした岩だらけの土地であれば、わざわざそれを買おうとする人はいません。しかし、イエスさまにとっては、わたしたちは皆、宝が隠されている畑なのです。どんなに酷い土地であろうと、また豊かな実りをもたらす畑であろうと、もたららさない畑であろうと、宝が隠されている、つまりイエスさまにとって愛おしい土地なのです。そのことをイザヤは「あなたを創造された主は、あなたを造られた主は、今こういわれる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ...わたしの目にあなたは値高く、尊く、わたしはあなたを愛する...恐れるな、わたしはあなたとともにいる(イザヤ43)」といいます。わたしたちは、かけがえのない価値のある、大切なものなのです。イエスさまは決して、わたしたちを上から目線で救ってやろうというのではなくて、すべてを投げうって畑を買って、自分が泥まみれになってでも、わたしを探しておられるのです。イエスさまにとっては、わたしは大切なものなのです。わたしが素晴らしい豊かな土地だからそうしておられるのではないのです。

わたしたちは競争と区別、結果と評価の世界に生きています。だから、競争に勝って選ばれ、より優れたものになり、結果をだして認められなければ価値がないというような価値観を生きさせられています。一般の社会でもそうなのに、宗教の世界にまでその価値観が持ち込まれてしまっています。洗礼を受けて、神さまに選ばれたものにならなければならないとか、たくさんお祈りして、施し善行をして、社会貢献しなければならないとか、もちろんそれらのことは素晴らしいことには違いありませんが、そのこととイエスさまがわたしたちを愛されておられることとは何の関係もありません。イエスさまは、わたしがしたこと、しなかったこと、わたしが罪人であったか、なかったかに関係なしに、わたしを愛し、大切にしておられます。イエスさまは、わたしをわたしであるということだけで、わたしを愛しておられるのです。そのために、自分のすべてを売り払って、血を流して、わたしを探し求め、わたしを買い戻してくださった、わたしたちを地獄の淵から引き出し、解放してくださったのです。それは、わたしたちが魂の深みにおいて、愛され、受け入れられ、認められ、大切にされることに飢えかわいているからなのです。なぜなら、わたしたちは拒否され、拒絶され、傷つけられ、心のうちに寂しさと孤独、絶望と闇をかかえていることを、イエスさまはだれよりもよく知っておられるからなのです。イエスさまは神さまなのです。わたしたちに何が本当に必要なのかを知っているのは、わたしではなく、イエスさまなのです。このイエスさまがご自身の愛を全人類に知らせるためには、たとえで話すしかないのです。体験したことも、考えたこともないものに、真実を話してもわかるわけがありません。だから方便として、イエスさまはたとえを用いられたのです。それが、宝が隠された畑、高価な真珠のたとえなのです。そして、イエスさまは、真実の愛を具体的に知らせるために、わたしと同じ人間となって、血を流して、十字架にかかられたのです。それは、そこまでしなければ、競争社会に生きさせられ、結果を出すことを求められ、駆け引きの世界で生き、拒否され、拒絶され、傷つけられて、傷ついて、自己の中に閉じこもって、“それがすべてだと思い込んでいる”わたしたち人類に、真実の愛を伝える方法が見つからなかったからなのです。

神の国が素晴らしいからそれを手に入れるために頑張りなさいというのであれば、小学生でもわかります。そして、教会でもそのように教えられてきたことで、イエスさまの話を聞いてわかっているつもりになっているだけで、結局はこの世の競争原理と何も変わらない価値観をわたしたちは生きているのです。わたしたちは、イエスさまのことをわかっていると思い込んでいる、しかし、実はイエスさまのことを何もわかっていない、その大きなずれに気づかないほど愚かなのです。ですから、わたしたちはイエスさまにあわれんでもらうしかできないあわれな、愚かな罪人なのです。イエスさまの本当の愛が知らされることで、わたしたちは自分の本当の罪、無明について知らされます。本当の罪とはこのイエスさまの真実を知らないで、駆け引きでイエスさまと何とかやり取りをしようとしていること、それを信仰生活だと錯覚していることなのです。イエスさまを知らされれば知らされるほど、わたしたちは自分の中にある愚かさ、闇が知らされ、イエスさまにあわれんでいただくことしかない罪人であることが見えてきます。イエスさまを知るということは、自分を知るということであり、自分を知るということは、イエスさまを知ること、イエスさまと出会うことなのです。このことを人間にそのままいってもわかりません。だからイエスさまはたとえで話されるのです。

年間第16主日 勧めのことば

年間第16主日 福音朗読 マタイ13章24~30節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日のたとえ話は、善悪という問題をどのように捉えるかということです。実は、今日の毒麦のたとえはマタイ福音書だけにみられるものであり、共観福音書のマルコ、ルカには見られないものです。ですから、今日の箇所はイエスさまに由来するたとえ話というより、マタイの教会の問題が背景にあって、マタイが独自に書いたものであるということができます。マタイの教会の抱えていた問題は、すでにエルサレムの都が滅亡して、自分たちこそ正統なイスラエルの民の後継者であると主張しつつも、ユダヤ教とは袂(たもと)をわけていかざるを得ない状況にあったということです。ですからマタイは、イエスに由来するマルコのたとえ話を受け入れながらも、自分たちの都合の悪いものは削除し、自分たちの主張を展開していくことになっていきます。それがまさにマルコ福音書にだけ出てくるテーマ、よい麦と毒麦、賢いおとめと愚かなおとめ、羊と山羊という区別をするということです。これは、ユダヤ教の中でファリサイ人が自分たちを「わけられたもの」として、自分たちのアイデンティティを作っていった同じ発想です。マタイの教会も、“わける”ということで自らのアイデンティティを形成しようとしていったということです。

そこで、元々マルコ福音書にあった「成長する種のたとえ(4:26~29)」を作り変えたものが、今日の毒麦のたとえであるといえるでしょう。マルコの「神の国は次のようなものである。人が土に種をまいて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそのようになるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂は豊かな実ができる」というたとえ話は、マタイの教会にとっては都合が悪かったのでしょう。ユダヤ教と対立し、自分たちのアイデンティティを確立していかなければならないときに、種は人の知らないところで元気に自ずと成長していくというたとえ話は適切ではないと考えたのでしょう。だから、よい麦と毒麦というたとえにすり替えがおこなわれます。からし種とパン種のたとえは残しますが、「成長する種のたとえ」は、マタイ福音書からも、ルカ福音書からも省かれてしまいます。おそらく、神の国はすべてのものに等しく及んで、働いているというイエスさまの主張は、初代教会においてはほぼ理解されなかったのでしょう。事実、その後のキリスト教は、他を排除していくということによって、アイデンティティを確立してきました。確かに自分たちに反対していくものに対峙していくことは、大変難しいことです。しかし、結局、キリスト教は自分たちと意見の異なるものと対話し調和していく道ではなく、彼らを異端として排除していく道を選んでいくのです。これがキリスト教の歴史です。

しかし、イエスさまの救いというものは、老若男女、善悪の差異を超えた平等の救いであったのではないでしょうか。キリストはすべての人のために死なれたのではないのでしょうか。それとも毒麦にたとえられる人や愚かなおとめ、山羊にたとえられる人のためには死なれなかったとでもいうのでしょうか。毒麦をまいたのは敵の仕業だといいますが、敵を作り出しているのは一体だれなのでしょう。それは他ならぬこのわたしなのではないでしょうか。わたしたちはいつも自分の都合を中心にして、愛するものと憎むもの、味方と敵、内と外、上と下といったあらゆる区別と差別、境界線を作り出していきます。「あの人も、この人も、あの悪い人も、このよい人と同じように救われるのですか」という質問がよく、教会の中でもなされます。わたしたちの考えている神の国は、わたしの好きな人だけが集まった世界、わたしの嫌いなあの人、わたしをいじめたあの人、わたしの敵を受け入れない世界なのです。そんな自分たちに都合のいい神の国がどこにあるのでしょうか。わたしたちは無意識のうちに善悪を判定する判定者になって、自分は善でも悪でもないところに立って考えている、このようなわたしは一体何者なのでしょうか。わたしがよい麦にも毒麦にもなる、何が善か悪かもわからないわたしが、一体どのようにして救われるというのでしょうか。

わたしたちは善人だから、よい結果をだしたよい麦だから、賢明な判断をしたよいおとめだから、もっとも小さいものに施したものだから救われるのではないのです。そんなことさえわからないわたしなのです。わたしたちは生きていくときに善だけで生きられるということはない、また悪だけという人もいないのではないでしょうか。善いことをおこなえる状況にあれば、よいことをいったり、したりすることもできるでしょう。しかし、悪を行わざるを得ない状況に置かれたら、どんな悪いことでもしてしまうのが人間なのです。わたしがよい心の人間だから悪いことをしないのではないのです。たまたま、そうなのです。イエスさまの話を聞いて、感動に打ちひしがれるときもあれば、何にも感じないときもある、たいそう立派な美しい心になったと思えるときもあれば、自分の心のどす黒い醜さに絶望してしまうときもあるのではないでしょうか。わたしの心が善くなり、清くなったから救われるのでしょうか。わたしの心が醜い、また罪人だったら救われないのでしょうか。そうではありません。イエスさまは「わたしはあなたを救う」というお名前です。イエスさまが、「わたしはあなたを救う」といわれるからわたしたちは救われるのです。救いはイエスさまの働きです。それなのに人間が善悪の区別を作り出したり、山羊や羊の区別を作り出したりして、イエスさまの救いを人間が決めるような小賢しいことをすること自体、愚かなことであり、イエスさまのお心に沿うことではないのです。救いは人間の善し悪しによって決まるのではなく、イエスさまのすべての人を救うというお約束によるのです。イエスさまご自身がすべてのものをもれなく救うと誓われたご自身への誠実が、わたしたちの救いの根拠なのです。 

イエスさまはわたしたちを救われるのは、わたしたちの中には何かよいものがあるからではありません。わたしたちはイエスさまによって救っていただかなければ、あわれんでもらうことしかできない存在なのです。わたしたちはイエスさまにあわれんでもらうしかない、何をしでかすかわからない、あわれな罪人なのです。別にあれやこれやの罪を犯したということではなくても、何でもしてしまう得体の知れない存在なのです。その罪悪深重の凡夫を救うといわれるイエスさまの誓い、そしてそのイエスさまのご自身への誠実によって、わたしたちは救われるのです。それなのに、わたしたちは我が身の善し悪しをはかり、小賢しい小手先のわざでイエスさまの救いを推し量ろうとするのです。唯々愚かとしかいいようがありません。わたしの善し悪しやわたしの小賢しい理屈など何の足しになるというのでしょうか。わたしはよい麦で、他の誰かが毒麦とでもいうのでしょうか。マタイの教会のときから、そんなことをやってきたのがわたしたちなのです。単に、わたしたちをいつくしんでくださいなどとはいえないのです。どうぞ、主よ、わたしをあわれんでくださいとしかいうことができないのが、わたしたちなのです。